第10話 眼鏡の存在意義は確かにここにある

 王都グランセイユ。

 石やレンガで造られた建物の屋根は、グランセイユ・ブルーと呼ばれる藍青色に染まった瓦で統一されている。イェリナが進学のためにはじめて王都に来た際に、丘の上から眺めた景色は壮観だった。

 そんな王都の中心部には、王族の住まいであり、政治の中心でもあるグランモリス宮殿がある。その敷地内に建てられているのが、王立ソフィア・モリス学芸学術院だ。

 イェリナは学院アカデミーへ入学してから、学生寮と学舎の限られた範囲しか往復したことがない。街へ出るよりも図書閲覧室にこもって眼鏡開発に繋がる勉強をしていたかったから。


「凄い、これが王都……!」

 

 セドリックに連れられて王都へ繰り出したイェリナは、最先端の衣食住が集う目抜き通りメインストリートの端で感嘆の声を漏らしていた。

 南北を貫く石畳の大通りは、道幅が広い。馬車が余裕を持ってすれ違うことができるだけの幅があり、両脇には一段高くなった歩道も敷かれている。

 道路に面したカフェや大衆食堂は屋外にもテーブルが用意され、お昼時だからであろうか、日差しと街並みを楽しむ市民たちで室内よりも賑わっていた。

 イェリナは、カフェや大衆食堂の店の前に置かれた黒板——『本日のメニュー』——をチラチラ横目で見ながら、セドリックとともに大通りを南に向かって歩く。

 学院アカデミーの敷地から徒歩数分の距離に、こんなに華やかな大通りがあったなんて。イェリナは眼鏡研究に前のめりになりすぎて、周りが少しも見えていなかった自分に気がついた。

 周り、といえば。


「そういえば、アドレー様はご一緒ではないのですか?」

「アドレーとは喧嘩中だから。僕は我儘なんて滅多に言わないんだから、聞いてくれてもいいのにね」


 あまりにもサラリと告げるセドリックの言葉に、胸の奥をぎゅっと締め付けられるような罪悪感を覚えた。イェリナは、セドリックとアドレーの仲を壊したいわけじゃない。

 そんなイェリナの苦しげな様子を察したのか、セドリックが柔らかく微笑んで首を振る。心配無用だというかのように、ゆるりと横へ。


「イェリナが気にする必要はないよ。それとも、今でもアドレーに認められなければ星祭りのパートナーになれないと思ってる?」

「思ってますよ、当然です。そういう約束ですよね?」

「はは、イェリナは気持ちがいいくらい真っ直ぐだね。僕とアドレーは喧嘩中だ。約束なんて反故になるだろうとか、逆に、僕に取り入って約束を撤回させるとか、考えなかったの?」

「えっ、そんなやり方もあるんですか!? だって、そんな……いくらアドレー様がセドリックのご友人で従者であっても、そんなこと……」


 一個人の意思を強制的に曲げるだなんて。そんなこと、イェリナには思いつきもしなかった。

 驚いて瞬きを繰り返すイェリナに、セドリックが穏やかに微笑む。


「できるよ。僕ならできる」


 柔らかく細められた双眸とは裏腹な強権的な発言に、イェリナは思わずあんぐりと大きな口を開けて言葉を失った。


「アドレーは僕に返しきれない借りがあるからね」

「まさか、セドリックがアドレー様をお救いになった……なんて、ベタな過去があるんですか?」

「ふ、ふふ……イェリナ、君は本当に想像力豊かで面白いな。そのまさかだよ。アドレーは僕に魂を救われた。アドレーが愛して止まない婚約者の命が救われた。それ以来、ただの従者以上に尽くすようになったというわけさ」

「魂……。なるほど、わたしでいうところの眼鏡のような存在が、アドレー様にとっては婚約者の方なのですね」


 イェリナが適当に放った質問は、的を得ていたらしい。おかしそうに、けれど上品に笑い出すセドリックの説明は、思いの外すとんと腑に落ちた。


「それならアドレー様がセドリックに忠実なのは、理解できます」

「……せっかくのデートなのに、アドレーの話をするのはもうやめよう。そうだ、イェリナ。ここに入るよ」


 あるカフェの前でセドリックが立ち止まり、メニューが書かれた黒板を指差した。

 花と白兎亭と書かれた黒板には、果物とクリームをふんだんに使って飾られたパンケーキの絵が描かれていた。白とピンクと黄色のチョークで描かれたいくつものパンケーキは、道ゆく乙女たちの視線を釘付けにしている。

 カフェの外観も白塗りの壁に青い屋根、アーチ窓の窓辺には可愛らしい花々が咲いていた。青や白、ピンクの小さな花は、大飛燕草デルフィニウムか。

 カラコロと鐘の音を響かせながら開くカフェ店の扉から出てきたのは、可愛らしい容姿をした令嬢たちだった。ふんわりと花のように広がるドレスが、カフェの外観やメニューに描かれたパンケーキによく似合っている。


「わ。凄く可愛い……! 地味なわたしには似合いませんね、他のお店に行きませんか」

「食べるだけなら、構わないでしょ。ビフロス令嬢は、こういうものを好んでいると聞くし」

「セドリック、もしかしてビフロス様とお知り合いですか?」

「知人の範囲かな。友人ではないね。彼女の婚約者がなかなか近づけさせてくれなくて。それなのにそいつときたら、暇さえあれば彼女の話を嬉々としてするものだから……」


 話が脱線しかけたことに気付いたのか、セドリックが咳払いをひとつする。


「こういうものは、似合う似合わないだなんて考えなくてもいいんだよ。イェリナが食べたいと思うなら、それだけで」


 そう穏やかに諭すセドリックの言葉に、イェリナはまったく別の希望を見た。


「なるほど、そっか……そうなんだわ! 眼鏡も同じ……きっと、そう!」


 この世界には眼鏡が存在しない。それは、仕方のないこと。魔法によって目の疾患を癒せてしまうのだから、さもありなん。

 けれど、それと眼鏡が不要かどうかは、また別のこと。

 ここに、今この世界に、眼鏡を欲する人間がいるのだから。だから、眼鏡の存在意義は、生み出す価値は、他の誰でもないイェリナ自身の中にあったのだ。

 天啓を得たイェリナの心臓が、途端に跳ねる。頬だって自然と緩む。イェリナは興奮して赤く染まった頬のままセドリックの手を取り、ぎゅっと両手で握りしめた。そのまま、期待と希望で潤んだ目でセドリックを真っ直ぐ見つめる。


「セドリック、ありがとうございます! わたし、これからは自信を持って眼鏡開発と普及に邁進できます!」


 イェリナにジッと見つめられたセドリックは、少しばかり目を泳がせた。けれど、すぐに普段通りの柔らかな表情を浮かべて言った。


「……ねえ、イェリナ。君が言うメガネというのは、一体、どんなものなんだい?」

「えっ、いいんですか!? 語ってしまってもよろしいので!?」

「デートの対価がメガネの話を聞くことでしょ?」

「そうですよ、そうなんですが! ああ、セドリック……ありがとうございます。セドリックが理解できなくても、わたしは語ることができるだけで幸せです!」


 この世界に生まれ直してから幾度か眼鏡について語ってきたけれど、セドリックのように興味を持ってくれたひとはいない。

 ただそれだけで、イェリナは目の奥が熱くなるのを感じていた。今にも泣いてしまいそうな気持ちを抱えて奥歯を噛む。泣くのも、叫ぶのも、さすがに自重した。

 グッジョブ、常識。最近、あまり活躍してくれないけれど、お元気でしたか。理性はもう当てにならないから、もう少し頑張ってくれてもいいのよ。


「行きましょう、セドリック。聞いていただけるのなら、いくらでもお話しいたします!」


 イェリナは歓喜を隠しもせずに、セドリックの腕を捕らえたまま、逃さないというようにより強く握りしめて、花と白兎亭の扉をくぐるのだった。




 花と白兎亭を訪ねたイェリナとセドリックは、店の中で一番大きな窓の側にある席に通された。

 初夏の日差しが差し込むその席は、店内は冷房魔法が使われているのか、大きな窓辺の席であっても暑さは少しも感じられない。窓の向こうには、黄色やオレンジ色の花が咲き誇る小さな庭があった。

 二人掛けの丸テーブルの上には、パンケーキが二皿。ひとつは、クリームの上に小さく切った果物を散りばめたパンケーキ。もうひとつは、シンプルながらも厚みがあって、揺らせばぷるんと震えそうなパンケーキだ。

 けれど、真剣な眼差しでセドリックと向き合うイェリナには、輝く日差しも、美しい庭も、可愛らしく盛り付けされたパンケーキも、まるで見えていなかった。

 見えているのはセドリックがかける幻覚眼鏡だけ。逆台形ウェリントン型フレームの幻覚をジッと見つめながら、あくまでも冷静に眼鏡を語った。


「眼鏡というのは視力矯正のための道具なんです。魔道具ではなくて、ただの道具。ですが視力矯正機能だけでなく、そのフォルム、デザイン、使用される素材、技術、身につけたときのキャラクター性、ファッション性、すべてにおいてとてもユニークな存在です。レンズに機能を持たせれば、遮光機能や調光機能、美容や変装などにも使えます。もちろん魔法ですべて解決できますよ、視力は直せばいいし、変装したいなら髪色や目の色を変えればいい。けれど、それでもわたし……眼鏡があったから救われたところがあるから……だからこの世界に眼鏡がないなんて割り切れなくて……ずっとずっと追い求めているんです。昨年の星祭りの日に、ようやく一本、完成させたところなんです!」


 気づけばセドリックは、イェリナが吐き出した眼鏡愛を浴びたことで、柔らかな微笑みのまま固まっていた。


「……あの、大丈夫ですか、セドリック。もしかして、足りませんでしたか?」


 なんの反応も示さないセドリックに不安になって、イェリナは気遣うようにそう告げた。

 この世界に存在しないものを伝えることは、難しい。言葉で伝えきれないのなら、絵を書けばいいのではないか。イェリナはハッと気付いてパンケーキの皿へ視線を落とす。

 今ここに、紙とペンはない。ないけれど、パンケーキとクリームがあるじゃないか、と。

 早速作業に取り掛かろうと意気込んでナイフとフォークを手にしたイェリナに、ようやくセドリックが口を開いて話しかけた。


「イェリナ、もしかしてそれは、君がメガネを作った……と言っている? メガネは作れるものなのか」

「ええ、そうですよ。材料を集めるのには苦労しましたし、材料を揃えても加工する段階で長いあいだ躓いていて……学院アカデミーで魔法と錬金術の授業を受けて、昨年の今頃にようやく、一つだけ」


 セドリックの顔は呆然としていながらも、どこか驚愕しているかのような表情が浮かんでいた。幻覚眼鏡のレンズの向こう、神秘的な黄緑色の双眸がキラリと輝く。

 その眼に、視線に、イェリナの心臓がどきりと跳ねた。

 ちょっと待って欲しい、この胸の高鳴りはなんなのだろう。口の中までどくどくと響く鼓動と、耳まで熱いと感じる体温。幻覚眼鏡にときめく鼓動とはまた違う拍動に、イェリナは静かに戸惑った。

 こんなの、困る。窓にも映らないセドリックの眼鏡は幻覚で、いくら彼が完璧なパーフェクト眼鏡顔であるとはいえ、見つめられるたびに胸が高鳴っていては、正面からじっくりと幻覚眼鏡を堪能できないではないか。

 静まれ鼓動、冷めよ体温。イェリナが背中に汗をかきながら、ままならない自身と闘っていると、セドリックがそれまで閉ざしていた口を開いた。


「凄いな……イェリナは本当に凄い。ねぇ、イェリナ。メガネが作れるものなら、設計図はないの?」

「せ、設計図……ですか?」

「そう、設計図。それがあれば多くの工房や職人に製作依頼を出すことができるから」


 設計図。眼鏡の設計図。

 なんてことだろう、そんなものを残しながら製作するなんて考えは当時のイェリナには存在しなかった。

 イェリナの心臓がドクドクと激しく高鳴り出す。イェリナは自分に貴重な助言をくれたセドリックを真っ直ぐ見つめた。


「ねえ、イェリナ。君に見せたいものがあるんだ」


 イェリナを見つめるセドリックの黄緑色の眼イエローグリーンライトには、先ほどよりも強くきらめく光が宿っていた。大窓から差し込む光も相まって、透明感が美しいクリアフレームのように輝いている。なんて、美しいのだろう。


「イェリナ、僕の家に来てくれる?」

「は、はい……」


 イェリナは笑って見惚れることも、セドリックの真剣な眼差しを受け止めることもできず、頬に熱が集まってゆくのを自覚しながらうつむいた。

 だから、イェリナの視界の端でセドリックがかけた幻覚眼鏡がチカチカと揺らめいて、消えたり消えなかったりを繰り返していたことに気づくこともできなかった。

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