第6話 渋谷の人混みををすり抜ける又は『ゴシップガール』風の通学風景

 当時のポッシュの「髪型」は後は「襟足」まで、前は「ストレートな髪」が右から左に斜めに額にかかっていた。おじいちゃんに似たようで、「髪質」は固くて豊か。色は「瞳と」同じく「黒というより茶色に近かった」そうだ。「背筋」も両親に似て「ピシッと伸びていた」ので、「実際の背丈よりも高く見える」のは今も同じだ。


「Jr.のお婆ちゃんは自分が老人になっても背筋が真っ直ぐなのは『社交ダンス』をやっていたからだと言うんだけど、そんなはずはないよ。お父さんもおじさんもやっていないけど、Jr.の世代の子達のように『猫背』にはなっていないからね」



 そんなポッシュの「特技」は、「人の波をかき分けて歩く」こと。なぜって、渋谷の自宅から麻布まで通うには、駅から歩いてくる通勤中の大勢のサラリーマンと逆方向に歩かねばならなかったから。田舎で育った人が初めて渋谷を訪れると「スクランブル交差点」前のあまりの人の多さを見て「今日はお祭りなのか?」と思ったり、気分が悪くなったりする。「漫画」や「アニメ」でよく取り上げられる「シーン」だ。


 ポッシュは、この「毎日がお祭り」のような、「人の群れの中」で育っていった。下校の時も、町に溢れかえった人混みの中を帰らなければならない。こうして自然にポッシュは、人と人の間を「スルっ」と器用に抜けて、早足で歩けるようになった。


 英語でいうと「ナイト・オウル」であり、「アーリー・バード」とは正反対のポッシュは、「早起きは三文の徳」と分かってはいても、実際にできた試しがない。これは大人になっても変わっていない、「家族で1番のお寝坊さん」だ。


 「朝ご飯を食べる暇があるのならば、1秒でも寝ていたい」と、いつも思っていた。「ホリエモン」と同じで、最低でも7〜8時間は寝ないと頭が上手く働かなかった。「寝付きが悪く、なかなか眠れない」夜も多く、「早起きさせられる学生生活」自体が、「苦痛」だった。「5時間しか寝ていないと吐きそうなほど気分が悪い」のに、そうした日が多かった。慢性的に「寝不足かつ野菜不足、低血圧」なので、「寝起きは大抵不機嫌」だった。


 「試験が午後から始まりたっぷり8時間以上寝られたら、試験の点数は相当上がるのに」と、変化を願っていた。「日本の入試はナイト・オウル型の人間には不利」だと、不満だったのだ!


 僕には、「会社も朝から始まるわけだし、夜に活動したいのなら『バーテンダー』や『ホスト』など『夜のお仕事』につくしかないわけで、『入試』を朝に行うのは仕方なくね~」と思えたのだが、黙っていた。



 話が逸れたが、このように大抵は「遅刻気味」のポッシュは、自然と駅まで「早足」で歩くことを強いられた。とはいっても雨の日には階段が滑るのと、行き違う通勤中のサラリーマンと傘がふれあいそうになったので、それも無理だったが。


 「麻布の黒の制服に制帽、たすき掛けした白の校章入りのバック」という典型的な中学生の服装をしたポッシュは、駅へと続く「人混み」をすり抜けていく。家の前の坂道を降りて「母校の小学校」をすぎると、向かいが「東急ハンズ」になっている道に突き当たる。ハンズの横を抜け、左に曲がって「スペイン坂」を降りて、「井ノ頭通り」を横切り、「センター街」を左に曲がると終点が「スクランブル交差点」だ。「渋谷」はその名前通り駅のあたりは「谷」になっているので、「坂が多い」。行きは高台からおりていくので問題ないのだが、帰りは坂を登るのでちょっと大変だった。


「だからつい、途中の『ゲーセン』や『大盛堂書店』などの本屋さん(今とは場所が違いマルイの隣だったそう)、『Cisco』などの『レコード(ビニール)屋』さんにに寄っちゃうんだよ」というのは言い訳にすぎなかったのだろうけど......


「あれ、この人知ってる人かも」と思ったら、「ああ、NHKのニュースに出ているおじさんだ!」などと後で気付くことも多かった。


 駅に着くと、既に列が消滅してしまっている「学バス」に飛び乗るのが、日常だった。「バス停」を降りてからも「学校」までを半分は走るのだが、「麻布も坂が多い」ので、もう「へとへと」だった。




 これは「同級生には内緒」だったのだが、「本当に間に合わない時」、といっても半分ぐらいはそうなのだが、曽祖父や祖母に車で送ってもらっていた。「エネルギーに溢れ暇をもてあましていた」彼等は、「駅」ではなく、「麻布のそばの公園の脇」まで送りたがった。


 「麻布の生徒」が通学する坂とは「有栖川公園」を挟んで逆側の、「ナショナル麻布スーパー」」側の坂で降ろしてもらったポッシュは何気なく「公園」の入口を抜けると、皆が気づかないうちに「生徒達の列」に紛れ込むことができた。このように甘やかされていては、ポッシュが「いじられキャラ」になっていったのも当然だろう。


 実は曽祖父と祖母も、当時はまだ存在していたクラシカルな「麻布プリンスホテル」で、その後に「コーヒーや朝食」を摂るのが「お気に入り」だった。「一石二鳥」だったわけだ。


 運転しているのは「ショーファー」ではなく肉親だったが、車は「キャデラック」だったので、『ゴシップガール』ぽい通学をしていたポッシュだった。



 「寄り道」をしない時は、3時半頃に帰宅することになる。大抵は「専業主婦」だった祖母が「お帰りなさい」と迎えてくれる。昼間は曽祖父も日当たりのいい「居間」にいるので、二人に「ただいま」と挨拶をする。リビングには「ダバーダ、ダバダバダ、ダバダバダ....」というメロディーで知られる、祖母が好きだった「フランシス・レイ」の映画「男と女」のテーマ曲が流れていた。


 当時は米国のように、日本でも「映画音楽」が流行していた。もっとも、人気だったのは「ミッシェル・ルグラン」や「ニーノ・ロータ」など、「アメリカ映画」ではなく「フランス映画」や「イタリア映画」のものだったのだが。「映画」も特に「フランス映画」が人気で、「日本のマダム」の憧れはフランスの「イケメン」、「アラン・ドロン」で当時の日本では現在の「デカプリオ」のように誰もが知っている存在だった。ポッシュも「フランシス・レイ」の優しいメロディーが大好きで、彼とコンビを組んでいた「男と女」で人気となった「クロード・ルルーシュ」監督の大ファンになるのだが、彼の作品を見ることができたのは高校生の頃、しかもテレビでの「吹替版」だった。映画館で「字幕版」に触れるのは、大学生まで待たねばならなかった。


 階段を降りると、当時は叔父と一緒だった「自分の部屋」に向かった。着替えて上に上ると、「デザート・タイム」だったそうだ。


「どんなお菓子を食べていたの?」


「子供の頃は『プリン』が好きだったから『プリン』?と思ったけど、『定番おやつ』だった『紀ノ国屋のカスタードプリン』や『小川軒のレーズン・ウィッチ』とかは、高校の頃からだったかな?中学の頃のは『キスチョコ』や『アーモンドロカ』ぐらいしか覚えていないな。なんでも覚えているおじさんに聞いてみてよ。おばあちゃんが『アメリカナイズ』されていたから、『ナショナル麻布』で買う『海外のお菓子』が多かったのは確かだけど」


「でも『紀ノ国屋のプリンの美味しい食べ方』は、彼女が教えてくれたから覚えているよ。お皿の上に載せた『プリン』を引っ繰り返して、『アルミ容器の底』の部分に『十字に切り込み』を入れるんだ。すると、『ツルン』ってうまく出てくるんだ。『プルプル』って揺れていて、『活火山の溶岩のようにカスタードが頂上から滴り落ちている』それは、『カップに入ったままスプーンですくって食べる』より何倍も『美味』なんだ。『一手間かける』というのは、ものを美味しく食べるための基本だね!」

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