第8話 眼鏡をかけていなくても

「イェリナ・バーゼル男爵令嬢!」


 人目につかないよう学院アカデミーの裏口へ馬車をつけてくれたセドリックと別れ、ひとり学舎を目指して歩くイェリナは聞き覚えのある声に呼び止められた。

 凛とした芯のある声。振り返って視界に飛び込んできたのは、髪をもりもりと巻いた青緑色の目をした令嬢の姿。

 見覚えのある顔と存在感。けれど肝心の名前が出そうで出ない。やはり眼鏡との差分がなければ覚えられないのか。いや、そんなことはない、やればできる! と、イェリナは刮目して令嬢の姿を見た。


「……えっと、あー……あっ。さ、サラティア・ビフロス様?」

「そうよ、わたくしよ!」

「ああよかった、合ってた。ビフロス様、わたしに何かご用ですか?」

「用がなければ話しかけてはいけませんの?」


 少し不満げな表情でサラティアが言った。

 まるで親しくなろうとしてくれているかのような言葉に、イェリナの胸がじんわり熱を持つ。

 もしかしたら、今世に生まれてはじめて友人ができるかもしれない。イェリナはそんな予感に思わず破顔しそうになって、けれどすぐに、アドレーの忠告を思い出す。

 イェリナがここでサラティアと友人になってしまったら、きっとアドレーは失望するだろう。

 アドレーの失望は、イェリナの単位に直結する。


「は、話しかけたからには、何かご用があるのでは? わたしとビフロス様は……お友達でもなんでもありませんし」


 思ってもみなかったほどイェリナは冷たい声を発していた。その冷たさにイェリナ自身が傷ついて、背中が丸まってゆく。

 けれどサラティアは、心が折れるどころかイェリナとの距離を一歩詰めて、悔しそうに眉を寄せた。


「ぐっ……妙に納得感が……。いえ、こんなところで諦めてはダメ、どうってことないわサラティア、ふぁいと! ……ゴホン。バーゼル男爵令嬢、貴女に渡すものがあります」


 サラティアは毅然とした態度でそう言うと、一冊の真新しいノートを鞄から取り出してイェリナに差し出した。


「それは、なんですか? 呪いの手紙とか、苦情の署名をまとめたものですか?」

「ちょ、ちが……っ」

「もしかして果たし状の作品集アンソロジーですか? どこのどなたかに頼まれましたか? はあ……災難ですね、ビフロス様は親切な方だから」

「ちが……ち、違うって言ってるでしょ!!」


 イェリナに冷静さを乱されたサラティアが、顔を真っ赤にして声を荒げた。それだけじゃない。目尻には、涙がうっすら煌めいている。

 あ、可愛い。と、イェリナが見惚れている間に、サラティアは深呼吸を二回して、乱れた心を整えるように背筋を伸ばしていた。

 それからゴホン、とひとつ咳払いをして、なにもなかったかのように言葉を続ける。


「昨日、カーライル様に連れて行かれたせいで受講できなかった授業のノートです」

「なんてこと! 失礼しました、あなたが神でしたか? それとも女神様とお呼びしたほうが?」


 まるでしもべか信者かのようにイェリナはサラティアの前にひざまずいた。清々しいほど完璧な手のひら返しである。

 イェリナの頭の中には、誰かから講義ノートを借りるという手段がはじめから存在しなかった。ノートを借りれるような親しい友人知人がいないから。

 そこへサラティアが女神のようにノートを差し出したのだ。跪いて最高の敬意を示す以外に、なにをしろというのだろう。


「ああっ、女神様!」

「なななななにをおっしゃっているの!? た、立ちなさい! いいから立つのよ!」

「ああ……ありがとうございますありがとうございます! 欠席届を出せなかったから少し諦めていたんです、昨日のノート」


 立ち上がったイェリナは地面について汚れた膝を払うこともせず、サラティアから受け取ったノートを抱きしめた。


(眼鏡をかけていなくても、親切な方はいるんだわ。わたし、今まで他人を色眼鏡で見ていたのかもしれない)


 前世で優しかったひと達は皆、眼鏡をかけたひとばかりだった。その記憶があるせいで、イェリナは他人を無意識に避けていた節がある。

 眼鏡をかけていないひとは、信じることができない。裏切られたくない、傷つきたくないという思いと過去、心に刻まれた業がそうさせた。

 けれどサラティアは、親切で凛々しい正義のひとだ。お近づきになりたい。なりたいのだけれど、意気揚々と踏み込んで、万が一にもサラティアに「友人になるつもりはなかった」なんて言われたら。

 イェリナはショックで寝込むであろう自分の姿を想像して震えた。震えながらノートを抱きしめて、深く頭を下げる。


「……本当に、本当にありがとうございます」

「二度目はないと思いなさい」


 サラティアそう告げると、イェリナに背を向けて颯爽と学舎の方へと去っていく。

 残されたイェリナは、受け取ったノートともどかしい思いを抱えたままサラティアの凛々しい後ろ姿を見送るだけ。

 今すぐ追いかければ追いついて、一緒に学舎へ入れるのに。

 雑談のついでに、サラティアにアドレーとの関係を聞き出せるかもしれないのに。

 もしかしたら放課後に、王都へ繰り出して楽しむ友人になれるかもしれないのに。

 イェリナを硬直させたのは、アドレーの言葉だ。アドレーの言葉が胸に刺さって踏み込めない。


『お前を気にかけているサラティアにはこれ以上、関わるな。あいつは曲がったことが嫌いなだけで、お嬢さんに関心があるわけじゃない』


 でも。でも、だ。

 自分の友人は、自分で決めていいはずだ。サラティアがイェリナに関心がないというなら、関心を持ってもらえばいいだけなのでは。

 地位もなければ、貴族令嬢としての基本的な作法マナーも未熟。けれどイェリナには眼鏡がある。焦がれて眼鏡を作り出した執念を思い出し、イェリナは思い切って踏み出した。決断した後の頭の中は、炎が爆ぜて真っ白だ。


「行こう。追いかけよう」


 上手くいってもいかなくても、最初の一歩を踏み出すことこそ成功への近道だから。

 そうしてサラティアを追いかけようと手を伸ばし、何歩か歩いて、けれどもすぐに立ち止まる。

 オレンジ色の髪をした女子学生があらわれて、サラティアに声をかけたのだ。サラティアは、イェリナには見せたことがない微笑みを浮かべて応じていた。

 それまで胸の内を焦がしていた熱い炎が、あっという間に鎮火してゆく。ついには燻る煙すら立たず、イェリナの心は氷点下まで下がっていった。

 女子学生とともに学舎へ向かうサラティアの後ろ姿を眺めながら、イェリナは自分に言い聞かせるように繰り返した。


「……アドレー様も、ビフロス様には関わるなとおっしゃっていたのだから、これでいいのよ。わたしは眼鏡のために、ここにいるのだから……いまさらお友達だなんて」


 そうだ、そこはブレてはいけない。イェリナは固く決意をして、けれど肩をガックリ落として学舎へ向かう。

 丸まった背中が朝の静かな日差しを浴びていたけれど、イェリナの心は寒々と冷えゆくだけだった。




 第一講義は、孤独なまま陰口に耐えて乗り切った。続く第二講義は、イェリナが一番力を入れている錬金術基礎の授業。次年度の錬金術実践に繋げるための座学の授業だ。


(あと少し。この授業が終われば昼食休憩ランチタイム……この授業が終われば昼食休憩ランチタイム……)


 今朝、幻覚眼鏡を摂取したことで満たされた空腹が、今になって疼き出したのだ。もしかしたら、栄養素として吸収し尽くしてしまったからかもしれない。

 イェリナは自分のお腹の音が鳴らないよう、なだめるように机の下でそっとさする。


「今日は趣向を変えて、諸君らに問題を出したいと思う。さあ、教科書とノートを閉じて」


 教壇に立つゼント教授の鋭く暗い目が、講義室中を睨め回す。不安でざわつく学生たちの声に混じって、遠回しにイェリナを揶揄する囁きが聞こえてきた。


「……最近、多いよな。普段、学生に解答させない教授が指名して答えさせるのとか」

「ああ……どこかの田舎令嬢が恐れ多くも大公子息に声をかけてから、だろ?」


 クスクスと嘲る笑いが起こっても、ゼント教授は無視したまま。けれどイェリナは気にしなかった。そんな陰口よりも、空腹に耐えることの方に集中していたからだ。


「バーゼル嬢」


 と。ゼント教授が静かに呼んだ。途端に静まり返る講義室。ひと呼吸開けて、ざわめきが戻る。みながヒソヒソと囁き合いながらイェリナをジッと見ていた。


「あら、まあ。ふふ、ゼント教授はロベリア様の親戚筋でしたわね。マルタン侯爵家はゼント伯爵家をかなり支援されているそうよ」

「ははっ。バーゼル嬢、終わったな……」


 そんな外野の声が聞こえたような気がしたけれど、イェリナは静かに立ち上がった。お腹から手を離した途端、全身に緊張が走る。

 ゼント教授がゴホンと咳払いをひとつして、イェリナを険しく睨みつけた。


「バーゼル嬢、君に答えて貰おう。……黄金問題だ。錬金術で石ころから黄金を作り出せるか、否か?」


 出された問題に、再び講義室がざわめきで満ちてゆく。

 ゼント教授が出したこの黄金問題は、錬金術基礎の講義では解説しない項目だ。

 けれど、である。そんな基本的な項目は、眼鏡のために錬金術を極めたいイェリナは、すでに履修済みである。

 だからイェリナは自信を持って口を開いた。


「錬金術では黄金を作り出せません。理由は、現在の魔法では太陽を超える高出力のエネルギーを作り出せないからです」

「過去、水銀から金を精錬した、という逸話が残っているが?」

「やはりエネルギーの問題を避けては通れません。もしできたとしても、安全で実用的な金を作れるかは別の話です」

「水銀から作られる金は、安全ではない、と?」

「はい。作れたとしても放射性……えっと、呪いのような効果を恒常的に帯びた金になってしまいます、よ……ね……」


 最後まで答えたところで、イェリナは気がついた。教科書にも載っていない知識を披露したイェリナを、ゼント教授が呆然と見ている。

 魔法があるこの世界でも、石ころや鉛から黄金は作り出せない。

 けれど魔法は、膨大な魔力エネルギー注入を、極端な冷却を、極度な圧縮を、物質の融合と分離を可能とする。

 鋳造工場や製錬所がなくても、小さな手のひらの上で様々な物質を造り出せる。黄金を作るには至っていないけれど、それがこの世界での錬金術だ。


 ——わたしの本命は合成樹脂プラスチック。だから黄金の精錬に興味はないのだけれど……チタン合金は押さえておきたいのよね。


 イェリナはチタン合金フレームのスリムな眼鏡を頭の中で思い浮かべながら、ゼント教授をチラリと見る。教授は教壇でイェリナを睨みつけながらワナワナと震えていた。


「あ、あの……教授?」


 まずい、これはよくない。前世で所属していた研究室の教授が、癇癪を起こす前兆と同じ雰囲気が漂っている。癇癪を起こすと周囲に当たり散らしていた教授は、確か眼鏡をかけていなかった。


(あっ。……やっぱり眼鏡をかけていないから、わたしと相性が悪いのかな)


 けれど、心が曇るその直前でイェリナの脳裏にふたつの顔が浮かび上がった。

 今朝、早朝にも関わらずイェリナを心配して迎えにきてくれたセドリックの麗しい幻覚眼鏡顔。それから、昨日の授業のノートをまとめて渡してくれた親切なサラティアの凛とした顔。


(眼鏡をかけていなくても、優しく親切にしてくれるひとはいる。……セドリックが眼鏡をかけていない、と言い切っていいのか、わからないけれど)


 胸の内がじんわりと暖かくなるような、それでいてキュッと締めつけられるような不思議な感覚。それがイェリナの硬く乾いた心を緩めてくれている。

 そんな風に気が緩んでしまったのがよくなかったのか。イェリナのお腹が空腹を訴えて、ぐぅぅぅぅぅ! と鳴ってしまった。


「……ぷッ、ははっ」


 誰が最初に噴き出したのか。その笑い声がきっかけとなった。講義室中にクスクスとイェリナを嘲笑う冷めた声が木霊こだまする。

 意図せず顔が赤くなる。背中が熱い。噴き出す汗で気持ち悪い。


(あっ、あー……、やっぱり、やっぱり……わたしと眼鏡をかけていないひと達とは、相性が悪いのかな……)


 丸まる背中に歪む顔。無意識のうちにくちびるを噛み、制服のスカートをぐしゃりと握りしめていた。足元がグラグラ揺れる。膝が震えて顔も上げられない。

 前世から続く恐怖で足がすくんだ、そのときだった。


「イェリナ・バーゼル男爵令嬢! 顔をお上げなさい、イェリナ様! スカートを握りしめてはいけません、シワになってしまうでしょう?」

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