第17話 眼鏡なら信じられたのに

 学院アカデミー正門前ですれ違ったビフロス伯爵家の馬車を横目に見ながら、ロベリア・マルタン侯爵令嬢はほくそ笑んだ。

 イェリナは、きちんと見てくれただろうか。そうでなくても明日になれば、学院アカデミー中に噂が広まる手筈になっている。セドリックが選んだのは無礼な田舎娘などではなく、高貴なる令嬢ロベリアである、と。ロベリアは明日の様子を想像し、上機嫌でセドリックの腕に自分の細い腕を絡ませた。


「セドリック様。星祭りは私と踊っていただけますわよね?」

「君が約束を守るなら」


 間髪入れずに返された応答は、酷く冷たく渇いていた。

 セドリックは、不本意な状況からくるロベリアへの不満や嫌悪を完全に胸の内へと抑え込み、表面上は紳士的で穏やかな仮面を被っている。


「セドリック様が私と踊る代わりに、あの田舎娘は私の婚約者と踊ってもらう——そうすればあの娘は、星祭りの単位を取れるのですから、そんな怖い顔をなさらないで?」

「……君はそれでいいのか? そんなことをしたら、君の有責で婚約破棄されるのではないかな」


 ロベリアは、ともすれば萎れてしまいそうになる心に蓋をして、たおやかな淑女の仮面を被ってころころと笑った。

 だって、もう決めたのだ。あの方とは婚約破棄をする、と。いつまでも追いかけていないで、諦めるのだ、と。


「ご心配なさらなくても結構よ。私の婚約者は私に興味などありませんもの。どうせ当日踊るのは、あの方の代理人よ」


 ロベリアは諦めが滲む声で言い捨てた。惨めな令嬢にはなりたくなくて、毅然とした態度で微笑んだ。

 星祭りの伝説を利用して、婚約破棄をする。本来ならば叶うことのない恋の成就に見せかけるというのは、元々はアドレーがロベリアに持ちかけた策だ。

 ロベリアのダンスパートナーである婚約者は、去年も一昨年も星祭りには現れなかった。婚約者が寄越したのは代理の者だけ。今年も代理人を遣わすことだけを書いた簡素な手紙が届いている。

 不在の謝意を伝える贈り物もなく、けれど婚約していることを示すためだけにロベリアは代理人と踊る。婚約者側の都合で公表されない婚約関係。

 それがもう、耐えきれなかった。


(私は物じゃない。予約済みであることをアピールするためだけに踊るなんて、もう嫌よ!)


 ロベリアがニコリと笑う。鉄壁な淑女の微笑みを浮かべ、絡めたセドリックの腕を指先で摘みながら。


「セドリック様。私の手の内に、お忘れになどなりませんように」

「……わかっているよ、マルタン令嬢」

「あら、そんなに嫌そうな顔をなさらないで。あなたの従者が裏切ったのが悪いのです。従者の咎は主人が追うのが当然でしょう?」

「そうだよ。だから君と誓約を結んだ。星祭りが終わったら、必ずイェリナに金庫の中身を返してくれるように」

「私の誓約魔法で縛ったのです、約束はたがえません」


 ロベリアは、不本意だと眉を寄せるセドリックに甘く微笑み囁いた。


「いけませんわ、セドリック様。私のことはロベリアと呼んでくださらないと。私とセドリック様のどちらが優位か……わざわざお教えしなくとも、わかっておられますでしょう?」

「…………ッ」


 返す言葉を詰まらせたセドリックの表情は、苦々しく歪んでいた。対するロベリアの頬はいびつに緩み、上気して桃色に染まっている。

 アドレーとの共謀関係を解消する際、ロベリアはアドレーにイェリナの弱みをひとつ提供させた。それが、学生寮にある金庫。その中身である。

 金庫の中身の価値をロベリアは知らない。けれど、それがあるから、あんなに手を伸ばしても心を得ることができなかったセドリックを、今は自在に黙らせることができる。


「セドリック様は大人しく、私にはべってくださればそれでいいのです」


 ロベリアは込み上げる愉悦をひび割れた淑女の仮面の奥へと押しやって、とろけるような甘い微笑みでセドリックにしなだれかかる。

 けれど、その紫色の瞳の奥には隠し切れない仄暗い炎がチラチラと揺らめいていた。


 §‡§‡§


 セドリックも眼鏡も失い、声なきまま涙を流すイェリナを乗せた馬車が、ゆっくりと停車した。たどり着いたのは、王都の貴族街にあるビフロス伯爵邸だ。

 伯爵邸の来客用応接室へと通されたイェリナは、長椅子ソファに座らされ、ただ震える両手を見つめることしかできない。そんなイェリナの手を、隣に腰掛けたサラティアの柔らかく暖かい手が包み込む。


「イェリナ様。学生寮でなにがあったのか、聞かせてくださいますわね?」

「……はい」


 イェリナは涙を呑み込むように頷いた。心配そうに様子を窺うサラティアと、無言を貫くアドレーに、包み隠さず話して聞かせた。

 この世唯一の眼鏡を金庫ごと奪われたのだ、と。それを指示したのがセドリックらしい、ということを。

 

「カーライル様が、そんなことを?」

「お嬢さん。俺が言えた義理ではないが……セドリックを信じてやってくれないか」

「……わ、わた……わたし、も。……し、信じることが、できたらよかったのに。でも、セドリックが……セドリックが眼鏡なら信じられた、のに」

「め……メガ? あの、イェリナ様?」


 サラティアの戸惑った声を聞いて、眼鏡に盲目的だったイェリナはハッとした。

 信じる価値もなく悪意を向けるひと達は、眼鏡をかけていないひと達ばかりだった、というのは事実ではなく、ただの思い込みだったのではないか、と。

 なぜならイェリナは今。たった今、現在進行形でサラティアの優しさに慰められている。優しく寄り添う誠実さを受け取っているから。

 けれど、その一方で、幻覚眼鏡をかけたセドリックは、イェリナの大事な物理眼鏡を金庫ごと奪っていった。


「さ、サラティア様……っ、わたし……もう、どうしていいのか、わかりません」


 ぐちゃぐちゃに絡まってしまった頭を抱え、イェリナが縋るようにサラティアの手を握る。

 イェリナの乱れた心を落ち着かせるように、何度も何度も撫でさすってくれるサラティアの手。その温もりがじわりじわりと染み込んで、イェリナの融通の聞かない凝り固まった思考を少しずつ溶かしてゆく。


「イェリナ様……貴女はわたくしの人間としての誇りを思い出させてくれました。だから貴女も思い出して。カーライル様は本当にそんなことをするお方?」


 嗚呼、とイェリナは声に出さずに嘆いて俯いた。

 

(眼鏡のあるなしで信じられるかどうかを決めるなんて……わたしがどうかしていた。前世はたまたま運がよかっただけで、眼鏡をかけていても悪いひとはいるのに!)


 セドリックに出会い、その人となりを知った。眼鏡を語るイェリナを、拒絶することなく受け止めてくれた優しいセドリック。

 けれど、イェリナが触れたのはセドリックのほんの一部だ。

 眼鏡の話を受け止めてくれたのではなくて、眼鏡を狙っていたのなら?

 この世界のひと達は眼鏡を知らないはずなのに、セドリックは眼鏡を知っているようだった。セドリック以外のひとは皆、眼鏡の発音がおぼつかなかったのに、セドリックだけは惑うことなくメガネと言っていた。

 浮上しかけたイェリナの心は再び沈む。


「わたし……セドリックを信じられない……駄目なんです、信じたい気持ちはあるのに……」


 これはもう、理屈じゃない。理屈じゃないからあらがおうとすると涙が滲む。胸が軋んで悲鳴を上げる。イェリナは濡れた目元を自分の指で乱雑に拭った。


「ねえ、イェリナ様。貴女、寮の金庫に宝物メガネがあるって、カーライル様に、いつ、どこで教えたのです?」

「えっ。……え?」


 問われてはじめて気がついた。イェリナの頭が急速に回転し、セドリックとの出会いから昨夜の脱走未遂事件までの三日間を振り返り、息を呑む。


「教えて……いない!」


 その結論に至った瞬間、頭の中に漂っていた霧が唐突に晴れたような爽快感を味わった。心臓がどきどきする。呼吸だって早くなる。イェリナは全身に血が通うような熱さを感じながら、目を潤ませたままサラティアを見つめた。


「少なくとも、イェリナの話を聞いただけではメガネなるものが存在していることはわからないし、金庫の話なんてしていないのではなくて?」

「話して……いない! いない、のですが……そういえば昨夜、アドレー様には話した……ような?」


 イェリナがそう言った途端、サラティアの首がぐるん、と勢いよく回ってアドレーを見た。


「アドレー・ローズル侯爵子息!」

「ち、ちが……違うんだサラ!」

「言い訳無用! 本っ当に貴方というひとは!」


 サラティアが鬼のような形相で立ち上がり、アドレーに詰め寄った。

 勢いよく手を振り上げて、今にもその手をアドレーの頬へと叩き込みそうなところを、イェリナが慌てて止めに入る。


「サラティア様、落ち着いてください! 確かにアドレー様にはお話しましたが、それとこれとは関係がないのでは!?」

「イェリナ様はお人好しが過ぎますわ! この男がどのような男なのかは、わたくしがよく知っています!」

「サラ……お前、俺のことをそんなに……?」


 アドレーが場違いなのか勘違いなのか、乙女のように頬をぽっと赤らめた。


「黙りなさい、アドレー・ローズル! ……貴方がロベリア様と縁を切るために支払った代償を言いなさい。どうせイェリナ様の情報を売ったのでしょう? 貴方がわたくしやカーライル様のことを売るはずがないもの」

「そ、それは……」


 厳しく冷たいサラティアの声によって正気に戻ったアドレーが言い淀む。

 視線を床方向へと落として冷や汗をかくアドレーの姿に、イェリナは思わず横から口を挟んでしまった。


「あ、あのっ! アドレー様はセドリックやサラティア様が大好きすぎて過保護になっているだけなんです! セドリックに近づく田舎貴族で得体の知れない不穏分子ヤベー奴であるわたしを売るのは、なにも珍しいことではありません!」

「……イェリナ様、気力を取り戻されたことはなによりです。でもね、いいのよ。この男を庇いだてする必要はありません!」


 カッと目を見開き、背筋を伸ばし、凛とした態度を通り越して苛烈な様を見せるサラティア。アドレーだって震えている。

 けれどイェリナは怯むことなく、まっすぐサラティアを見た。


「アドレー様はサラティア様のことをお慕いしているのに?」


 そうじゃなかったら、アドレーがイェリナを牽制するわけがないのだ。すべてはサラティアを心配してのことだったのなら、辻褄が合う。

 けれどサラティアは、イェリナの言葉にニコリと笑った。笑って首を振ったのだ。縦ではなく、横へと。


「まさか。そんなこと、ありませんわ。家同士が決めた婚約者ですもの。政略結婚ですから、わたくしもアドレーも、思い合っているなんてことはありません。そうでしょ、アドレー?」

「……、…………ッ」


 サラティアの冷静な言葉にアドレーは同意しなかった。それどころか言葉を詰まらせて、どこか悲しげに目を伏せている。これにはサラティアも動揺したらしい。


「あ、アドレー……? そんな……貴方、少しもわたくしに優しくしてくれなかったじゃない! 昨年は仕方がなかったとはいえ、今年の星祭りもわたくしは貴方にダンスを申し込まれていないのよ!? それに、わたくしにロベリア様の友人になれと言ったのは、なんの為なの? 貴方、二言目にはわたくしの為だと言うけれど、なにも説明してくれないじゃない!」

「サラ……すまない。なにも言わないことが、サラを守るためだと思っていたんだ」

「そ、そんな……。わたくしは……わたくしは……政略結婚なのだから、冷たい婚約でも仕方がないのだ、とばかり……」


 先程までの毅然とした態度はどこへやら。サラティアは急に目を泳がせて黙ってしまった。彼女の女神のような顔はのぼせたように赤く染まっている。そんな可愛らしい友人の姿を見たイェリナは、ほんの少しお節介を焼くことにした。


「失礼ですが、サラティア様。サラティア様とアドレー様の婚約を、冷たい婚約と割り切るのは早いかと。ローズル侯爵家とビフロス伯爵家は無理に政略結婚をしなくとも、もとより堅い絆で結ばれている間柄なのでは?」

「……えっ、……え? アドレー……どういうことなの」

「それは……言わなくてもわかれよ」


 イェリナは、友人たちの甘酸っぱい感情と動揺を浴びながら、なんとはなしにセドリックの姿を脳裏に思い浮かべていた。

 もう、涙の気配は感じなかった。

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