第2章 眼鏡が一番、ひとは二番

第6話 カーライル大公家の事情

「……ローズル侯爵家の息子はなんと言っている?」


 セドリックの話を黙って聞いていた父ブレンダンが、しばしの沈黙の後に淡々とそう聞いた。

 鋭く細められた黄緑色の目に、セドリックの背筋がゾクリと冷える。セドリックは自らを奮い立たせるように拳を握り、ひと呼吸開けてから首を横へ振った。


「アドレーは呑気に、彼女は無礼な田舎娘だ、と。反対しています」

「ぶ、無礼な田舎娘ぇ!? それ、大丈夫なのかセオ。兄としては心配だな……」

「兄上、アドレーはカーライル家の血を引く従者ではありますが、その血は薄く、影響もありません。我らの呪いの真実を告げてはいないのです」

「まだ告げていなかったのか、セドリック。それであればローズルの息子も反対もするだろう。我らの切迫感を知る由もないのだからな」

「確かにそうですね。大公家の血の呪いは、厄介だ。生まれ持った魔力が減衰する呪いだなんて……初代当主様は一体、なにを考えてこんな呪いをかけたのか」


 ジョシュの言葉に、この場にいる全員が深く頷いた。

 大公家の血の呪いは、メガネなるものを崇拝していた初代当主が、一族の血に呪いをかけたことからはじまる。

 その呪いは、メガネなるものを深く愛するものにだけ、幻覚としてメガネが視えるという奇妙なもの。

 ただそれだけならば、笑い話にしかならなかった。けれど、この呪いには、生命力ともいえる魔力が徐々に減衰させる作用がある。魔力が尽きれば生命も尽きる。

 歴代の当主たちは皆、孫の顔を見ることもできずに儚く散った。


「セドリック、我らが呪いの解呪の鍵となる令嬢は、どのような令嬢なのだ?」

「僕や僕の地位には興味がない。彼女が見ているものは、この呪いメガネです」


 セドリックはそう言うと、人差し指で視えない呪いメガネを指差した。

 セドリックには、イェリナが自分を見ていないことなんて、しっかりとわかっていた。彼女がセドリックを見つめる目は熱を帯びて潤んではいるけれど、セドリック自身を見ていない。


(あんなに夢中になって僕より幻覚を見つめるなんて……)


 セドリックが持つ容姿や大公家次男としての地位ではなく、大公家にとっては呪いである幻覚メガネに惑わされて頬を赤く染める乙女が存在するなんて。


「父上。多少、癖はありますが、呪いを解呪するためにも我らの手中に収めるべきです。イェリナが現れたことで、呪いの実在が家へ漏れる可能性が出てしまったので」

「呪いが忌避される貴族社会で隠し通すことはもうできない……か。ジョシュはどう思う?」

「我が家の呪いが公になったら、王家は黙っていないでしょうね。星祭りの伝説では、姫が愛する者の呪いを解いた、と謳われて美談になってはいますが、王家はそれを疎ましく思っていますので」

「……血統主義の王家から、下級貴族に嫁がせたのだ。それも相まって、降嫁の要因となった呪いを、王家は嫌悪している」


 だから王国では呪いが嫌悪されている。知られてしまえば、いくらカーライル家が大公位であろうとも関係がない。穢れた血を浄化するという名目のもとに、一族だけでなく、親しくしている者たちにまで被害が及ぶ。

 大公家が粛清された場合に、被害を受ける膨大な数の人々を思い浮かべたのか。ジョシュがため息を吐きながら口を開いた。


「セオ、王家に我らの呪いが知られる前に、伝説の再現をしたらいい。奇跡が起こるかもしれないぞ」

「……セドリック。お前は呪いメガネに夢中のそのお嬢さんから、愛を得られるのか?」


 ブレンダンの問いに、セドリックは無言で頷いた。

 セドリックだって、自信があるわけじゃない。けれど、イェリナには呪いメガネよりも自分を選んでもらわなければ。そう思うと、どうしてか胸の奥が熱く疼いた。


「セドリック、まずはアドレーあれを納得させてみろ。アドレーあれ他人ひとの本質を見抜く目を持っている」

「ええー!? 父上、もしかして反対なんですか!? セオに厳しすぎませんか! 卒業後は子爵に降格、分け与える領地も不毛の大地セーリング領ですよ!? セオがいいと言っている令嬢なのに……もう少し甘くても……」

「だからだ。不毛で呪われた地を治めねばならぬセオと伴侶候補殿には、厳しいくらいでちょうどいい。鉄壁アドレーを乗り越えられないようでは、セーリング領では生きてはいけまい」

「だからです! 領主教育も婚約要求整理も、なにひとつセオにはしてやっていないじゃないですか。僕のことはいいんです、僕のことは。セオはまだ子供ですよ……もう少し優しくたって……」


 厳しいブレンダンに怯むことなく苦言を呈すジョシュの言葉に、いい兄を持ったな、とセドリックは思う。それに、父の言葉も態度も、兄が言うほど厳しいわけじゃない。

 アドレーは将来セドリックの参謀として、ともにセーリング領へ行くことになっている。そんな側近中の側近を説得できずに彼の地の領主にはなれやしない。

 セドリックは緩みかけていた背筋をピン、と伸ばしてブレンダンと向き合った。


「わかりました、アドレーの件は三日で決着をつけます」

「期待している。もう下がれ」

「はい、失礼します」

「セオ、まだ行くな! ……ああもう! 父上、話は終わってませんけど!?」


 セドリックは、自分を思ってくれる優しいジョシュの叫びを聞きながら、大公執務室を後にした。

 まずは自分ができることをひとつずつやるしかないのだ、と思いながら。


 §‡§‡§


 一方その頃、イェリナは寮の自室の固い寝台ベッドの上で仰向けに寝転がっていた。


「今日はなんだか凄い一日だったなあ……」


 疲れたように呟いて、お風呂上がりの濡れた髪のまま寝返りを打ち、しょぼくれた布団をさわさわと撫でる。

 学院アカデミーは全寮制ではないけれど、一部の学生たちのための寮がある。

 完全個室制の部屋はいわゆる課金制で、積み上げた金貨や銀貨の数で等級グレードが決まる。

 難問試験を合格し、学費と寮費が免除タダとなる特待生の地位を得ることを条件に入学したイェリナは、当然無課金だ。

 だから寮におけるイェリナの等級グレードは一番下。質素で狭く、日当たりの悪い部屋が割り当てられている。


「はぁ……わたし、このまま星祭りの単位、取れるのかな……。セドリックは優しいけど、どこかおかしなひとだし、アドレー様を説得するって……どうしたらいいの」


 イェリナは深いため息を吐いた。

 今日は本当に色々なひとと出会って、話した。その中で顔と名前を一致させて覚えられたのは、セドリックただひとりだけ。

 記憶の中のアドレーの顔はもうぼやけているし、マルタン侯爵令嬢の名前は記憶の中から抜け落ちている。ビフロス伯爵令嬢とは二度ほど会話をしたおかげか、かろうじて覚えているといったところだ。それも、明日の朝まで覚えていられるかはわからない。

 眼鏡以外に興味を持てないせいか、イェリナは他人の顔と名前を一致して覚えることが苦手だ。そんなイェリナも、どうにかして覚えようと努力したことがある。


『ここは前世と違って、特徴的な髪色や髪型、色とりどりの美しい目をしている人がいるわ。これよ、これならいけるかもしれない!』


 と希望を胸に抱いたのは束の間で、特徴的な髪や目を持つ他人は、とにかく多かった。多くて多くて、多くて多すぎて、組み合わせが無限大すぎて、逆に覚えられなかった。

 バリエーションが豊かすぎたのである。イェリナは髪色や髪型、目の色で見分ける戦法を諦めた。

 次に目をつけたのは、貴族名鑑だ。


『お父さま、貴族名鑑をお借りしたいのですが……』


 貴族名鑑に記録されている貴族の名前と紋章を片っ端から覚えること。これはなかなかの手応えがあった。


『……わかる、わかるわ……! 相変わらず顔と名前は一致しないけど、紋章か徽章さえあればどこの誰だか家名はわかる……!』


 領地にいた頃はそうやってしのぎ、眼鏡のために学院アカデミーへ進学して王都へとやってきてからは、学生名簿を暗記した。

 暗記した貴族名鑑とあわせて記憶した学生名簿は、イェリナの学院アカデミー生活を潤してくれるはず、だった。

しかし新たな壁が立ち塞がったのである。


『……嘘でしょ、制服に紋章・徽章って、つけないものなの!?』


 徽章や襟止めブローチつけて家名を誇示しているのは、この先イェリナが関わることがないような高位貴族の限られた方たちだけ。

 だからイェリナは諦めた。他人の顔と名前をすべて覚えることを、諦めた。

 もとより学院アカデミーには眼鏡普及のための技術と戦略を学びに来たのだから、と。勉学に邁進し、ストレートで卒業どころか、機会があれば飛び級したっていいかもしれない、とまで考えていたのに。

 星祭りの単位が取れなければ落第決定だ。そして、一度でも落第すると二度と特待生には戻れない。

 そうなれば、学費も寮費も実費がかかる。イェリナと眼鏡のお陰で財政状況が上向いたとはいえ、バーゼル男爵家にそんな余裕は当然ない。

 だからイェリナに落第は許されず、落第したら田舎のバーゼル男爵領へ帰らなければならない。


「そういえば今日、第二講義以降は全部サボっちゃったな……どうしよう。欠席届も出してない」


 貴族子息や令嬢が通う学院アカデミーは、欠席届さえ出せば授業の再履修が可能だ。

 家庭や領地の事情で欠席する学生が後からでも授業内容を確認できるように、と配慮されている。

 結果的にサボってしまった講義は、どれもこれからの眼鏡開発に必要な講義だった。ひとつたりとも欠けたくはない。けれど、欠席届を出していない以上、取り戻す術もない。


「あー! やめやめ! 眼鏡見て、落ち着こ!」


 イェリナは自分の両頬をパチンと叩いて起き上がり、クローゼットへと向かった。

 さよなら、ネガティヴ。前を向いて眼鏡と向き合うには、気持ちの切り替えが必要だから。

 一歩近づくたびに、どきどきと高鳴る鼓動。毎夜繰り返していることなのに、どうしても胸が高鳴る不思議。


「……この世界に眼鏡が存在しない、なんて割り切れるわけがないのよ」


 ああ、早く早く。

 逸る気持ちを抑えつけ、イェリナはクローゼットに設けられている金庫の中から布の包みをひとつ取りだした。

 壊れものを扱うように丁寧に胸に抱き、窓際の学習用机デスクへ向かう。少し螺子ねじが緩んだ椅子がイェリナの重さを受け止めて、ギ……と軋んだ。

 そうして、貴族令嬢らしからぬ細かい傷だらけの指で丁寧に布を捲る。すると、一本の眼鏡が姿を現した。


(眼鏡さま、ああ眼鏡さま……!)


 イェリナが愛してやまない眼鏡さま。本物の実在する眼鏡である。歓喜に震える指先で金属製のテンプルを慎重に摘み、高くかざす。

 オレンジ色の照明が金属製フレームに反射して輝く様を。時折ガラスレンズの向こうで焦点があう瞬間を。夢のような煌めきを。

 記憶に焼きつけるようにジッと見つめて、ふ、と笑う。


「ふふ、いつ見ても不恰好」


 それは歪な形をした眼鏡だった。セドリックの顔に浮かぶ美しい幻覚眼鏡とは真逆な出来の悪い眼鏡だ。

 曲がり過ぎているモダン、円になれずに歪んでいるリム、分厚いガラス製のレンズ。指先で摘んだテンプルは波打っていて、お世辞にも美しいとは評せない。

 そんなお粗末な眼鏡を、イェリナはなによりも愛しいものを見る目で柔らかく見つめた。


「でも、わたしの眼鏡。わたしだけの眼鏡だわ」


 この眼鏡は、眼鏡をこよなく愛し、慈しみ、崇拝しているイェリナが、バーゼル男爵領にいた頃に作りはじめ、昨年の今ごろに完成させた眼鏡だ。

 技術レベルは相当低く、本来の眼鏡としては機能しない。

 自作ガラスのレンズは歪みが酷くて焦点を合わせることができないし、ぐにゃりと曲がったモダンのせいで、耳にかけることが難しい。波打つテンプルも相まって、かろうじて眼鏡の形をしているなにかに過ぎない。

 まるで子供の落書きのような造形をした眼鏡。実用性もなく、観賞用だとしても酷く不恰好で、他人に見てもらえるようなものじゃない。

 それでも眼鏡は眼鏡。この眼鏡はだけは特別だ。

 イェリナが手ずから作った一品で、はじめて作った眼鏡だから。この世界初の眼鏡でもあった。


「はぁ……やっぱり眼鏡、最高。素敵。素晴らしい。わたしの宝物……」


 イェリナは傷だらけの手で美しさの欠片もない眼鏡をそっと胸に抱いた。

 フレームの歪みや傷を魔法でなおすこともできたのだけれど、そうはしなかった。はじめて自分で眼鏡を作った思い出と記念に、どうしても残しておきたかったから。

 その夜、眼鏡をしっかり補給したイェリナはぐっすり快眠して、すっかり気持ちをリセットしたのであった。

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