第15話 禁断症状

「眼鏡、眼鏡……!」


 どこをどう走ったのかは、わからない。イェリナはただ、客室へ案内された道順を遡って駆けた。

 イェリナの頭を支配するのは、眼鏡の存在ただひとつ。

 使用人や衛兵とすれ違うことなく裸足のまま大公邸の庭を駆け抜け、あと少しで門へ辿り着くというところで、イェリナの行手を阻むように立ち塞がる長身の影がひとつ。雲間からわずかに覗いた月明かりが、燃えるような赤い髪を浮かび上がらせている。


「お嬢さん、夜の散歩かな?」


 カーライル大公邸の門からあらわれたのは、アドレーだった。身につけているのは仕立てのいい学生服で、月光に照らされた頬にはうっすらと赤い紅葉の模様。


「こんな夜更けにどうして……ここは大公邸ですよ?」

「まさかセドリックがお嬢さんを家に連れ込むとは思っていなかったな。……なあ、お嬢さん。君のどこにそんな魅力があるのか、俺に教えてくれないか?」


 アドレーの目が捕食者のようにすぅっと細まる様が、なんともなまめかしい。

 けれど今のイェリナにはどうでもよかった。アドレーの顔には、なにも視えない。縁なしリムレスフレームの幻視眼鏡が視えないアドレーには、用はない。

 イェリナはジリジリと後ずさり、アドレーと距離を取る。


「あ、あの……、わたし……先を急いでいるので」

「待て、待てよお嬢さん。すまない、冗談が過ぎた。いくら王都の治安がいいからって、夜更けに淑女レディがひとりで歩いていい場所はないぞ」

「……その、寮に戻ろうと思って……」

「寮に? どうして。このまま朝まで大公邸に世話になっていればいいじゃないか」

「でも、わたし……——がないと……眠れないし起きれないし生きた心地がしないし挙動不審になるし泣けてくるし、とにかく、——がないと駄目なんです!」


 イェリナの訴えが聞き取れなかったのか。アドレーが聞き返す。


「……は? なんて?」

「ですから、わたし、眼鏡がないと生きていけない人間なんです!」


 眼鏡の名を口にしたことで、余計に飢餓感が増してしまった。まるで禁断症状のように手足が震え出す。


「……め、メガ? ……そういや、この前もセドリックのことメ、メ、メガ……なんとかって呼んでたな」

「メガなんとかじゃなくて、眼鏡です。わたしの大事な大事な眼鏡さま! 部屋の金庫にしまってあるんです!」

「ふーん。よくわからない話だが、助けてやろうか」

「え?」


 イェリナは薄茶色の目をパチクリと瞬かせて聞き返していた。

 アドレーの真意がわからない。もしかして罠だろうか。イェリナがセドリックやサラティアに近づくことを厭うアドレーが、親切にしてくる意図が読み取れない。


「寮に戻りたいんだろ? 俺もお嬢さんに借りがあるから返したい。な? 悪い話じゃないだろう?」

「それは、そうなんですけど……でもわたし、あなたに認められるように頑張るってセドリックと約束したので」


 アドレーと距離を取りつつも毅然とした態度でイェリナは告げた。

 これはアドレーを信じていいのか悪いのか、そんな話なんかじゃない。イェリナがはじめてセドリックと交わした約束の問題だ。

 イェリナは深呼吸をひとつ。息を吐き切ってから思い切り吸い込んで、口を開いた——その時だった。


「イェリナ!」


 短く名前を呼ばれたときには、イェリナはもうセドリックの腕の中にいた。

 決して離さない、という意志が込められた腕がイェリナの身体に巻きついて、飛び出してきてしまったためにボサボサなままの頭をセドリックの胸元へと押しつけている。


「アドレー、よくやった」

「お嬢さんを引き留めておいた俺に感謝しろよ」

「えっ。……え? ちょっとアドレー様! 助けてくれるんじゃなかったんですか!?」

「ごめんな、お嬢さん。俺の主人あるじはお嬢さんじゃなくて、セドリックこいつだからさ」


 だから、はじめからイェリナを大公邸の外へ出すつもりはなかったのだ、とアドレーが片目を瞑るのを、セドリックの腕からどうにか逃れたイェリナは見た。


「そ、そんな……」

「ま、俺としてはお嬢さんがこのまま寮に戻ってくれた方が都合がいいんだけど」

「アドレー」


 セドリックの黄緑色の目も、アドレーの深い緑色の目も、どちらも真剣そのもので、その間にイェリナが割って入れるような隙はない。


「イェリナ、行こう。……話を聞かせてくれるね?」


 気づけば、セドリックの逆丸三角形ボストンフレームの幻覚眼鏡が、月夜の光を受けてぼんやり輝いていた。

 そんな幻想的な眼鏡風景に満たされたイェリナは、一刻も早く寮へ戻りたい気持ちとは裏腹に、コクリと小さく頷いた。

 だからイェリナは大人しくセドリックに方向転換させられて、金庫にしまった眼鏡と再会することは叶わなくなったのである。


 §‡§‡§


「イェリナ、どうして抜け出そうとしたのかな?」

「わたし、眼鏡を摂取しないと生きていけないの」


 裸足のイェリナを連れて客室へ戻ったセドリックは、イェリナの汚れた足を拭きながら理解し難い理由を聞かされたとき、イェリナのメガネへの愛の深さに打ちのめされた。

 たった一夜の離別が耐えられないなんて、と。


「イェリナは本当にメガネが好きなんだね」

「あっ……すみません。でもセドリック、それは違います。好きなのではなく、愛しているのです」


 セドリックの目を真っ直ぐ見つめて言い切ったイェリナの顔は、どうしようもなく真剣だ。イェリナの心を手に入れるには、メガネなるものに勝たなければならないらしい。


「……イェリナの情熱はメガネから来ているものだとわかっていたけど、これ程とは思わなかったな。メガネのために僕を利用するほどの愛、か」


 イェリナがビクリと肩を跳ねさせて青褪めてゆく。

 セドリックはメガネなるものを識るために、敢えて意地の悪い言い方をした。心臓の裏側がズキズキと痛みを訴えている。微笑む余裕だって、セドリックにはない。


「……ごめんなさい、セドリック。でもわたし……落第するわけにはいかないの、特待生だから。それに第三学年でしか受けられない錬金術実践を取りたい。憧れの眼鏡素材、合成樹脂プラスチックを精錬するためにも」

「……合成樹脂プラスチック?」


 わたわたと言い訳を並べるイェリナの口から、メガネ以外の聞き慣れない単語が飛び出して、セドリックは思わず聞き返していた。

 もしかして手強いのはメガネなるものではなく、イェリナ自身なのでは?

 イェリナはセドリックに聞き返されたことが嬉しかったのか、途端にいつかのように目を輝かせて話しはじめた。


「はい、合成樹脂プラスチックです! ええと……なんて説明すればいいのかな……実際に見たことはないんですけど、ある液体が手に入れば、錬金術で作り出せるはずなんです!」

「液体? 特殊な液体が必要なの?」

「はい! ……この世界でも金剛石ダイアモンドや金が当たり前のように採掘できるんですもの、絶対にどこかにあるはずなんです。液体……液体なのかな? 石油っていうんですけど、えっと……多分、黒くて臭いがあって、燃える水」

「黒くて臭くて燃える……水?」


 イェリナが告げたその水を、セドリックはよく知っていた。

 ドクドクと心臓が激しく高鳴る。口の中がカラカラに干上がって、それなのに手のひらは汗でびっしょりだ。


(知っている。ソレが採れる場所を僕は知っている……!)


 黒くて臭くて燃える水。呪われた不毛の地セーリング領に、それはある。

 いたるところから湧き出して、けれどなんの役にも立たせることができずに民を困らせている呪いの沼だ。この沼のせいで領地の開拓は阻まれ、セーリング領はカーライル大公家の領地の中でもお荷物領として忌避されている。


(もしかしてセーリング領の呪われた沼というのは……!)


 セドリックの心がたかぶった。けれど慎重に。がっつくような紳士らしからぬ態度を取らぬよう、イェリナの話の続きを待つ。


「石油はですね、地下深く掘っていると運がよければ湧いて出てきます。でも、場所によっては掘らなくても自然に湧くこともあるんです。使い方を誤ると環境を汚染しますし、生態系サイクルのバランスも崩れる恐れがあるんです。もしかしたら、文化や文明のあり方を変えてしまうかもしれない……」

「そんなに危険なものなの?」

「使い方を誤らなければ、素晴らしい資源です。合成樹脂プラスチックは、王国の資源採掘や価値観をガラリと変えることでしょう」

「イェリナ、そのセキユというのは、合成樹脂プラスチックしか作れないものなの?」

「いいえ、とんでもない! 繊維素材や燃料にもなります。……まあ、燃料は魔法石に敵うものはないので、予備的なものになると思いますけど……他にも舗装用や防水用の素材になったり……使い道は無限大です! あ、そっか……そうか……石油を見つければいいんだわ。そうしたらアクリル樹脂も夢じゃない……プラスチックレンズ……UVカットレンズも作り出すことが……!?」


 イェリナが自分の世界に浸ってしまった一方で、セドリックもまた自分の世界で頭をぐるぐるめぐらせていた。


「……セキユ……そうか、そういうことか」


 ご先祖様がカーライル大公家の血に呪いをかけたのは、この日のためだったのかもしれない。

 確かにこれは、これならば、メガネなるものを識る人間は、イェリナの知識は、カーライル家の呪いを祝福に変えることができる。

 ああ、これは運命だ。イェリナは、星祭りが近いこの時期に、神が遣わした奇跡だろう。セドリックは衝動のままに、イェリナの冷えた手をそっと取って握りしめた。


「イェリナ」


 ひと呼吸して覚悟を決めると、イェリナの前に片膝を立ててひざまずく。溢れる思いを抑えきれなかった。


「な、なんですか、セドリック!? ちょ、立ってください!」

「君は僕の祝福だ。僕は君の心が欲しい」

「えっ。……え?」

「今の言葉を覚えていて、イェリナ。この瞬間だけは、打算もなく、君だけを想っている」


 セドリックはイェリナの手にそっとくちづけて、思いの丈を真摯に囁いた。

 愛を囁いたものの、セドリックの恋敵ライバルはイェリナが愛して止まないメガネなるものだ。セドリックは、わたわたと戸惑うイェリナを可愛いなと思いながら、頭の端の方で必死に策を練る。

 生半可な策では、イェリナの愛をメガネから引き離すことなどできないだろう。


(どうにかしてイェリナの気を引けないか。例えば、メガネを……)


 イェリナを見つめるセドリックの目がすぅ、と細まった。自分の呼吸音だけが耳の奥で響いている。


「おやすみ、イェリナ。よい夢を」


 頭の芯が冴え渡る感覚にセドリックは平静を装ってイェリナの部屋を後にした。

 セドリックは駆け出したい衝動を抑えることで精一杯だった。


 §‡§‡§


 翌朝、どんよりと曇る空の下。イェリナは目覚めるなり支度を整え、書き置きを部屋に残して大公邸を抜け出した。

 どうしてもイェリナの眼鏡に会いたかったから。触ってでれる眼鏡に会いたい。


(ひと晩耐えただけでも自分を褒めてあげたい。でもこれ以上は無理……!)


 そういうわけで寮の部屋に戻ったイェリナは、自分の部屋の扉を開けて愕然とした。


「う、嘘でしょ……金庫が……わたしの眼鏡さまが……!」


 荒らされていた部屋など、どうでもいい。イェリナが釘付けになったのは、開かれたクローゼット。そこからもぎ取られぽっかりと開いた穴。

 イェリナの大事な大事な眼鏡さまが匿われていた金庫が、ごっそり無くなっていたのである。

 部屋に入れず呆然とするイェリナ。足の力が抜けてへたり込んだところで、女子生徒が声をかけてきた。


「あら、バーゼル令嬢。どうなさったの?」


 イェリナが力なく振り向くと、そこにいたのはオレンジ色の髪の令嬢だった。どこかで見たことがある気がするけれど、覚えていない。

 彼女はどこか意地の悪い笑みを浮かべていた。けれど、それどころではないイェリナは彼女の様子にまったく気づかなかった。


「あ、あの! わたしの部屋に入ったひとを見ていませんか!? 金庫が……金庫が!」

「残念ね、あなたの大事な大事なカーライル様がお命じになられました。金庫を持ってくるように、と」

「え。……えっ?」


(セドリックが……? どうして……)


 眼鏡が金庫ごと無くなってしまったからか、それともそれを命じたのがセドリックであると聞かされたからか。

 イェリナはショックで頭の中が真っ白だ。その後、誰が話しかけてもなんの言葉も耳に入らずに、無くなってしまった金庫の跡をただ見つめることしかできない。

 窓の外ではしとしとと、針のような細い雨が降りはじめていた。

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