第4章 喪失

第16話 どこにもない

「……う、そでしょ……めがね……めがね、さま……」


 イェリナは寮の荒れ果てた自室の真ん中で、眼鏡さまが鎮座ましましていた金庫の消失跡を眺めたまま、ただ呆然としていた。

 乱雑に開かれ投げられたノートや本、バラバラに散らばったペンや工具。それらは少しも視界に入らない。イェリナの視線を独占しているのは、空のクローゼットただひとつ。


(どうしてセドリックが、こんな酷いことを……)


 金庫ごと眼鏡を攫って行ったのは、セドリックの指示を受けた者だった、らしい。絶望に沈むイェリナに囁いた他人ひとの顔はおぼろげだ。

 オレンジ色の髪の令嬢が囁いた話が本当なのか、嘘なのか。そんなことを考える余裕もない。

 イェリナにわかるのは、宝物である眼鏡が盗まれたこと。ただそれだけだ。

 苦労して作り上げた眼鏡は、もう手元にはない。眼鏡を手に取りかざして眺めることも、頬擦りして愛でることも、もうできない。

 身体に力が入らない。背中は丸まり、呼吸が苦しい。視界は絶望に染まって黒く霞み、思考は真っ白に塗り潰された。肋骨の内側に鉛が流れ込んだかのように、胸が重い。時間の感覚だってない。耳は音を拾わない。

 なにもない。イェリナには、もうなにもなかった。

 イェリナは空っぽになってしまったクローゼットを見つめて、重くなってゆく胸の内を絞り出すようにうめいた。


「ど、して……わたしが、わるいの……?」


 もしかしたら、幻覚眼鏡にうつつを抜かした罰なのかもしれない。

 そんな考えがふと浮かび、イェリナは自罰的に心の奥へと閉じこもる。なにもかも悪いのは、自分自身。安易に心を許した自分が悪い。けれど、眼鏡の話を真剣に聞いてくれたひとなんて、はじめてだったから。

 そう考えて、はじめて気づいた。イェリナはセドリックに心を許していたことに。


「セドリック……わたしを、裏切ったの?」


 青褪めたくちびるに乗せた名前はまるで針のよう。イェリナの胸が切なく疼き痛みを訴える。

 裏切るもなにも、セドリックを利用していたのはイェリナだ。幻覚眼鏡に夢中になって、セドリックがイェリナになにを望むのか、少しも考えたこともない。そんな一方的な関係だったのに、セドリックはイェリナに随分と優しくしてくれた。

 セドリックの柔らかく微笑む笑顔を思い出す。

 けれど、裏も表もない他人なんていない。笑顔で明日もよろしくね、と言った口で、翌日には、あなた誰? と怪訝な顔をする。前世で会ったそういう他人との思い出が、頭の中で次から次へと再生される。

 その途端、イェリナの身体がガクガクと震えだした。


(眼鏡をかけていない他人ひとは、やっぱり信用できない)


 他人の好意の裏側が。ニコリと微笑んだことを翌日には忘れてしまう薄情さが。覚えていることが気持ち悪いとでも言うかのような視線と顔が。

 そのすべてが怖かった。

 この世でただ一つの眼鏡を失ったイェリナの心は、先祖返りならぬ前世返りを引き起こし、前世の業と怨念とが入り混じってぐちゃぐちゃだ。

 心を許して眼鏡を語ったセドリックに裏切られた。ただそれだけの話だというのに。

 前世のように、もう二度と関わらなければいいだけではないか。そんな極端な考えすら頭に浮かぶ。

 今からだって、遅くない。サラティアを頼って星祭りのダンスパートナーを見つけ直せば、単位だって死守できる。

 そのはずなのに。

 どうしても嫌だった。セドリック以外の他人と踊るのは、考えられなかった。まだ一度もセドリックと踊ったことなんてないのに。


(わたし、セドリックを失いたくないんだ。信じていたいんだ)


 けれど、眼鏡を奪われた理由を探そうとすると、思考が一方通行になって、堂々巡りになるからいけない。

 幻覚眼鏡にうつつを抜かした自分が悪い。物理眼鏡を持ち歩いていなかった自分が悪い。簡単に心を許してしまった自分が憎い。

 次から次へと感情が湧いて出るのに、いつまでも同じところをぐるぐる回っている。これはもう、喪失の痛みに浸るための現実逃避だ。

 だから、心の殻に閉じこもったイェリナは自分の背中にひとつの影が落ちたことに気づけなかった。




「イェリナ・バーゼル男爵令嬢、無断欠席とは何事ですか!」


 しん……と静まり冷え切ったイェリナの部屋に大音声だいおんじょうが凛と響き渡る。

 時が止まったかのような重苦しい空気がビリビリと震えるのが、俯いたままのイェリナにもわかった。

 けれどイェリナは顔を上げることができなかった。振り返って返事をすることも、喉を震わせてサラティアの名前を呼ぶことも。糸が切れた人形のように項垂れることしかできない。

 イェリナの魂の在り方を示す眼鏡が奪われて、身体と心の繋がりがほどけてしまった。イェリナはまるで他人事のようにサラティアの声を聞く。


「主席特待生の貴女が欠席なん……これは一体、どういうことですの!? 怪我は……怪我はございませんの? 誰がこんな酷いことを」


 答えようと開いたイェリナの口は開かない。無理矢理呑み込んだ唾は乾いて張りついて、喉を潤すこともできない。イェリナにできたのは、床に散らばった精密螺子回ドライバーをぼんやり凝視することだけ。

 微動だにしない視線を不審に思ったのか、サラティアが散らかる床に膝をつく。震えるイェリナに寄り添うように。


「……イェリナ様?」


 暖かく可憐な手がイェリナの背中を撫でさする。


(……あっ)


 それまで強張っていた筋肉が、引き攣っていた表情が、サラティアの手のひらから染み込む熱で溶かされてゆく。

 その途端。イェリナの渇いた口から、堰を切ったように言葉が溢れ出した。


「…………い、いいんです。わ、わたしが……わたしがわるい、から」


 いつの間にか握りしめていた手に食い込んだ爪の痛みは、取るに足らない痛みである。そんな痛みよりも、心に負った傷が深く痛い。

 イェリナは力なく首をふるふると振った。自身に起こった悲劇をすべて受け止めるかのような自罰的な態度に、サラティアの眉根がきつく寄り、苛立ちと悲しみが混じって眉尻が垂れてゆく。


「よ、よくない……よくなんてないわ……。……イェリナ様、落ち着ける場所へ行きましょう。ご案内しますから」


 サラティアはそう告げると、バラバラに散らばったペンや工具、ノートに本をかき集め、ひとまとめに適当な鞄の中へザラザラ放った。そうして鞄とイェリナの腕とを取って立ち上がる。

 死んで凪いだ心でも、イェリナは反射的に釣られるように立ち上がると、立つことで高くなった視界に、荒らされて悲惨な部屋の状況がようやく飛び込んできた。

 まるで誰かに恨まれているかのような部屋の有り様に、イェリナは僅かばかり首を傾げてしまった。


(セドリックは……ここまで酷いことをしろ、と言うようなひと……だっけ? ……だめ、よくわからない)


 回りきらない頭では、所詮セドリックも眼鏡をかけていないただの他人ひとなのだ、と極論を導いてしまうだけ。イェリナは浮かんだ疑問を宙空に漂わせて保留することを選んだ。


「行きましょう、イェリナ様」


 凛と響く力強い声に、力をなくしたイェリナの身体に僅かばかり芯が戻る。

 イェリナはサラティアに腰を抱かれ手を握られて、小雨が降る中、学生寮を後にした。そうして寮門前に停められたビフロス伯爵家の黒鉄色の馬車へと乗り込んだ。




「サラ、お嬢さんには会え……え?」


 馬車の中にいたのは、随分とけんの取れたアドレーだった。深緑色の目はまるく、おろおろとイェリナとサラティアを交互に見ている。


「待て、待って。お嬢さんの様子を見てくるだけだって言ってただろ!? なんで連れて来てんだ!」

「黙りなさい、アドレー・ローズル侯爵子息。わたくしはもう、黙ってあなたの言うことを聞くだけの都合のいい令嬢ではありませんの。……いいからイェリナ様の荷物を持っていただける?」

「わ、わかった……サラが言うなら」


 サラティアの鋭く細められた視線と声とで、ずぶりと刺されたアドレーは、サラティアから鞄を慌てて受け取った。

 別にたいしたものは入っていないのに、と思いながら、アドレーが慎重かつ丁寧に鞄を抱えて座席に座り直すのを、イェリナはぼんやり見守る。

 その視線をどう捉えたのか。隣に座ったサラティアがイェリナに柔らかく微笑みかけた。


「イェリナ様、ごめんなさいね。この男は荷物持ちだと思って無視してくださって構いませんわ」

「……………………そ、ですね」


 長い沈黙のあとに付け足すようにイェリナが告げる。と、カチコチに固まって正面に座っていたアドレーが、顔を青褪めさせてイェリナに声をかけた。


「お、お嬢……さん? ど、どうした……? なにが……」


 なにが、と問われて返す言葉が出てこない。そもそも目の前に座るこの赤毛の学生の名前が出てこない。

 眼鏡がなければ他人の顔と名前を一致させることができない業は、いまだ健在だ。今のイェリナは、幻視眼鏡を顕現させようという基本的な眼鏡欲すらない。

 失ったものが多すぎて、話すべき言葉が喉の奥で渋滞している。イェリナは申し訳ないと思いながら顔を伏せた。


「……アドレー、貴方。昨夜わたくしに叩かれて改心なさったのではなくて? どういうことですの、どうしてイェリナ様が……わたくしの大切なお友達が泣くような羽目になっているのです?」

「ご、誤解だ……俺は、俺はサラを……」

「わたくしを言い訳に使わないでいただけません?」

「……す、すまない! すべて俺が悪い。お嬢さん、本当にすまなかった」


 なにに対して謝られているのか。頭の回転が本調子ではないイェリナにはわからない。けれど、アドレーだけが悪いなんてこと。それだけは信じられなかった。


(だって、物理眼鏡があるというのに幻覚眼鏡に浮気したわたしが悪いのだから!)


 イェリナは奥歯をぎゅっと噛み締めて、叫び出したい衝動をどうにか抑える。

 心を閉ざしたイェリナは、もうなにもかも煩わしくなってしまって、窓の外を見た。イェリナが乗車した馬車がどこへ向かっているのかはわからないけれど、学院アカデミーの正門前を通り過ぎようとしているところだった。


「……あら? あれは……カーライル様? どういうことなの……ロベリア様に寄り添われているなんて」


 窓の外へ視線を向けていたサラティアが急に青褪めた顔で呟いた。

 狭い馬車の中では小さな呟きも拾ってしまう。だからイェリナは釣られるように窓を見た。

 サラティアの言うように、セドリックの傍らにはロベリアが。いや、ロベリアの傍らにセドリックがいるではないか。

 セドリックがロベリアの細い腰を支えるようにエスコートしている。イェリナはセドリックのあの腕が、とんでもなく優しいことを知っている。彼の眼差しが柔らかく微笑んだときの甘さを知っている。だから余計に空になったはずの胸に痛みが響く。

 ロベリアは満足そうに微笑み、セドリックになにか話しかけていた。セドリックは口数少ないものの頷きながら応えているようだった。

 イェリナの傷だらけの指先が、カリ、と窓を引っ掻いた。


「セド、リック……?」


 痺れるような痛みを伴う名前を舌に乗せ、呟いた途端、涙がボロボロこぼれ落ちた。薄茶色の目は大きく見開いたまま、窓の外のセドリックを凝視している。


「え、あ……!? お、お嬢さん!?」

「い、イェリナ様っ!?」


 嗚咽もなく、身体が震えることもなく、ただポロポロと大粒の涙が音もなく溢れて頬を伝い落ちてゆく。

 セドリックは眼鏡をかけていない。そんな彼を思って泣くなんて、眼鏡に対する酷い裏切り行為だ。眼鏡への愛も、眼鏡を愛するイェリナを馬鹿にしなかったセドリックの存在も、流れ落ちる涙でさえ。これ以上、なにも失いたくない。

 いつの間に、こんなに強欲になってしまったのだろう。イェリナの意志を無視して涙が流れ、制服の上にぼたぼたと落ちては吸い込まれてゆく。

 イェリナの視線はセドリックから外れない。セドリックの姿が遠ざかり、馬車が角を曲がるまでずっとずっと外れなかった。心配そうに背中をさするサラティアの声も、わたわたと狼狽えるアドレーの姿も、なにも入って来なかった。

 ロベリアの細い腰を支えるセドリックの手が。気遣うようにエスコートする態度が。網膜に焼きついて瞬きの間ですら、ふたりが寄り添う光景が視界の端にチラついて、イェリナの胸をさいなんでいる。


(本当になにもかも失ってしまったんだわ……)


 奪われ失ったものが眼鏡だけではなかったことを唐突に自覚して、イェリナは目の前が真っ暗になった。

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