第23話 アフロ家でのお酒とジャズ、夏の乗馬教室

 「新緑の鮮やかさ」はもう失せていたが、木々の葉が「緑の濃さ」を増していた初夏のある金曜日。ベビーフェイス、アルルカンと訪れた「アフロの家」は、「日本のビバリーヒルズ」と呼ばれていた「披露山」にあった。「麻布」から電車を乗り継ぎ、「ウインドサーファーに人気の海岸がある駅」からバスに乗り、急な坂を登った場所だった。

 「丘の上」には、当時の日本ではあり得なく今でも珍しい、「地下ケーブル」で電気を引いていて「景観」を悪化させる「電柱」が存在しない、最低でも「100坪以上はある邸宅」が並んでいた。「ここって、本当に日本なの?」という感じで、まさに「壮観」だった。さらに、夜になるとカップルを乗せた車であふれていた「披露山公園」ではない、住宅地の中にある「小道を登った先にある公園」からは、かつて「侍将軍の重臣だった一族の名を冠した半島」の、「南北両方の湾」も見下ろす事ができた。初夏の「眩しい太陽」を反射して「キラキラ」と光る海面の「美しさ」は、到底「言葉」になど表せなかった。

 そして、「相模湾」に面した「逗子マリーナ」に落ちていく「夕陽」も、「格別」だった。「夕焼け」は、半島の東側に位置する「東京湾沿いの海岸」からは、眺められない。子供の頃からよくでかけていたホテルのあった茅ヶ崎や鎌倉などの「湘南」、葉山や逗子など「半島の西岸の相模湾」に位置した街に住む住民の「特権」だった。

 「アフロの家」に通ううちにポッシュは「海」が大好きとなり、大学に入ったら「マリンスポーツ」を始めようと心に誓っていた。もちろん、「相模湾」で!アフロが与えてくれたものは、ジャズだけではなかったのだ。



 

 「鉄筋コンクリート造りの邸宅」の中の「広い部屋」で、アフロは愛用の「セミ・アコースティックギター」を手にすると、おもむろに弾きだした。プリンスとは全くスタイルが異なったが、同等の才能にあふれていた。プリンスのような速いスピードで「ビブラート」を交えながらギターをかき鳴らす、「ギターソロ全盛時代のギタリスト」ではなかった。セミアコをゆっくりと、「複雑なコード進行」で進めていく、「ブルース調のアーティスト」だった。テクニックをひけらかすのではなく、ゆったりと醸し出される「味わいのあるその音」は、彼が敬愛する「シブさ」を演出し、もはや「セミプロの領域」だった......



 そして夜はやはり「ウイスキー」を飲んだのだが、「水割り」ではなく、シブく、「オン・ザ・ロック」だった。「トォクトォクトォク~」とグラスに「ウイスキー」を注ぐと、「カラ~ン」と「氷」が弾ける「音」がする。わざと「灯り」を落とした部屋で、「この国定番の白い外灯光」ではなく「披露山特有のオレンジ色の電灯」と、遠くに周期的に瞬く「江ノ島の灯台の光」を「肴」に、「お酒」を飲む。「レコード・プレイヤー」の針からアンプに向かった「音」は、「ジム・ホール」のギターと「ビル・エヴァンス」のピアノがコラボしたもので、スピーカーを通じて放出される。名盤『アンダー・カレント』(添付楽曲はSkating in Central Park)の「響き」を、4人は「シブく、愛でる」のだった......「オッサンかよ!」と思わず突っ込みたくなる、高校1年生だった。当時は「キッズからシニアまで」、「祖母が好きだったというカクテル」から名付けられた「デュオのダンス・アイドルの振付」を、「夢中で覚えていた時代」だった。「麻布学園屋上部」は、そんな「世の中の動き」などを一切無視し、「完全に独自の道」を歩んでいた。


 

 こうしてアフロとベビーフェイスと仲良くなったポッシュは、夏休みになると、アフロが何回か行っていた「当時有名だったステーキ屋さん」が運営している「長野県の牧場」。そこで開催される「3泊4日の乗馬教室」に、参加することになった。「乗馬」といっても現在「お嬢様方の間で静かなブーム」となっている「オリンピックの競技」でもある「ハイソなそれ」ではなく、「カウボーイ風のもの」だった。

「Jr. 、『乗馬』は『西の島国』発祥のもの、『新大陸』のものと大きく2つに分かれるんだ。お父さん達が体験したのは『後者』だったのだよ。アフロは私が『前世を生きたと思う国家』を併合した『西の島国』の文化より、『新大陸』の文化に憧れていたんだ」

 この点でも、プリンス達とは違っていた。もっと「泥臭い」、「シブい」ものを好んでいたわけで、その象徴が「カウボーイ」だった。



「『カウボーイ』は馬に乗りながら『投縄』などを操るから、『手綱の基本』は英国発祥の『馬術』とは異なり、『両手ではなく片手で持つ』ことなんだ。だけどベビーフェイスと私は初めてだったのでインストラクターのお姉さんに、『2人は初めてだから両手を使ってもいいわよ、アフロは勿論片手ね』と、両手を許されたんだ」

 アフロは「ヘェ~イ」と答えながら、見事に片手で馬(といっても実はポニー)を乗りこなしていた。馬の動きを止める際にも、慣れた感じで「ドウドウ、ウォウウォウ」などと言いながら鞍の後ろに深く座るだけでちゃんとできた。これは初めてのポッシュ達には難しく、上半身を少し後ろに倒しながら肘を後ろに引いて止めるのがやっとだった。いわゆる「手綱を引く」という動作だ。「馬に優しくゆっくり引く」のがコツだそう。それでもポニーだからか、最終日には「速歩」ぐらいはできるようになっていた。

 「カウボーイ・ハット」を被り、馬に乗って「投縄」の練習をし、「キャンプ生活」を学ぶことができた。もちろん靴も「ロンブ」ではなく、「スニーカー」だった。

「お前ら『チャラチャラした格好』で来るなよ、姐さんに俺が叱られるから。馬に乗るんだから、『ロンブ』なんて履いてくるんじゃないぞ」

 とキツく言い渡されていた。こうした「アウトドアな体験」は、「インドア体験」しかなかったポッシュには、とても「新鮮」だった。曽祖父の「遺伝」なのか馬には上手く乗れたのだが、「投縄」はてんで駄目だった。「食事の仕度」などもアフロは手際よくこなし、ベビーフェイスも何とかやっていたが、ポッシュは「ダメダメ」で、

「本当にポッシュは鈍臭いな~」

 と呆れられた。しかし、2人とさらに仲良くなれて、ポッシュには「良い思い出」となった。





 この後9月に学校が始まると、アフロとベビーフェイスは「カウボーイ風のファッション」で現れた。チェック柄の「ダンガリーシャツ」に、コーデュロイの「ストレートのパンツ」に「スニーカー」、アフロに至っては「ウエスタン・ブーツ」を履いた姿は、それまでの「屋上部」のファッションとは「全くの別物」だった。

「実はこのスタイルに熱心だったのはアルルカンで、3人がまず取り入れたんだよ」

 という話だ。それを聞いた僕は大好きな「ナヴァーナ、日本ではニルヴァーナ」のカート・コバーンを思い浮かべた。「ニルヴァーナ」が流行るのは90年代のはずなので驚いた、

「この国にいて、時代を先取りしていたのか!」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る