第2話ーBeyond timeー

 噴水で彼に会って、数日が経った。会った、と言う表現は間違っているかもしれない。でも他にどう言えばいいのか、わからなかった。

 もう一度、あの噴水へ行ってみようか。あれから何かと忙しく、余計な私事を済ましている暇はなかった。夢の中にも、彼は現れなかった。今ならちょうど、少し時間が空いている。

 クローゼットから上着を取り出し、銀の細いダガーを脇に忍ばせた後、私は扉に手をかけた。

「あっ」

「シーラ」

 彼女はちょうど扉を押そうとしていたのだろう。私が扉を引いたことで、行き場を無くした手がバランスを崩し、よろめいた。

「おっと……危ないな」

 倒れ込んできた彼女の身体を、上着を持っていた左腕で受け止め、右手で彼女が抱えていた書類を受け取る。彼女は慌てて私から身体を離し、すみません、と私が受け止め損ねた書類を拾い集めた。

「どうしたの」

 全ての書類を受け取り、軽く中身を確認する。

「アロイス殿下が、レジス様に、と」

 中身は私の領地の資料と、アロイスの領地の資料だった。僅差ながら、領地民から取った作物の収穫のアンケートの数値が私の方が劣っている。

「挑発か」

 机に書類を無作法に放り、私はくす、と笑った。こんなことしなくても、このままいけば彼が王位を継ぐだろうに。例え従兄弟の彼より、現国王の子供である私の方が有利に見えても、所詮私は……私では。

 自嘲するように、小さく笑いが漏れる。シーラが顔を伺うのがわかった。

「レジス様、これから外出なさるところでしたか? どこかへいらっしゃるなら、ユリカを呼びますけれど」

「ああ、いや、中庭まで出ようと思っただけだから」

 従者を呼ぼうとする彼女を制し、持っていた上着を羽織った時だった。ちょうど、今シーラが呼ぼうとしていたユリカが、珍しく焦った表情で廊下を走ってくる。

「ユリカ?」

「レジス様! あの、今、中庭で……っ」




 気が重かった。知らぬ間に握りしめていた手が、手汗でねっとりと濡れている。それを隠すように、両手をズボンのポケットに入れ、歩いた。すぐ近くに見える商店街は、夏祭りの準備だろうか、たくさんの提灯が、あらゆるところにぶら下げられている。それを横目で見ながら、長い橋に足をかけた。歩行者以外通行禁止のこの橋は、デートスポットなのだろう、何組ものカップルが手を繋ぎ、談笑しながら歩いて行くのが見える。

「空が広ーい」

 俺を追い越し、少し走って橋の中央へ向かい、美代は手を広げて空を仰いだ。その無邪気な姿にまた、気が重くなる。

「ほら、先輩、早く」

 苦笑いし、小走りに彼女へ近づいた。彼女は嬉しそうに笑い、またも少し遠ざかって俺を呼ぶ。

 気が重いのはそのはずだった。今回のデートを最後のデートにしようと思い、ここに来たのだ。このまま付き合って彼女を傷つけたくない。だが、一度Yesと答え、嬉しそうに笑った彼女にこんなにも早く返事を覆すのは、自分にとってもきついことだった。

 あの時断っていれば。その方が、まだよかったのに。

 “よかった……っ! 私、きっと断られると思って”

 そう、泣きながら、くしゃっと笑った彼女を思い出す。“嫌いじゃないから”そんな理由で彼女を受け入れるべきじゃなかった。好意と恋の違いに、俺は気づいてなかったのだろうか。それとも、同情と愛の違いに?

 前を走る彼女を、ゆっくりと歩きながら追いかける。橋の中央で彼女は立ち止まり、振り向いて手を振った。手を振りかえし、そちらに向かう。彼女の元へ向かう間にも、何組ものカップルとすれ違う。手を繋ぎ、顔を寄せ合い、恥ずかしそうに歩調を合わせる、恋人たち。

 ごめん、と小さく、心の中で謝った。そんな恋人同士に、なれなくてごめん。

 いつの間にか、橋の中央についていた。橋の下に流れる太い河が、大きな音を立てている。手摺にもたれ、河を眺める彼女の隣で、彼女の視線の先を探る。

 どうきりだそうか。

 先週雨続きだったせいか、河はだいぶ濁って、茶色くなっていた。そんなに深さはないはずだが、ちっとも底は見えない。ドドウ、ドドウ、と声を上げながらあっという間に通り過ぎていく。

「美代、ごめん。今日は、話したいことがあって呼んだんだ」

 そこまでは河を見ながら言った。美代の視線を感じ、俺もこの先は顔を見ながら言わなければと、彼女の方を見る。彼女はさっきみたいに笑ってはいなかった。真面目そうな丸い瞳で、俺をじっと見つめ、言葉の先を促す。

 どんな風にいうのが正しいのか、わからなかった。どんな風に言っても卑怯に聞こえる気がして、ここまで来てまた逡巡する。何をやっているんだろう、俺は。

 それを見ていた美代が、少し笑って口を開いた。

「いいのに、先輩」

 そう言って俺から目を逸らし、再び河に目を落とす。

「そんなこと、言わなくていいのに」

「……」

「わかってたよ、あたし。先輩があたしのこと、別に好きじゃないって。でもそれでもよかったの。先輩があたしの傍にいて、先輩の一番近いところにいられるなら。少しでもたくさんの時間を先輩と過ごせるなら」

 そこで彼女は少し息を吐いて、そして吸い込んだ。こっちを振り返り、俺の目を見る。

「いつかきっと、こんな風に先輩と話す日が来るだろうなって思ってた。もう少し後かと思ってたけど……でも、もしそうなったら、ちゃんと別れようと決めてたわ」

 そんな風に、思ってたのか。美代はいつも笑ってたから、無邪気な瞳で俺を見つめ、楽しそうな声で俺を誘って、だから……何も考えてないとでも思ってたんだろうか。俺はどこまで人を見れてないんだろう。美代のことも、自分のことも。いつも、後になってから気がづいて。

「……好きだったんだ。でも、恋じゃなかった。気づくのが遅くなって、本当にごめん」

 彼女はううん、と首を振って笑った。

「ありがと、先輩」

 そう言う彼女に、居た堪れなくなって、眉を寄せる。

「ごめん」

 何回謝るの、と言って彼女はまた笑った。いつもの無邪気な笑顔。でも、今日は少しだけ、寂しげに見える。

「いいんだって。少しだけでも先輩と付き合えて、嬉しかったんだから」

 ほらもう帰ろ、なんか気まずいし、と言い、彼女はくるりと後ろを向いた。

 次の瞬間、大きく風が吹き、彼女の身体が傾く。ぐらりとバランスを崩した彼女に、咄嗟に手を伸ばした。

「美代……っ」

 手摺はそんなに低くないはずだった。そう、俺の脇くらいの高さはあった。だから、なぜだかわからない。けれどいつの間にか、自分の身体が手摺の向こう側にあった。

「……先輩!!」

 焦った彼女の顔が見える。丸い目が、いつもに増して、丸く見開かれている。手摺をつかもうと、手を伸ばしたが間に合わず、手が行き場を失って宙を掻いた。身体が、ゆっくり、スローモーションみたいに傾いて、空が見えた。

 ああ、本当だ。美代が言ってた通り、空が広い。

 彼女が俺の名前を連呼する。他の人も異常に気づいたのか、わらわらと集まって橋から俺を見下ろしていた。その間にも、ゆっくり俺の身体は落下していく。

 走馬灯、という言葉を思い出した。脳裏に次々と過去の映像が浮かぶ。小さな頃のちゃちな悪戯、姉さんとの喧嘩、受験日直前までの猛勉強、美代と過ごした僅かな日々。

 背中に冷たい水が触れた。咄嗟に目を瞑る。すぐに河の底についてしまうかと思ったのに、意外と深いのか、あるいは流れる河に押されているからか、身体が濁った河の中にどんどん沈むのを感じる。両腕をがむしゃらに動かしてみる。息が苦しかった。濁流に呑まれて、鼻からも水が入って来る。口を開かないようにするので精一杯だった。濡れた服が、重い。

 俺は、こんなところで死んでしまうのだろうか?まだ、やりたいことがたくさんあるのに。まだ、何もしていないのに。—————嫌だ。

 ふと、瞼に光を感じて片目を薄く開けた。

 ……さっきみたいに水が濁っていない? だいぶ橋から離れてしまったのだろうか。

 流れも緩くなっていた。頭上に光が見えたので、残った力を振り絞って、腕を動かす。そんなに水面は遠くなかった。でも、今の俺にはとてつもない距離に思えて、必死で手足をばたつかせた。苦しくて、力が抜けそうになるのをどうにか持ち堪える。

 掌が空気に触れた。続いて顔を出す。過呼吸になりそうな勢いで息を吸い込み、吐いた。何度も、繰り返し息を吸う。だんだん呼吸が整い、顔の水を拭き取って目を開いた。ぐるりと首を回し、辺りを見回す。

 …………ここは、どこだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る