第38話 約束

 凛のことを知りたいという子がいる――優愛からそう連絡があった。田中くんと知り合いの子らしい。まだ高校生だという話しだ。その連絡で田中くんが事故で亡くなったことを知った。


 彼女は待ち合わせの時間ぴったりに私の暮らすマンションにやってきた。自殺したかつてのクラスメイトの話しをするのにカフェでは憚られる。私が自宅を指定したのだった。

 やってきた女の子――名前は今井杏いまいあんといった――からは、真面目で控えめな印象を受けた。それでいて垢抜けた雰囲気があった。私はその健やかさを羨んだ。


「――散らかっててごめんね?今、引っ越しのために荷詰めしてるところなの」


「お忙しいときに、すみません」


「いいの。気にしないで」


 私に促されるままにテーブルに座った杏は小さく頭を下げた。緊張している様子だ。私はそっと微笑んで彼女の前に淹れたての紅茶を置いた。彼女に向かい合うようにして座る。


「ありがとうございます」


「田中くんのことは残念だったね」


「はい……。突然のことで、まだ現実味がありません……」


 杏はそう言うと、顔に沈んだ表情を浮かべた。


「今日は、高井凛さんの話し、聞きに来たんだよね?」


「はい。それに田中店長――田中さんのお店で私、お世話になっていたんです――の思い出話もせっかくなのでぜひお聞きしたいです」


「ごめんね。私と田中くん、全然接点なかったの」


 私は自分のマグカップからコーヒーを飲んだ。気まずさをごまかすように杏も紅茶を一口飲んだ。


「――高井さんとも仲が良かった訳じゃないんだけどね」


 私が苦笑すると、杏は困ったように首を傾げた。私は高井凛について、何を話すべきか考え倦ねていると、「約束」と杏が小さく呟いた。


「約束?」


 私は聞き返した。


「美月さんが、田中店長と凛さんの間に約束があったと言っていました。その約束について優愛さんに訊ねたら、あずささんなら知ってるかも、とおっしゃって」


 私は天井を見上げた。


「確かに、優愛に話したことあるかも。――なんでそんなに二人の約束について知りたいの?」


「なんだか引っ掛けるんです。店長にとって大事な約束だと思うんですが、生前、お話しを聞いたことがなくて。そもそも凛さんについても何も話しくれませんでした」


 私はまた一口コーヒーをすすった。


「約束って言っても、そんな大層なものじゃないよ?ごめんね。そんな言い方は二人に失礼かな。だけどあまりに抽象的な約束だったから。――田中くんが高井さんを幸せにする、それが二人の約束」


「田中店長が凛さんを幸せに……?」


 杏が不思議そうな表情を顔に浮かべた。


「もしかすると他に約束があったのかもしれないけど、高井さんが飛び下りる直前まで二人が話していたのはその約束。――想像していたのと違った?」


「いえ……――ただやっぱりすっきりしないんです」


「なにが?」


「ここだけの話しなんですが、美月さんは田中店長に振られたそうなんです。その理由を田中店長は、凛さんとの約束があるから、と話したそうです。――全部、凛さんが亡くなったあとの話しです」


「死んだら幸せにするもなにもないじゃん、って言いたいの?意外とリアリストなんだね」


 私が笑うと杏は気まずそうに俯いた。そしてしばらくの沈黙のあとゆっくりと口を開いた。


「私が、というより、田中店長がそう考えるんじゃないかなと思って。田中店長、ロマンティストと真逆のような性格の人だったから」


「ふーん」


 私は頷いた。彼女がなにに引っ掛けっているかわかったような、それでいて、まだその実態を掴めないようななんとも言えない、むず痒い心地だった。


「――今から、変なことを言いますけど……」


 杏はためらいがちにそう言った。


「なに?話してみて」


「店長が随分前にふと漏らした一言にどうしても気になるものがあるんです。『猫と女の子の幽霊が店番してくれてるから』――お店を空けようとしたとき、店長が私にそう言ったんです。冗談かと思ったんですけど、そんな感じの雰囲気でもなかったから、ずっと頭に引っかかっていました」


 杏はそこで言葉を切り、紅茶を一口飲んだ。


「それっきり、幽霊の話しも、心霊現象的な話しも店長はしたことがありません。『女の子の幽霊』と口にしたのはその一度きりです。――だから却って気になるんです」


「つまり、あなたは田中くんには高井さんの幽霊が憑いてて、ずっとそれが見えていたって言いたいの?」


 私が単刀直入にそう言うと、杏は困ったように俯いた。


「えっと……。――そうですね。はい……」


 私は高井さんが自殺して間もなくの頃を思い出した。田中くんは高井さんと仲が良かった、のみならずその最期の瞬間を目の当たりにしていた。そうであるにも関わらず、彼はその後も普段通り過ごしていた。その違和感は今でも鮮明に蘇る。ひょっとすると、杏が言う通り、田中くんの前に高井さんの幽霊が化けて出ていたのかもしれない。


「――そうかもね」


 私がこともなげにそう返事をすると、杏は驚いたような、それでいてほっとしたような表情を浮かべた。


「梓さんもそう思いますか?」


「田中くん、高井さんが亡くなったあともびっくりするぐらい平常心で生活してたから、そうかもしれないって思っただけ」


「そうなんですね。――実は他にも不思議なことがあるんです。さっきちらっと私、猫って言いましたけど、お店には看板猫がいました。サモさんです。サモさんは、占いができるんです」


 サモという名前の猫が占いをする――ふと思い当たることがあった。


「ひょっとして、田中くんのお店って、Yumi's Cafe ?」


「そうです!ご存知なんですか?」


「一時期、猫占いがSNSでバズってたよね?――ここからそれほど遠くないお店だから、行ってみようと思ってたんだ」


「そうなんですか……」


 杏は残念そうに肩を落とした。


「実はもうYumi's Cafe は閉店してしまったんです。――サモさんには、会えます。今、田中店長のお父さんと一緒にいます」


「そう。お邪魔じゃければ、お伺いしたいな――それで、なにが不思議なの?」


「サモさんの占いです。サモさんはかなり具体的なことまで答えてくれるんです。もちろん回答は基本的に『はい』か『いいえ』の二択ですが、それでも当てずっぽうとは、とても思えないような答えを返してくれました」


「なるほど。――猫にしては出来過ぎって言いたいの?高井さんが本当は答えてたんじゃないかって?」


「はい。それにこんなこともありました。田中店長のお葬式の朝、サモさんはどこからか花を一輪持って来たんです。ピオニーでした。別れ花の際、私はその花を手向けました。なんでピオニーなんだろう、ってずっと不思議なんです」


「ピオニー。そういえば……」


 杏が身を乗り出す。


「凛さんとなにか関係が?」


 私は小さくうなづく。


「高井さんからはいつもほんのり香水の香りがしたの。つけて登校してた訳じゃなくて、残り香とか移り香だとは思うけど。――その香りがピオニー系だった」


 杏は目を大きく見開いた。


「じゃあ、サモさんは凛さんを意識して……」


「それか、高井さんの幽霊がサモさんを通して、田中くんにその花を送ったのかもね」


 私は杏の言葉を遮りそう言った。杏の本心はこっちだろう、と踏んでいた。案の定、杏は真剣な顔で頷いた。沈黙が部屋を支配する。


「凛さんは、やっぱり、あの日、幽霊になったんでしょうか……?」


 杏が恐る恐るといった調子で私に訊ねた。


「それこそ、サモさんに聞いたら分かることじゃない?――『高井さんは亡くなったあと幽霊になったんですか?』『占いは本当は高井さんがやっているんですか?』……」


「――『凛さんはそこにいますか?』」


 杏が私の言葉を引き取るようにそう言った。

 私は沈黙した。私は不意に杏が何を気にしているのかを察した。そして、『凛さんは今もそこにいますか?』――その問いこそが彼女が最も気にしていることだと分かった。


「もし、今も現世ここにとどまっているのだとしたら、なにか思い残しがまだあるんじゃないか、ってことが言いたいの?未練があるからまだこの世界に縛り付けられているんじゃないかって、そう思うの?」


「凛さんが今もこの世界にとどまっているのかは分かりません」


 杏は高井さんが死後、幽霊になったことを確信しているかのような口ぶりでそう言った。


「『凛さんは今もそこにいますか?』って確認して、もしサモさんが『はい』を指したら……。そもそも占い自体、怖くて出来ないんです。その背後に凛さんの存在を感じてしまいそうで。――凛さんの自殺の原因を私は知りません。きっと穏やかじゃない理由があったのだと思います」


 私は沈黙した。


(美月も優愛もパパ活やイジメのこと、話さなかったんだ。――まあ、それはそうか)


「凛さんには天国で田中店長と安らかな日々を過ごしていて欲しいです。――ふたりの約束は果たされたと思いますか?」


 杏の問いかけに私は首を横に振った。


「分からない。最初にも言ったけど、私と田中くんに接点は無かったし」


「凛さんはなんで幸せじゃなかったんですか?」


 私は沈黙した。顔が曇るのを誤魔化せなかった。親が不倫した、それが原因かは分からないがパパ活をするような毎日を過ごし、そしてその噂が拡まりイジメが始まった。――それをそのまま杏に伝える気にはなれなかった。ましてや私は噂を拡めた張本人だ。その後ろめたさがあった。


「『私を幸せにする方法、私でも分かんなかったのに、他人ひとに分かる訳ないでしょ?』――今でもよく覚えてるけど、これが高井さんの最期の言葉」


 私は答えにならない答えを杏に返した。杏は高井さんの言葉を噛みしめるように小さく頷いた。哀しみがその顔全体にあらわれていた。


「――田中くんは幸せそうだった?」


「はい……。少なくとも私からはそう見えました」


「そう、良かった。――幸せを知らない人に他人ひとを幸せにすることなんて、無理だから」


 杏はちらりと私の顔を覗き見たあと、神妙な面持ちで頷いた。



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