第5話 ひとはそれを歓喜と呼ぶ

 イェリナが連れてこられたエスコートされたのは、学院アカデミーの学生が自由に使える客間サロン棟の一室だった。


「イェリナ、大丈夫だった?」


 イェリナをふっかふかな長椅子ソファに座らせたセドリックがすぐ隣に腰掛け、イェリナの華奢な手を取り握る。

 イェリナの手は、ほんの少しだけひんやりとしたセドリックの滑らかな手に包まれた。

 傷ひとつない美しい手。

 よく手入れの届いた爪先と肌は、領民に混じって田畑を耕し、眼鏡製作のために職人に混じって火を扱っていたイェリナとは大違い。

 圧倒的な家格の差から、気を抜けば膝や腿がぴたりとくっついてしまいそうな距離に抗議もできず、気を張り詰めたままイェリナは隣に座るセドリックにぎこちなく微笑んだ。


「みなさん、とてもお優しかったので大丈夫ですよ」

「……優しい? 寄ってたかって君に身を引けと強要する人間のどこが優しいんだい?」

「確かに、多勢に無勢ではありましたけど……わたしが傷つかないように慮ってのお話しでした。それは優しさでしょう?」


 イェリナが告げたのは本心だ。

 あの場で追い詰められはしたものの、アドレーもロベリアも、田舎の男爵令嬢が不用意に傷つき、不名誉な噂が囁かれることを気にしていたように見えたから。


「でもみなさん、勘違いなさっているわ」

「勘違い? その言葉、君は傷ついてもいいって聞こえるけれど」

「傷つくことのなにが悪いのですか? 見てください、わたしの手。傷だらけでしょう? でもこの手が、わたしが望んで止まない眼鏡さまを作り上げたのです」


 イェリナはそう言って、セドリックの手の中からするりと自分の手を引き抜いた。掲げてみせたイェリナの手には、細かい傷が山ほど刻まれている。

 どれもこれも、この世唯一の眼鏡にたどり着く過程で刻まれた傷だ。


「だからわたしは、この傷を誇りに思うわ」


 そう告げたイェリナの目は自信と誇りと喜びでキラキラと輝いていた。

 そこにはぎこちなさや緊張感はどこにもなく、背筋をピンと正した気丈な令嬢がひとりいるだけ。


「ふふ、そう。……うん、君はそう考えるんだ」


 ニコニコとセドリックが柔らかく微笑んで再びイェリナの手を取った。

 イェリナには、セドリックが笑顔の裏でなにを考えているのか、さっぱりわからない。本心のようにも見えるし、ただの戯れのようにも思える。

 貴族の心理的な駆け引きなんて、イェリナにはできない。

 いつだってまっすぐ走って怪我をして、それでもめげずに走ってきたから。

 だから、きっと今の自分はセドリックが好むような「謙虚で慎ましく、寡黙で知的」な姿ではない。

 セドリックの顔に眼鏡があるなしに関わらず、イェリナの性根しょうねはサラティアが指摘したように、正反対だ。

 ならば、とイェリナは腹を括った。これは決して諦めではない、と開き直った。


「セドリック様、ひとつ聞いてもいいですか?」

「なに?」

「セドリック様には、もう、星祭りのパートナーがおられる、というのは本当ですか?」

「アドレーかマルタン侯爵令嬢がなにか余計なことでも言った?」

「いえ、わたしの好奇心です」


 即答するイェリナに、セドリックが浮かべた笑みを少しばかり深くした。


「僕が誰と踊るか、気になるの?」

「端的に言えば、そうです」


 イェリナの即答を受け取ったセドリックは、なにをどう受け取ったのか。楽しそうに頬を緩めて囁いた。


「そっか。それなら教えてあげる。僕のパートナーはアドレーだよ」

「え、アドレー様って、女性だったのですか!?」

「面白いことを言うね、イェリナ。アドレーはれっきとした男だよ。アドレーが僕のパートナーなのは、昨年もそうだし、今年もそう。……僕のパートナーを巡ってちょっとしたトラブルが発生してね」

「ああ、ビフロス様から、そのような話を聞きました」


 イェリナはサラティアが言っていたことを思い出す。


「だから、ヴァンショー教授が僕のパートナーにアドレーを指名したんだ。アドレーは僕の唯一の友であり、従者だからね。そうしてアドレーは、ダンスに誘いたかった女性……婚約者に声をかけることができなかった。昨年に続き、今年もね」

「それはお気の毒に……」

「……だからそのことで僕を恨んでるんだろう。アドレーがイェリナにおかしなことを言ったのは、それが理由だと思う」

「いえ、セドリック様、多分、そうではないと思います。……きっと、アドレー様にも理由があるのでしょう」

「……アドレー様、ね。ふぅん、そっか。アドレーのことはいきなり名前で呼ぶんだ」


 ぼそりと呟いたセドリックが、なにやら深刻な顔でイェリナの横顔を見つめていた。


「あの、セドリック様?」

「ねえ、イェリナ。僕のことはセドリックかセオって呼んで」

「え? ええと……もうセドリック様とお呼びしておりますが。……あの、なんなんですか?」


 戸惑うイェリナに真顔のセドリックが詰め寄った。いっそう距離が近づいて、互いの呼吸や心臓の音が聞こえそうだ。


「違うよ、イェリナ。セドリックかセオ。はい、もう一度」

「あー……、……セドリック?」


 強制的に選ばされた呼称を口にすると、セドリックが意外だという顔をした。


「あ、そっちを選ぶの。セオでもいいのに」

「それって家族の方や婚約者、最も親しい方に呼ばれるような愛称ですよね。恐れ多すぎます。きっと、ビフロス様にも叱られてしまうわ」

「ビフロス令嬢? アドレーではなくて? ……ふふ、そっか」


 セドリックは上機嫌にそう言って、イェリナとの距離をさらに詰めた。ギシ、とソファの発条スプリングが軋む音が鳴る。

 くっつきそうだった膝や腿はもうくっついていて、セドリックの体温を感じてしまっているし、この客間サロンに別の誰かがいれば、イェリナに覆いかぶさっているようにも見えただろう。


(待って待って待って。至近距離ドアップの幻覚眼鏡はわたしに効くからっ!)


 お願い、理性よ。飛ばずにここに一緒にいて! こんな密室で、歓喜によって気絶するわけにはいかないの。

 焦るイェリナの背中にじっとりと汗が浮く。内心の歓喜を悟らせないよう、イェリナはお腹に力を入れて表情筋を笑顔の形に固定した。


「大丈夫だよ、イェリナ。これから親しくなるのだから」


 イェリナに迫るセドリックが、するりとイェリナの頬を撫でた。


「だから、ね?」


 神秘的な黄緑色の瞳がキラリと光る。セドリックが眩しいものを見るように柔らかく目を細めてイェリナを見ている。

 セドリックを狙う貴族令嬢たちが見たら、悲鳴をあげることもできずに失神するか、顔を真っ赤に染めたまま口を噤むことしかできなかったであろう。

 けれどイェリナは、ひと味違う。


(この顔……レンズ大きめの真円型ラウンドフレームが似合いそう。……あ、凄い。強く思うと幻覚眼鏡のフレームが変わるんだ!)


 イェリナの思考は相変わらず絶好調で、セドリックの幻覚眼鏡の新たなる可能性と新機能を発見してしまったことに歓喜していた。

 イェリナは感無量に打ち震え、セドリックの胸をそっと押し返す。これ以上の眼鏡顔のアップは、いくら幻覚であっても体力が持たない。


「そうだとしても、まだ……ちょっと」

「まだ? まだ呼べないって言った? ちょっと、ってなに?」

「だってわたし、セドリックのことをよく知らないんですよ」


 言葉を濁して本音を誤魔化そうとするイェリナに、なおもセドリックは食い下がる。


「じゃあ、僕のこと、よく知ってくれたらセオって呼んでくれるの?」

「あー……そうですね、はい」


 セドリックのしつこさと素晴らしき眼鏡顔の圧に負けたイェリナは、渋々頷き、承知した。すると、セドリックは思い切り破顔して、イェリナの手を優しく握った。


「じゃあ、約束。イェリナ、いつか僕をセオって呼んで」


 セドリックが物語の中の騎士か王子のようにイェリナの指にちゅ、とくちづけを落とす。柔らかで湿った感触よりも、イェリナの心を乱したのはセドリックの上目遣いだった。


(あっ、あーっ、ダメーっ! 眼鏡の隙間からの上目遣いは、ダメーっ! それはわたしに効くからーっ!)


 イェリナが記憶していたのは、美しく洗練された幻覚眼鏡セドリックとこの密室で昼食ランチを美味しくペロリと食べたところまで。

 そこから先は、ただ眼鏡理想に埋め尽くされた。眼鏡のフォルムや輝き、角度や存在感によってすべて塗りつぶされてしまったのだ。

 その時間をイェリナは、ただひと言。歓喜と呼んだ。


 §‡§‡§


「父上、それから兄上。ご報告があります」


 セドリックがイェリナと出会った日の夜。

 王都郊外にそびえ建つカーライル大公邸の大公執務室で、セドリックが姿勢を正して直立していた。

 セドリックの真正面には、歴史を感じる重厚な造りの執務机デスクに座るブレンダン・カーライル大公。

 その右手には、書類の山が築かれた補佐机に座る兄ジョシュ・カーライル次期大公が、何事かと書類作業の手を止めてセドリックを無言で凝視している。


「……どうしたセドリック、改まって」


 静かな執務室にブレンダンの威厳のある重低音が響く。家でも執務中は正装で、上着コートを脱いだだけの姿はいかめしい。

 セドリックは、実父が醸し出す圧を笑顔で柔らかく受け流して口を開く。


「我らカーライル家の悲願、メガネを識る者と接触しました」


 イェリナの名前は出さずに静かに告げた。彼女は今朝、確かにセドリックを見て「メガネ様」と呼びかけた。その後、何度か「メガネ」という名詞を交えて話していた。

 だから確実に、彼女はメガネを識っている。

 カーライル家の血を引く人間には、メガネを識る者を見つけたら当主とその後継者に報告する義務がある。

 もう何百年と果たされたことのない義務ではあるけれど。


「なんだって、セオ!? いったい、いつ、どこで!? どこの家門の人間だ、それとも平民か!? ああ、まさか僕らが生きているうちに見つかるとは……! それで、どんな人間だ? 男か、女か? 大人か、子供か?」


 セドリックの突然の報告にジョシュが食いついた。兄も父と同じようなキリリとした正装で、矢継ぎ早に質問を投げてくるジョシュは、興味津々である。


「落ち着いてください、兄上。彼女は学院アカデミーに在籍していました。一週間後の星祭りで彼女とダンスを踊る予定です」

「あ、学院アカデミーの星祭りでダンス!? 伝説の再現をしようというのか?」


 セドリックが一度目を瞑り、ゆっくり開けると父であるブレンダンと兄であるジョシュをまっすぐ見つめた。


「はい。だからこうして、父上と兄上に許可を」


 イェリナをカーライル大公家に迎え入れる準備を進めたいのだ、と暗に告げたセドリックは、不敵な笑みを浮かべていた。

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