第3話ーEncounterー
中庭に出て、目に入ってきたものを、私はにわかに信じられなかった。何事かと集まってきた衛兵たちも、戸惑っているのがわかる。
一緒に外に出てきたシーラは、普段の冷静さはどこへやら、噴水を凝視して動かず、私を呼びにきたユリカは、とりあえず護衛の役目を果たそうと私の前で剣の柄に手を添えていた。
それはちょうど数日前に、私が自分の顔を映した噴水だった。いつも通りこんこんと水が湧き出て、涼しげな音を立てている。ただ、いつもと違うのは、噴水の中から一人の男が出てきたことだった。彼は噴水に半分身体を沈め、ぽかん、と立ちつくしている。
「あ……の……?」
何が起きているのかわからない、と言わんばかりの表情で辺りを見回す。そして、私の姿を捉えると、驚愕したように声を上げた。
「え……⁈」
その彼の声に、我に帰り、剣を抜こうと構えるユリカを制し、彼に近づく。
「レジス様!」
「……噴水から現れるとは、神の使いか? はたまた水の精か……ようこそ、私の宮へ」
ざわ、と周りがどよめく。本気で彼を、神の使いだなどと思っているわけではなかったが、衛兵や侍女たちに彼が不審者ではないと示すためには、有効な言葉だった。手で持ち場に戻るよう指示すると、こちらを気にしつつ衛兵は去って行く。ユリカとシーラを残し、他の侍女にも仕事に戻らせた。
彼は、この国のものではない服を着ていた。そして、この国にない肌の色をしていた。けれど、私は知っている。この衣服も……肌も。何度も繰り返し、夢の中で見た。黒い髪、黒い瞳、あの日、この噴水で見たのと同じ、あの顔。
「レジス様、どうなさるおつもりですか。もし敵の間者だったら……」
ユリカが焦ってそう言う。
「敵の間者が、噴水から現れるものか」
ふふ、と笑い、噴水の中の、幾分か低い位置にいる彼を見下ろす。
「いつまでそこに浸かっているつもりだ。風邪をひくぞ」
「え? ……あ」
戸惑う彼を無視して踵を返し、中庭から建物に入る扉へ向かう。扉の前で、まだ呆然と噴水に浸かる彼を振り返った。
「早く来い」
とりあえず客間へ連れて行き、濡れた服を着替えさせると、彼は幾分か落ち着いたようだった。湿った髪をタオルで拭きながら、部屋の中を観察する。
「なんだ、そんなに珍しいか」
そう問うと、素直に頷く。一体どこから来たのだろう。夢の中の男と同じかと思ったが、本当にそうだろうか? 現実に存在する男を、夢に見るなんて。そんなことがあるだろうか。
彼の目には、何もかもが珍しく映っているようだった。燭台や、綺麗にドレープの入ったカーテン、客間の端に置かれた天蓋付きのベッドにバルコニーまで、彼は物珍しそうに見つめた。
「君はなぜ、あんなところから?」
一つ目の疑問を口に出す。
「……えっと」
口籠る彼を、そばについていたユリカが不審な目で見た。
「言えないのか?」
「レジス様、やはりアテナイの間者では……」
不安げに言うユリカの言葉を、そのまま彼に投げる。
「そうなのか?」
「俺はスパイなんかじゃない!」
彼はそう即答した後、逡巡するように黙り込み、ゆっくりと口を開いた。
「ここはどこなんだ」
彼の目は真剣だった。少し不安げに揺れる瞳。しかし、その不安を打ち消すような、生命力に満ちた瞳。
「オルガの首都、アンティリアだ」
その名を聞いて、彼の瞳が困惑に染まる。
「オ……ルガ? アンティリアって、何のことを言ってるんだ?」
その言葉を聞き、今度はこっちが困惑する。ユリカとシーラが顔を見合わせ、私も彼の顔を凝視した。
「アトランティス一の城塞都市を知らないなんて、とんだ田舎者だな。それとも、本当にアテナイの間者なのか?」
彼の顔を、まじまじと観察してみる。しかし、アテナイ人のような特徴はちっとも見当たらない。今までに会ってきたアテナイ人のように金髪なわけでもなく、恐ろしく鼻が高いわけでもない。肌の色だって、見たことのない薄い橙の色をしていた。
「アトランティス……? ここはアトランティスなのか⁈」
いきなり、彼は私の肩を掴み、そう叫んだ。ユリカがすぐに間に入り込み、彼の腕を打つ。さらに首筋に剣を向けようとしたのを止め、いいから、と伝えて再び彼に向き合った。
「アトランティスは、知っているんだな」
彼は、混乱した表情で小さく頷く。
アトランティスは知っているのに、アンティリアを知らない。妙だ。アトランティス人なら、当然知って然るべきなのに。
「アトランティスの、どこ出身だ」
「俺は……違う、俺は、日本から来たんだ。橋から落ちて」
彼はこめかみを指の腹で押さえ、情報を整理しているようだ。興奮しているのか、少し息が荒い。
「ニッポン? そんな街、アトランティスにあったか?」
シーラに確認するように目を向けると、彼女は首を振る。
「まあ……いい。君のことは、しばらくこの城で監視させてもらおう。変な真似はするなよ、君を牢に入れなければいけなくなる」
そう伝えると、彼はまだ情報を整理しきれていない表情で小さく頷いた。
「シーラをつけよう。わからないことは何でも彼女に聞くといい」
いいね?とシーラを見ると彼女はかしこまりました、と頭を下げる。まだやることがたくさんあるからと、部屋から出るため扉に手をかけ、私はふと足を止め、彼を振り返った。
「名前は?」
「え? あ、薫だ。三木薫」
「カオルか。覚えておこう」
扉を引く。
「あ、おい! あんたの名前は」
彼の声を背中に聞きながら、扉を閉めた。長い廊下を自室に向かって歩きながら、窓越しに見える空を眺める。
カオル……か。夢の中の男。馬鹿みたいな話だと、自分でも思う。彼は私を知らないのだろうし……いや、あの夢は神からのお告げだったのだろうか。では、何のための?
彼は、私が想像していたよりも低い、よく通る声をしていた。
「あ、おい! あんたの名前は」
彼女は答えず、扉を閉める無機質な音だけが室内に残った。はあ、と深いため息をつく。まだ乾ききっていない髪の毛から、ベッドの上に水の滴が落ちた。
夢の中で、会った人だった。何度も、何度も、同じ暗い空間の中であの人を見た。肩から溢れる金髪、切長の珍しい金色の瞳。なだらかな頬、高い鼻、細い指。日本人ではないことは明白だった。挑発的な口元に、余裕ありげな笑みを浮かべる彼女は、思っていたよりも低い、ハスキーがかった声をしており、背が高いくせに少年のような体つきは、彼女の性を疑わせた。勝手に、女性かと思っていたが、もしかして男性? いや、まさか。あの線の細さで?
それより彼女———性が不明なのでとりあえず彼女と呼ぶ———は、さっきなんて言っていた? ここが、どこだと。アトランティスという名前に、聞き覚えはあった。一時期姉さんがなぜかはまって、しきりに俺に話してきたのだ。
アトランティスは、約一万二千年前に地中海の左、アメリカ大陸の右側の大西洋上に位置した伝説の大陸で、王家はポセイドン(海の神)の末裔と言われ、進んだ文化を持っていた。しかし、紀元前九千四百年、今のギリシャ、アテネにあたるアテナイに征服戦争を仕掛け、敗北。そして、その直後に大地震と洪水により、海の底深くに沈んだ。かつて……そう、二百から四百年前までは多くの人々がその存在を信じていたが、今は依然として実在しないと言われている。
————そんなところに、俺はいるのか? まさか! 俺はただ、東京のあの橋から落ちて……ものの数分、水の中でもがいていただけだ。その間に、時代も場所もかけ離れた、こんな場所に来てしまうわけない。過去になんて————来れるわけがない。
「あの……」
頭を抱える俺に、さっきシーラと呼ばれた女性が声をかける。真っ直ぐな栗色の髪を、背中で一つに括っている彼女は、姉さんと同い年くらいだろうか。さっきとは打って変わって柔らかい空気を纏っている。
「何か、わからないことがあったら何でも聞いてくださいね。多分、大抵のことはお答えできますから」
わからないことなんて、いくらでもある。
「あ、じゃあ……」
その中から、彼女が答えられそうな、そして俺がとても気になっていることを聞くことにした。
「さっきの、あの金髪の人……あの人はどういう人なんですか?」
そう問うと、彼女の顔は水を得た魚のようにぱあっと輝く。
「あの方ですか?レジス・ミュズリ様とおっしゃって、アトランティスの第一皇子にあたります。剣も弓も馬術も游泳も、あの方の右に出る方はおりませんわ。お綺麗な方でしょう?まだ成人なさってないから」
……皇子。聞きなれない言葉に絶句する。ここが過去なら、確かにあり得ないことではなかった。それに、成人してない? 俺と同い年くらいに見えたのに。あの、聡明さを示唆する瞳は、到底未成年のものとは思えなかった。
「男性だったんですね。てっきり、女性かと思った。それに……成人してないって、あの人一体何歳なんですか?」
そう聞くと、彼女は怪訝そうに首を
「レジス様は、男性ではありませんわ。成人するのに年齢は関係ありません。あの方はまだ、性が定まっていないんですから」
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