第7話 素晴らしき幻覚眼鏡

 翌朝。イェリナはなにか悪いことでもしている気分で、音を立てないよう慎重に寮の門を開けた。

 いつもより二時間早く起きたイェリナは、朝食も取らずに寮を出てきたばかり。

 もうじき夏がはじまろうとしているこの季節であっても、王都の朝は冷える。朝冷えか、それとも予感か。イェリナの身体がぶるりと震えた。


(待って。まさか幻覚眼鏡が昨日一日限定だった、なんてことは……)


 イェリナはゴクリと喉を鳴らした。

 もし、今日。セドリックの顔に幻覚眼鏡がなかったら。セドリックを一生探し出せないかもしれない。眼鏡を外したセドリックの顔を知らないからだ。

 もし、そんなことになってしまったら。星祭りのパートナーとしてダンスを踊れず、単位も落としてしまうだろう。


「はあ、単位も眼鏡もどちらも欲しい……」

「イェリナ、おはよう」

「……えっ。え? せ、セドリック?」


 イェリナの視線の先には、にこやかに手を振るセドリック——の、麗しい幻覚眼鏡。

 それを見て、しおれていたイェリナの心が燃え上がる。


(ああっ、今朝もなんて素晴らしい幻覚眼鏡なの……ッ! 逆台形ウェリントン型フレームのクラシックスタイルが制服と相まって朝なのに心拍数が……! ああ、もっと、もっと近くで拝みたい……!)


 ドックンドックン高鳴る胸を押さえ、じゅるりとしたたよだれすすりながら、イェリナはセドリックの元へと駆け寄った。


「お、おはようございます、セドリック! ……あのどうしてここに?」


 こんな朝早くから学院アカデミーへ向かうのは、勉強熱心な学生か、飲食代が学費に含まれている喫茶カフェテラスで朝食にありつこうとしている貧乏学生くらいだ。

 そのどちらでもないセドリックが、どうしてここに。

 乱れる髪など気にせず首を傾げるイェリナ。その手をセドリックがさりげなく取り、指先をそっと握りしめた。


「君を迎えに」


 セドリックは、イェリナの細かい傷でいっぱいの指先にくちづける。


「あ……ありがとうございます? え、でもなぜ……」

「心配だったから。それじゃ、ダメ?」


 イェリナの顔を覗き込むようにして屈むセドリック。彼の顔では、幻覚の中でしか味わうことのできない化学素材ケミカルの透明感あるフレームが、朝の光を浴びて輝いている。


(あっ、あっ、あー! 眼鏡フレームから覗く上目遣いは反則ーッ! 眼鏡角度が完璧すぎるーッ!)


 上部リムとの隙間から覗く黄緑色イエローグリーンライト。イェリナの思うがままに変化してきらめく化学素材ケミカルの太いフレーム。

 イェリナの心を鷲掴みにしたのは後者だ。

 黄色基色ベースのべっ甲柄から単色ブラウン、果ては艶のあるブラックにまで。イェリナは幻覚フレームを自在に変化させ、カラー変化バリエーションを堪能する。


(凄い。幻覚ならではのバリエーション……!)


 朝食を食べていないのにイェリナのお腹はもう満腹だ。眼鏡とのふれあいは、たとえ幻覚であろうとも心を満たす。


「イェリナ、聞いてる? ねえ、僕が君を心配するのはダメ?」

「あっ……ダメ、では、ない、です……」


 頬を朱で染め、視線は下へ。イェリナを恥じらわせたのはセドリックの顔面力ではなかった。美しく輝く黄緑色でも、ほんの少し熱を帯びたセドリックの視線でもない。

 イェリナはセドリックの圧倒的眼鏡顔(幻覚である)に降参したのである。




 そういうわけでイェリナはセドリックに手を引かれ、大公家所有の馬車に乗り込んだ。

 案内された馬車の外装は赤みを帯びた焦茶ブラウンで、側面に獅子と王冠と星とで構成された紋章が刻まれている。カーライル大公家の紋章だ。

 内装はクッション性の高い座席とシンプルで品のいい装飾が施されていて、大公家の財力と感覚センスのよさを端的に表している。


「うわぁ……素敵」

「そりゃよかった。だがお嬢さん、残念ながら俺もいる」

「あっ! ……、…………っ?」


 馬車の中には、すでに先客がひとり。燃えるような赤髪と深い緑色の眼を持つ学生が、セドリックに案内エスコートされて座席に座るイェリナをジッと睨んでいた。


(確か、アだかマだかからはじまる名前のセドリックの御友人。だ、誰だっけ? こ、こんなときは……そう、眼鏡よ!)


 思わず眉を吊り上げて、キッとキツく赤髪の学生を見る。


「……そう睨むなよ。セドリックと二人きりがよかったなら、すまないな」


 イェリナとしては睨んだつもりはなかった。名前を思い出すために、自力で眼鏡の幻を作り出そうと必死だっただけ。

 どうしたら自力でメガネを視れるのか。いや、昨日できたなら今日もできる。より鮮明に幻視できるはずだ。イェリナは自分の妄想力と眼鏡への愛を信じた。


「ははっ、無視か? お嬢さん、それは淑女レディとしてないんじゃないの?」

「……あー、待ってください待ってください、今ちょっと眼鏡を演算中なので……」

「は? おいお嬢さん。なにを待てって……?」


(確かこの方は……細身のタイプの縁なしリムレス眼鏡が似合う方!)


 思うが早いか幻覚眼鏡、いや幻視眼鏡がアドレーの顔面上に構築された。途端にイェリナの表情が、パッと輝く。


「あ! アドレー様! アドレー様ですね!?」

「あ、ああ……。あー、お嬢さん? もしかして物覚えはあまり良くない方なのかな?」

「そうなの、イェリナ? 僕、物覚えの悪い人間は、ちょっと無理」

「学年主席になんてことを言うんですか!? ……ちょっとひとの名前を覚えるのが苦手なだけです」


 眼鏡さえあれば覚えられるのだけれど。とは言えずに、イェリナは尻すぼみに言い訳を吐く。

 しおしおと項垂れるイェリナに追い打ちをかけるように、アドレーが鼻で笑った。


「名前を覚えられない? その程度でセドリックの相手に申し込んだのか? まあ、いい。それで、なんだってこんな朝早くに?」

「仕方がありません。みなさんが起きる前に寮を出た方が、平和な時代になってしまったので。……御令嬢方の視線が痛いのです」

「イェリナは大胆なことをしたから、仕方がない。僕も運命を感じてしまうくらいに」


 セドリックがそう言って、イェリナの手を取り握りしめた。指まで絡めて握るそれは、俗にいう恋人繋ぎというやつである。


「あ、あのっ、セドリック!?」

「……セドリック、お前……それはいつもの気まぐれか? すぐに治るのか? 俺にはこのお嬢さんが、お前に見合う令嬢には思えない」

「それはアドレーがイェリナを知らないからでしょ」

「わたしもセドリックのこと、全然知りませんよ!?」


 混乱するイェリナの姿に、アドレーがほんの少し敵意を和らげた。幻視眼鏡の奥で輝く深い緑色の目が、すぅっと細まり、アドレーがニヤリと笑う。


「ははは! いいねぇ、お嬢さん。自覚があるとは驚きだ。ご褒美にいいことを教えてやろう。セドリックはな、今は爵位を継承する前だから大公子息を名乗っ  るが、学院アカデミーを卒業したらセーリング子爵になると決まっている男だ」

「セーリング……子爵、ですか」


 その名前だけは知っている。カーライル大公家が保有する爵位の一つで、同名の領地もあったはず。

 セーリング領がどんな領地なのかは知らないけれど、決して裕福な領地ではなかったはずだ。少なくとも、眼鏡の素材になるような鉱物は採掘されていない。

 イェリナがぼんやりと頭をめぐらせていると、アドレーが意地の悪い笑みを浮かべて続けた。


「ああ。不毛の地って呼ばれる荒地の領主だ。……お嬢さん、この事実を知ってセドリックから離れていった令嬢は山の数ほどいる」

「はぁ……そう、なんですか……」


 イェリナは気の抜けた返事をしながら、セドリックの横顔を盗み見る。

 顔色ひとつ変えずにイェリナの長い髪の毛先を指に絡めている姿を見て、どうしてか胸がギュッと締めつけられた。

 セドリックが気まぐれな猫のように思えるのは、もしかしたら数えきれないほどの裏切りを甘受してきた結果なのかもしれない、と。


(ああ、わたし、そんなひとに……眼鏡と単位目的で近づいてしまったのだわ……)


 この思いは後悔だろうか、それとも罪悪感か。

 イェリナはチクリと痛む胸に耐えるように奥歯を噛んだ。セドリックへの特別な思いなんてなかったはずのイェリナの気持ちが、深く深く沈んでゆく。

 セドリックが過去の恋愛で傷ついたかもしれない、というのは、すべてイェリナの妄想だ。けれど、その想像はイェリナの表情を曇らせるには充分な威力があった。

 イェリナも前世では、裏切りというには身勝手で、けれど確かに裏切りだと感じるような事が山ほどあったから。

 かげるイェリナの薄茶の瞳に気づいたアドレーが、ここぞとばかりに追撃してくる。


「だがな、ロベリアだけは別だ。あいつはセドリックが将来、不毛の地を治めることになっても構わない、と言っている。ロベリアの覚悟は本物だ。それに身分も釣り合っている」


 お前とは全然違うのだ、と言われたようで、イェリナの心が傷付きながら軋む音がする。セドリックに握られた手の熱さだけが、イェリナの背骨を支えてくれていた。

 今にも涙が出てきそうなイェリナの様子を察したのか、アドレーは追撃の手を緩めることなく続けて言った。


「それだけじゃない。現侯爵はロベリアを溺愛しているし、マルタン侯爵家には莫大な資金もある。セーリング領で何不自由なく娘が暮らせるために、侯爵は資金提供を惜しまないだろう。つまり、セーリング領の財政問題はロベリアがカーライル家へ嫁ぐことで解決するんだ。……だからな、お嬢さん」


 気づけばアドレーの深い緑色の目が、まっすぐイェリナを捕らえていた。


「ロベリアに譲れ」


 思わずコクリと頷いてしまいそうになるくらい、迫力のある視線と言葉だ。

 イェリナがアドレーの顔面にい出した幻視眼鏡がなかったら、頷いていたかもしれない。

 アドレーの真剣さに当てられて奥歯がガタガタ震えた。血の気が引いた真っ青な顔で、イェリナは無意識にセドリックの腕にしがみついてしまう。

 すると、震えるイェリナの肩を抱くセドリックの手に力がこもった。その力強さにイェリナの震えが少しだけ止まる。


「アドレー」

「……なんだよ」

「僕はイェリナがいい。ここは君が譲るべき。ビフロス令嬢だって、イェリナを気にかけている」

「あ?」


 幻覚眼鏡の奥でセドリックの神秘的な目がスッと細まった。対する幻視眼鏡のアドレーはガリガリと首の後ろを掻いて眉を寄せた。

 逆台形ウェリントン型フレームの幻覚眼鏡と、縁なしリムレス幻視眼鏡の共演だ。夢のような空間にいるはずなのに、車内の空気は冷え冷えとしている。

 セドリックの傲慢さに短く凄むアドレー。ヒリつく空気にイェリナは意を決し、色を失った顔で二人の会話に口を挟んだ。


「ま、ま、待って待って、そこまで! そこまでにしましょう!」

「イェリナ……いいの? アドレーを屈服させないと僕たち、踊れないけど?」

「く——!? なんでそんな物騒なこと言ってるんですか! ダメです、ダメーッ!」


 殺伐とした空気の中で過激な発言をするセドリックに、イェリナは慌てて首を振る。これ以上、アドレーを刺激してはいけない。

 そんなイェリナに、アドレーは立てた人差し指を突きつけた。殺気立つ気配を隠しもせずに。


「いいか、お嬢さん。これは忠告だ。セドリックの誘惑には成功したようだが、お前を気にかけているサラティアにはこれ以上、関わるな。あいつは曲がったことが嫌いなだけで、お嬢さんに関心があるわけじゃない。……いいな?」


 アドレーはイェリナへそう告げると、ひとり馬車を降りていった。それなのにセドリックは、馬車を降りるアドレーの背中をただ眺めているだけ。

 それどころか、セドリックは扉が静かに閉まった途端、邪魔者は去ったとばかりにイェリナの腰を抱き寄せた。イェリナの細い肩にひたいを押し当てながら、くすりと笑う。


「セドリック、いいんですか!? アドレー様、行ってしまいましたよ!?」

「いいんだよ、イェリナ。アドレーは気を利かせたんだ。気にすることはない」

「絶対に違うと思いますけど!?」


 イェリナの悲鳴を無視して馬車はガラガラと進み出す。

 大公家の馬車ともなれば、車両と懸架装置サスペンションに魔法が仕込まれていて、酷く揺れることもない。

 静かに学院アカデミーへ向かう馬車の中で、声にならないイェリナの悲痛な叫びが確かに響いていた。

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