好きになってはいけない

中尾よる

第1話ーWho are you?ー

 風の星アーサが昇った。乾いた風が頬を撫で、夜の気配に甘い花の香りが鼻をつく。鳥がどこからか、飛び立つ音がした。

 バルコニーからは、オルガ市の首都、アンティリアが見える。暗い街に明かりが灯り、風に乗って時折、僅かに街の人の声が聞こえた。紺色の暗闇。室内を振り返ると、ベッドの傍と机の上に、一つずつ明かりが置いてある。

 私はバルコニーから離れ、カーテンを閉めた。ベッドに横たわると、冷たいシーツが肌に触れる。手足を投げ出し、天蓋を見る。薄暗い室内に、金色の刺繍が浮いて目立った。目を瞑ってみる。瞼に刺繍の余韻が残る。ブランケットを身体にかけてみるが、ひんやりとした冷たさに退けた。目を開ける。目が冴えてしまったようで、一向に眠れる気がしなかった。小さくため息をつき、ベッドから降り、そのままショールをかぶってベランダに出る。

 先程よりも少し空気が冷えていた。夜空を見上げると、アーサがキラキラと輝いている。

 ふと思い立ち、バルコニーの柵を乗り越えて中庭に飛び降りた。降りた瞬間、枝を踏んでしまったので、兵に気づかれるかと心配したが、その必要なさそうだ。

 そのまま木の隙間を縫うように進み、中庭の中央にある噴水まで行った。噴水の縁に腰掛け、自分の姿が写っている水面に手で触れてみる。

「……冷たい」

 水面に映っていた自分の顔と、満天の星が、水の波紋に歪んだ。手を引っ込めると、次第に歪んだ水面が、元通りになっていく。自分の髪に触れると、水面の中の自分も、左右対称に髪に触れた。その時だった。

 水面に映っていたはずの自分の顔が、自分のものではない顔に変わった。思わず飛び退き、辺りを見回す。他に人はいない。

 でも、今の顔は、絶対に私じゃなかった。

 恐る恐る近づき、もう一度水に顔を映す。その顔は、まだそこにあった。先程のように髪に触れてみるが、水面の彼は動かない。どこか苦しそうな瞳で、助けを求めるように、こっちを見つめている。

 よくよく見ると、端正な顔立ちをした男だった。私と同い年くらいだうか、通った鼻筋と、柔らかそうな黒い髪、そして夜の闇を詰め込んだような瞳。

 暫く彼の顔を観察する。この国の顔じゃない。滑らかな薄橙の肌。今にも、何か語りかけてきそうな瞳で、こっちを見ている。

 話しかけてみようか、と迷ったが、やめておくことにした。声を出さないほうがいい。なぜか、そう感じたからだ。

 彼の瞳を、吸い寄せられるように見つめる。黒い瞳には果てがなくて、いつまでも見ていられそうだった。時が止まったかのように、彼の瞳に、何かを探す。

 先程、初めて見た男かのように説明したが、私は随分前から彼を知っていた。夢の中で、幾度も、幾度も、彼に会っていた。まるで毎夜、逢瀬するように。言葉を交わしたことはなかったし、こんな風に現実の中で、目が覚めている時間に会うことはない。彼はいつも何も言わずに、距離を置いて私を見つめているだけだった。幾度か、何か言おうと口を開きかけたこともあったが、その度に何を思ってか、口を閉ざす。暗闇の中で、私と彼だけが、浮かぶようにその空間の中にいた。私も彼も、それ以上近寄ろうとはしない。だから、今までは顔を近くで見る機会もなかった、こんな風には。

 彼はやっぱり、何も言わない。ただ、じっと私を見つめるだけだ。そして私も、彼を見つめるだけ。

「キイィィィィィ!!」

 突然、鳥の声が静寂を打ち破り、私の頬を掠めるようにして横切った。思わず目を瞑り、手で顔を覆う。鳥が去って、再び目を開けると、もう水面に彼の姿はなかった。頬に手を当てる。水面の中の自分が、対照の動きをした。私は噴水から離れた。はだけてしまったショールをかぶり直し、来た道を引き返す。靴の音と風の音だけが、冷たい空気の中に響いた。

 ベランダの前で、思いの外高さのある柵にショールの先を引っ掛ける。それに掴まって上に登った。後ろ手にカーテンを閉め、ショールをソファに放る。ベッドに身体を投げ出し、くるりとうつ伏せになった。明かりを消し、目を瞑ってみる。

 眠れないから外に出たはずなのに、部屋を出る前よりも目が冴えていた。




「ね、お願い」

 窓の外では雨が降っていた。小雨だが、階下から流れてくるラジオが、これから土砂降りになることを示唆している。姉さんが、目の前で首を傾げる。亜麻色の髪が鼻先で揺れた。

「わかったよ、もう。サトルさんに迎えに来てもらえばいいのに」

 そう言うと頬を膨らませて、怒ったような顔をする。

「それができないから頼んでるんじゃない、わからずや。すぐそこのショッピングモールまでよ」

「うん、わかったってば。送るよ」

 読みかけの本を閉じ、立ち上がる。部屋の端のテーブルに置いてあった鍵を取り、部屋を出た。俺の部屋を出ると、すぐ左側に姉さんの部屋があり、その先に階下へ続く階段がある。手摺りが低いため、姉さんが頻繁に落ちかかっている階段だ。階段を降りるてリビングを突っ切ると、扉の先に玄関があり、その壁には一枚、姉さんが大学で描いた絵が飾ってあった。白い百合の絵で、ずいぶん上手く描けていたため母さんが大層気に入ったのだ。その絵を目の端に捉えながら靴紐を結び、外に出る。姉さんが渡してくれた傘を差して、小走りに車まで行った。

 最近はほとんど使われていない、母の車に乗り込み、姉さんが助手席に乗ったのを確認してから鍵を回す。

「今日、誰と約束してるの?」

 鞄を膝に抱え、シートベルトを締めた姉に聞く。

「りん子と幸恵。あなたは何もないの? 夏休みだって言うのに」

「来週はあるよ」

 雨が降っているからだろうか、休日にしては車が少ない気がした。灰色の空。濡れた新聞が目の前を横切って飛んでいく。

「誰? 美代ちゃん?」

「そう」

 美代は同じゼミの後輩で、高校時代の後輩でもある、人懐っこい子だ。笑うと笑窪が可愛らしくて、誰にでも好かれそうな丸い目をしている。奇遇にも、姉さんの大学時代の先輩の妹で、姉さんとも仲がいい。

 休みに入ってから既に二週間ほど経ったにも関わらず、まだ一度も会っていなかった。彼女は素直で、優しくて、少し抜けてて、可愛いと思う。数ヶ月前、告白された時も、嫌いじゃないからこそ受けてしまった。でも、今は……そのことを後悔している。嫌いじゃないからこそ、断るべきだった。

 ふう、と姉さんに気づかれないようにため息をつく。

「あ、そういえば薫、“春の夜霧”ってCDよくこの車で聴いてたわよね。幸恵が貸してほしいって言ってたんだけど、今ある?」

「んー、多分あると思う。ちょっと待って」

 視線は前を見ながら、片手でCDを入れてある引き出しから、CDケースを何枚か取り出し、助手席の姉に渡す。

「そこの中にない?」

「えっと、うーん…あ、あった。借りていい?」

「ん」

 “春の夜霧”だけ除いたCDケースを返され、もう一度引き出しの中に戻す。

「サンキュー」

 その時、不意に、大きな風が吹き、飛んできたレジ袋がフロントガラスに覆いかぶさった。危ないっ! と姉さんが叫び、咄嗟に急ブレーキを踏む。運良く背後に車はなく、俺は早足で車を出て、フロントガラスに張り付いたレジ袋を回収した。

「……いやね、危なくて。本当に、最近風が強いんだから」

 風が、強い。そう、最近俺は何かと風に邪魔されている。先週は書きかけの手紙が、強い風で開いた窓から飛ばされ、その前は美代に渡そうと思った映画のチケットを飛ばされた。昨日は昨日で、洗濯物を干そうと庭に出たら、下着が隣の家のベランダまで飛んでいって恥をかいた。

 あまりそんなことが重なると、まさかとは思いつつ、何か風の恨みでも買ってしまったのか、なんて思ってしまう。

「あ、ここでいいわ。止めて」

 車を歩道の方に寄せ、ゆっくり止める。姉さんは助手席から降りて、窓越しに手を振った。唇を少し大げさに動かし、あ、り、が、と、う、と伝えているのがわかる。手を振って応え、姉さんの後ろ姿を見送った後、車を再び動かし走らせた。家に帰ろうか、とも思ったが、折角外に出たのだから、図書館にでも行こうと思いつき、方向転換した。少し走ると、天気予報士が言っていたように、土砂降りになってきた。直に受けたら痛そうな、大粒の雨がフロントガラスを打つ。ワイパーをマックスに動かしても足りないくらい、次から次へと降る雨に、逃げ惑う人達が横目に見えた。

 最近は、風の他にももう一つ、気になることがある。それは夢だ。二、三年前から見るようになったその夢は、真っ暗闇の中に一人の綺麗な人が立っているものだ。女性なのか男性なのか、微妙に判別がつかない中性的な顔をした人。でも俺はなぜか、女性だと思っていた。腰まで届きそうな、緩くうねる金髪のせいだろうか。それとも、なんだか心許ない、少し寂しそうなシトラスの瞳のせいだろうか。

 彼女はいつも立って、少し高いところから俺を見下ろしている。彼女の立っているところだけ、なんだか光って見えた。

 俺は吸い込まれるように彼女を見つめ、近寄ろうとするが、足を動かしてもちっとも近寄れない。手を伸ばそうと試みるが、決して届かない。言葉を発しようとするが、何か違う、話しかけてはいけないと思って、毎回口を閉ざしていた。

 彼女の肌は透き通るように白くて、華奢な体はまるで少年のようだった。彼女は何も言わないが、だからこそ神秘的で美しいのだと、毎度夢で会う度に思う。

 現実で会うことはないが、幾度となく夢の中で会ううちに、俺は次第に、彼女に惹かれていくのを感じていた。手の届かないものへの憧れかもしれない。捕まえたいような、一生触れたくないような、微妙な気持ち。そんな気持ちを抱えたまま、幻想的な夢はいつも幕を閉ざした。

 図書館の、できるだけそばの駐車場に車を止め、素早く傘を差して屋根のあるところまで走る。土砂降りの雨は当分止みそうもなく、強く地面を打ち付けていた。

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