第4話ーEscapeー
————性が、ない……?
俺は彼女の言葉を、頭の中で反芻させる。
一体、どういうことだ。考えても、その言葉の意味がわからない。男でも女でもない、そんなことがあるものか。
「もちろん、生まれた時から性が決まっている人もいますわ。でも、アトランティス民の三割は無性で生まれてきます。そして……生涯を添い遂げたいと思った人に出会った時、その相手の性に合わせて性を定めるんです」
混乱する俺に、彼女はそう説明した。その説明を聞き、ますます俺の頭は混迷を極める。
民の三割が無性で生まれる……って、どんな……しかも、後から自分で性を決められるってことか? あり得ない。
「あの、カオル様の国には、そういう方はいらっしゃらないんですか?」
彼女が、不思議そうにそう聞いた。初めて聞きました、と答えると、ひどく驚いた顔をする。どうやら、ここでは普通のことなようだ。
……驚いたのは、こっちだ。
頭を抱え、ベッドの白いシーツを見つめた。
このシーツの感触も、ベッドの天蓋も、白く磨き上げられた床も、ガラスの張られていない窓も、高い石柱も、全てが日本とは違う。違う文化、違う国、そして、違う時代。なぜ、俺はこんなところにいるのだろう。何の因果で、こんなことに。
「すみません。一人にしてもらっても、いいですか」
下を向いたままそう言うと、彼女は静かに一礼をして部屋を後にした。パタン、と扉が閉まると、一人の静けさが襲ってきて、急激に現実感が増大する。声にならない声が、唇から漏れた。ベッドに、俯せに倒れ込み、シーツを掴む。綺麗に張っていたシーツは、すぐに乱れ、皺が螺旋状に寄った。
昨日、あのまま眠ってしまったようで、目が覚めると、朝になっていた。枕元で、シーラが白い桶のような容器に、水差しから水を移している。
「おはようございます、カオル様。昨夜はよくお休みになれましたか?」
誰かがかけてくれたのだろうか、かけていなかったはずの毛布が俺の肩を覆って、温かい。
「あ、はい」
とりあえずベッドから降りた。彼女に洗顔を勧められ、言われるままに、容器に溜まった水で顔を洗う。終わるとタオルを手渡され、濡れた顔を拭いた。至れり尽くせりだ。慣れていない上、彼女が年上に見えることもあり、申し訳ない気持ちになる。
「あの……」
「やあ、起きたのか」
不意に扉が開き、昨日の青年が入って来た。つかつかと俺に近寄り、いきなり俺の額に手を当てる。
「うわっ、何するんだよ」
思わずその手を振り払うと、彼女は少し笑って言った。
「何を照れてるんだ。昨日、噴水に肩まで浸かっていたから、熱がないかと思っただけだ。まあ、その様子なら大丈夫そうだな」
「照れてなんかない」
即座に否定するが、彼女はまた笑うと、左手に抱えていた布の束を俺に渡す。広げてみると、それは、この国の服だった。
「サイズが合わなければ、言ってくれ」
白いブラウスと紺のパンツ、簡単な靴に黒いサッシュ。昨日、貸してもらった服と、同じようなものだ。
「……どうも」
彼女はそのままバルコニーに出て、風を浴びる。長い金髪が強い風に靡き、キラキラと光った。前髪をかき上げ、手すりに寄りかかる彼女は、あまりにも女性的で、性がないなんてことを忘れそうになる。いつの間にか、シーラはいなくなっていた。俺は、渡された服に着替えようかと思ったが、バルコニーの彼女が目に入り、逡巡する。
「あの……」
「ん?」
彼女は、靡く髪の毛を抑えて振り返った。部屋には明かりがないため、彼女の顔は逆光になるが、昼間だからか、なんとなくその表情はわかる。
「着替えたくて、その」
彼女は一瞬、キョトン、と目を丸くした。そして次の瞬間、大きく口を開けて笑う。
「ははっ、何を恥ずかしがってるんだ。君の国では、人に肌を見せるのはタブーなのか?」
「え……いや、そういうわけじゃ」
別に、タブーではない。イスラム教じゃあるまいし。だが、それは、同性の場合だ。
「シーラに聞かなかったか? 私は
いや、
「や、でも」
そう言うと、彼女は仕方ないな、と呟き、扉に向かった。
「噴水から現れた神の使いは、随分と恥ずかしがり屋のようだ」
そんなことない、普通だ、と返そうとしたが、俺が口を開く前に、彼女は退出し、扉が閉められた。ちっ、と舌打ちをする。
初めからだ。初めから、彼女は俺をからかっている。ちっとも、俺の話なんて聞いていないみたいに……皇子という身分だからか、高飛車で。夢に出て来る時は、何も喋らず、動かず、ただ静かにそこに立っているだけだったのに。その方が、よかった。
ああ、そうだ。俺は夢の中で何度も彼女に会ううちに、彼女を自分に都合のいいように美化していたんだ。それだから、どうだ。実際に会ってみれば、想像していた彼女とのギャップに、戸惑っている。彼女が女性じゃなかったことが、いい例だ。
バルコニーを、見つめた。開けっ広げの窓に、薄いレースカーテンと、分厚いドレープカーテンが重なって揺れている。
俺は素早く着替えを済ませると、バルコニーに近づいた。手摺りは、腰くらいの高さしかない。この部屋は二階に位置していたが、地面はそう遠くはなかった。扉に目を移す。今のところ、誰かが来る気配はない。俺は白い手摺りに足をかけると、勢いをつけて乗り越え、柔らかい地面に降り立った。音がしなかったか、と不安になりながらも、足早に移動する。大きな庭には、至る所に、衛兵や侍女と思われる人たちがいて、緊張しながら足音を忍ばせ、門がありそうな方向に進んだ。しばらく行くと、運よく小さな門が見えて来て、俺はほっとため息をつく。門には、二人の衛兵がいた。周りを見回すが、門以外の場所は高い塀が立っているので、とても門を通らずに外へ出ることは、できなそうだった。
少し、深呼吸をする。片手に、小石が当たった。ちょうど野球のボールくらいのサイズのそれを、拾う。
典型的な手だが……もしかしたら。
自分は今、門の少し左側の茂みの影にいた。見つからないように気をつけながら右腕を上げ、門の右側に向かって石を放り投げる。石は門から少し離れた茂みに落ち、音を立てる。一人いなくなってくれれば儲けもの、と思っていたが、運のいいことに二人とも、石が落ちた方向へ走って行った。
急いで門まで移動する。辺りを窺いつつ、門に手をかけた。鍵がかかっているかと思ったが、予想に反し、門は簡単に開く。開いた隙間に身体を滑り込ませ、外に出た。
城の敷地外に出ると、まだ朝だからか人通りが多く賑やかで、沢山の人が物を売ったり、買ったりしている。
なるほど。売買は行われているんだな。
日本に帰る手段がすぐに見つからないのなら、少しずつ、この世界のことを知っていく必要がある。日本と同じところ、そして違うところ。
「お兄さん、見かけない顔だね」
「……え?あ、はい」
不意に、背後から中年で小太りの女性に声をかけられ、振り返る。
「どこから来たんだい?」
何て、答えればいいんだろう。日本、じゃ通じないのだろうし。まさか、未来から来たなんて言えない。口籠ると、その女性は眉を寄せ、いきなり大きな声を張り上げて叫んだ。
「おい!みんな、ここにアテナイのスパイがいるよ!」
ざわ、と周りが騒めき、流れていた人の足取りが止まる。注がれた視線に、刺さるような敵意を感じた。
思わず、目の前の女性に背を向ける。地面を蹴って、走った。怒号が後ろから追って来て、何度も人にぶつかったが、気にせず走る。逃げなければ。そう感じた。
アテナイ……敵国なのだろう。確か、アトランティスは海に沈む前、アテナイとの戦争に敗北したはずだが、その前から不仲というわけか。
人の間を縫い、闇雲に走った。道から逸れ、茂みをかき分ける。こんなことなら、レジスの城にいた方が、ましだったかもしれない。少なくとも、すぐに危害を加えられるようなことはなさそうだった。
だが、出て来てしまったものはもう仕方がない。木の間を縫い、茂みを後ろに押すようにして進む。
ふと、手に何か硬いものが当たった。
……壁?
煉瓦色の壁は、レジスの城の城壁と同じぐらいの高さだ。その壁に沿って、ゆっくりと歩く。少し行くと、さっき自分が出て来たものと似た門が現れた。
レジスの城だろうか。それなら、もうこの際、逃げ出したことを謝って、入れてもらった方がいい気がする。折角、城から出たのに、という気持ちはあるが、無計画に出て来た自分が悪い。一旦戻って、しっかり計画を練ってから出直した方がいい。
俺は意を決して、門に手をかけた。ギイ、と蝶番が鈍い音を立てる。
「何者だ!?」
衛兵の制服が違う、と気がついたのは、門の中に入り、四人の衛兵に囲まれてからだった。
「名乗れないのか?」
「え……っと、いや」
ここで名乗ったところで、何になるのだろう。薫と言います、城を間違えました。そんなことを言ったって、不審者として拘束されておしまいに決まってる。
「……この国の顔じゃないな。アテナイのものか」
一人の衛兵が近づき、俺の顔を覗き込んで言う。しまった、と思った。現代のギリシャの首都、アテネのことを言っているのだろうから、顔は似ても似つかないはずだが、この国の人々はアトランティス人じゃない、イコール、アテナイ人と認識しているようだ。
「や、違……」
否定する間もなく、硬いものが頭に振り下され、そこで、俺の意識は途切れた。
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