第4話 貴女が無礼な男爵令嬢ね
今朝の事件でイェリナは、無名の男爵令嬢からあっという間に
その状況で講義を受けるとどうなるか。
(うう……、一番後ろに座ったのに……)
第一講義終了後、イェリナはぐったりとした身体を長い講義机の上で伏せ、鉛のようなため息を吐いていた。
できるだけ目立たぬように心がけていたというのに、講義中にもかかわらずヒソヒソ陰口を叩かれたのだ。
まったく集中できずに終わった講義は、疲労感しか残らない。それでも次の授業があるからと、イェリナは重たい身体をどうにか起こし、周囲を一切見ずに講義室を抜け出した。
「イェリナ・バーゼル男爵令嬢! ちょっとよろしくて?」
凛とした鋭くも力強い声に呼び止められて振り返ったイェリナの視界に飛び込んできたのは、スッと伸びた背筋と、金髪の巻毛。それから胸で輝く鷲と鉱石の
(さ、サラティア・ビフロス伯爵令嬢様! ……た、多分!)
眼鏡をかけていない人の顔と名前を覚えようとしないイェリナではあるけれど、講義前に鮮烈な印象で名乗られた名前を忘れるほど、忘れっぽくはない。けれど。
「あ……えっと……」
伊達にぼっちを極めていないイェリナは、サラティアの名前を口にすることはできなかった。
「信じられない、もうわたくしをお忘れになったの!? ……まあいいわ。これからロベリア・マルタン侯爵令嬢様のところへ貴女を連れて行きます。貴女を絶対に逃さないよう言いつけられているの」
「ろ、ロベ……?」
「ロベリア・マルタン侯爵令嬢様です。第三学年で女子生徒の中心に立つお方。決して失礼のないように。いいわね?」
サラティアの凛とした顔は顰めっ面をしても絵になった。素朴な顔立ちをしているイェリナとは大違い。
こうしてイェリナはサラティアに引きずられるようにして、人目のつかない階段裏に連行されたのである。
連れて行かれた先でイェリナを待ち受けていたのは、二人の見知らぬ令嬢と一人の見覚えのある令息だった。
「貴女が無礼なバーゼル男爵令嬢ね?」
イェリナに声をかけたのは、編み込んでまとめた白金色の髪、険しく細められた紫色の目をした美しい令嬢だ。彼女のツンとした綺麗な顔は、はじめて見る。
彼女の傍らに控えるように佇む令嬢は、勝ち気な表情でオレンジ色の髪を肩に垂らしている。百合となにかが意匠された
彼女らの隣にいるのは、赤髪で緑色の目をした背の高い男子学生。彼と同じ髪と目を持つ男子学生は、この
(名前……確かアからはじまる名前のお方。……講義を受ける前までは確かに覚えていたのに。まあ、仕方がないわ。いつものことよ)
アドレーの名前を思い出すことを放棄して、彼の隣でイェリナを睨む御令嬢へ向き合った。決して美しいとは言えない不恰好な
「……侯爵令嬢様、わたしになにか御用でしょうか?」
「サラティアとリリィは席を外してくださらない? 心配しなくてもなにもしないわ」
「わかりました。リリィ様、行きましょう」
サラティアは渋々頷いて、リリィと呼ばれたオレンジ髪の令嬢とともに、身を引くようにこの場から立ち去った。
イェリナが心細そうにサラティアの背中を見送っていると、ロベリアの紫色の眼が柔らかく弧を描く。
「身の程知らずのお嬢さん、セドリック様のことは諦めてくださる?」
「どうしてですか? わたし、そちらの方に認めていただければ、セドリック様が踊ってくださる約束を取り付けました」
告げた途端にアドレーの深緑色の目がすぅ、と細くなり、色味が沈んで暗くなる。
あからさまな敵意を受けてイェリナの細い肩がビクリと跳ねた。その様子に満足したのか、アドレーの目元と口元がほんの少しゆるりと緩む。
「いいか、お嬢さん。セドリックにも言ったが、俺はお前らに協力する気は一切、ない」
地を這うような低音と眉ひとつ動かさない無表情。アドレーはイェリナを追い詰めるようにゆっくりと物理的な距離を縮めてくる。
(顔が、顔がとても、怖い……! あ、でもよく眺めたらこの方、着崩された制服に野生みのある顔立ち……細身のタイプの……例えば
アドレーによる威圧を受けてパニック状態に陥ったイェリナの頭は、本能的に眼鏡を思い浮かべた。
するとどうだろう。途端に気が楽になってきて、怖さも圧迫感も、どうでもよくなってしまったではないか。
眼鏡があれば、なんでもできる。気力だって取り戻せる。
恐怖で震える身体は歓喜で震え、
眼鏡は心を救い、思考を解放するのである。
(アドレー様にはセドリック様のような眼鏡は視えないけれど、眼鏡が視えないのなら、自分で
そこから先のイェリナは、無敵だった。アドレーに徐々に壁際へ追い詰められていることに気づいても、もう怖くはない。
(もっと! もっと近づいてアドレー様! その
先ほどまで抱いていた緊張感と恐怖心はどこへやら。イェリナは
様子が変わったイェリナに気づいたのか、アドレーの片眉がピクリと跳ねた。
「だいたいな、セドリックのダンスパートナーはもう決まってるんだ。だから、ロベリアでさえ諦めて、
「あのー……侯爵令嬢様は、その、セドリック様の御婚約者というわけではない、のですよ……ね? 星祭りも婚約者様と踊られるようですし……」
「それがなんですの?」
「どうしてそんなにセドリック様のパートナーを気にされるのかな、って思いまして」
「……っ!」
ロベリアが言葉に詰まって視線を泳がせた。
そんなことは、友人がいなく世情に疎いイェリナでも知っている。
「だって星祭りのパートナーって、婚約者のいる方は婚約者と。そうでない方でも、婚約者候補としてパートナーとなるのですよね……って、あ!」
イェリナは自分の言葉にハッと息を呑んだ。
「あっ、あの! 違いますから! わたしは違います!」
「違わないでしょ、お嬢さん。君のその顔は、なにかやましいことを考えている顔だ」
「ち、違うんですってば!」
慌てて否定するイェリナが後ずさる。その踵がコツリと壁にあたってしまった。どうしよう、もう逃げ場はない。
そんなイェリナの動揺を見逃すアドレーではなかった。アドレーはイェリナを逃さぬように捕食者の眼差しで壁に手を突き、閉じ込める。
「……なにを考えている?」
——眼鏡のことしか考えていません!
だなんて、そんなことはやっぱり言えない。イェリナは言葉を変えて気丈に告げた。
「……お話しできることはありません!」
「ふむ。そういう芯の強いところに惹かれたのかな、セドリックは。それともいつもの戯れか? ……とにかく、一時的な病にすぎない。できれば俺は、お嬢さんの傷つく姿は見たくはないんだよ」
そう告げたアドレーの深緑色の目は、険しいだけではなかった。ゆらゆらと漂う慈悲のような揺らぎが浮かんでいる。
もしかしてアドレーは、勘違いでもしているのか。セドリックの幻覚眼鏡と進級のための単位のことしか頭になかったイェリナは慌てた。
慌ててアドレーに手を伸ばしたところで、その手を横から掴んで抱き寄せる者がいた。
「アドレー、彼女になにをしているの」
「せ、セドリック!? どうしてここに——……」
「親切な御令嬢がね、イェリナが困ったことになっていると教えてくれたから」
セドリックの声は氷のように冷たく鋭い。それだけじゃない。ジロリと視線を走らせただけで、ロベリアの顔が青褪める。
「セッ……カーライル様、違うのです! これは、これは……」
「うん。名前呼びを許してもいない君が、僕のいないところで僕をどう呼ぼうと気にはしていなかったけれど、それも今日までだね」
「おい、セドリック。その辺にしてやれ。こんなことでロベリアとの縁をあっさり切るな」
ひと言声を出すたびに冷たさと鋭さが増してゆくセドリックを止めたのは、アドレーだった。途端にセドリックが放っていた冷気が和らいだ。
「……アドレー、それが君の判断?」
「ああ、そうだ」
「そっか。それなら仕方ないな。君、あとでビフロス令嬢とアドレーにお礼を言うように」
先程までの鋭い気配はどこへやら。セドリックはアドレーの言葉にあっさり同意して、それ以上ロベリアを追い詰めるようなことはしなかった。
ことごとく反発するアドレーを許し、受け入れ、まっすぐ見つめる
(セドリック様はアドレー様を頼りにされているんだわ)
イェリナが納得がいったように頷いていると、セドリックがイェリナの華奢な顎をそっと持ち上げた。
「それじゃあ、行こうかイェリナ」
目線を合わせたセドリックの完璧な眼鏡顔。眼鏡に飢えきっていたイェリナの頭と心は簡単に眼鏡許容量を突破する。
(なんて素晴らしい眼鏡顔……っ! 幻覚だとわかっていても、トキメキが止まらない!
理性を手放し混乱しきったイェリナの脳内は、いつの間にやらセドリックの眼鏡顔を称える言葉と歓喜で満ちていた。
そんなイェリナに気づいたのか、いないのか。セドリックは小さく笑ってイェリナの肩をそっと抱く。
イェリナはセドリック(がかけた幻覚眼鏡)の魅力に目をチカチカさせながら、セドリックに
眼鏡を前にしたイェリナには、謙虚で慎ましく、寡黙で知的な女性への道は程遠いのであった。
§‡§‡§
連れ立って去ってゆくイェリナとセドリックの背中を見つめるロベリアが、左手の親指の爪をカリカリと噛んでいる。
アドレーは、ひょいと肩を竦めてロベリアのツンケンした態度を茶化すようにニヤニヤと笑った。
「ロベリア、セドリックはなんて言ってたっけ? 俺に言うこと、あるんじゃないか?」
アドレーの砕けた言葉と余裕な態度に、ロベリアの怒りが霧散する。
険しく刻まれていた眉間の皺が取れ、長いため息ののちにあらわれたのは、高貴なる令嬢というよりは年相応の少女の顔だった。
「もう! アドレーには感謝していますわ! ……それにしても、セドリック様ったらないわ。あんな田舎娘に懸想するなんて」
「俺には通常運行に見えるがな。おい、睨むなロベリア。その苛立ちは、お前を少しも相手にしない婚約者殿に向けるのが健全だ」
「いいのよ、あの方には婚約解消をしてもらうのだから」
強気に宣言するロベリアは、吐いた言葉とは裏腹に、切なく苦しげに眉根を寄せていた。
この異世界の婚約事情は、政略結婚が主流だ。婚姻によって家や領地の力を強め、繁栄してゆく。
けれど、契約結婚の側面がありながらも伴侶となる相手との関係は良好であることが望ましい。冷え切った関係よりも暖かな関係の方が効率的だ。婚約が先か、愛が生まれるのが先か、という暖かい家庭や絆を育んでいる貴族がほとんどだ。
信頼や愛情を築けなかった場合は、婚約解消や離婚なども積極的に行われる。
「ははっ、そうして空いた婚約者の座に、今の婚約者殿と比べても見劣りしないカーライル大公家の人間を添えるって?」
「なに、アドレー。私の婚約者をすげ替えるこの話は、貴方が持ってきた話でしょう?」
「そうして乗ったのがお前だ。邪魔者が湧いて出たが……じきに駄目になる。俺が駄目にするからな」
アドレーが肩をひょい、とすくめて続けた。
「……貴方の婚約者は将来、苦労しそうね」
「まさか! 苦労するはずがない! 俺は婚約者殿を愛しているからな。ただ、なににおいてもセドリックが優先なだけだ」
そう言ってアドレー・ローズル侯爵子息は、呆れたように息を吐くロベリアなど気にすることなくカラカラと笑ってみせた。
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