第25話 店名
「この前はご迷惑おかけしました」
次のバイトの日、今井さんは開口一番そう言って深々と頭を下げた。
「いや、大丈夫だよ。気にしないで。スマホは金庫にあるから。無くて大丈夫だった?」
「えっと、はい……。――というかお父さんがすぐに新しいの買ってくれました」
今井さんはなんとなく気まずそうにそう言った。
「わお。お父さんに愛されてるね」
今井さんは小さく頭を下げた。僕は思い切ってあの話題を切り出した。
「まだナンパ待ち、したい?」
今井さんの肩がびくっと震えた。そしておどおどと僕を見上げた。
「いや、したいならしたいでもいんだけど、この前みたいにごまかすのは限度があるし。――あとやっぱり心配は心配だし」
今井さんは何も答えず、ただじっと俯いている。やがてその肩が震え始めた。間もなく嗚咽が聞こえてきた。
「え、嘘?泣いてる?――一旦、座ろ?」
僕がソファに座ることを促すと、今井さんは大人しくそれに従った。
「ま、まあ、気が済むまで泣いていいから。どうせお客さん来ないし……」
僕はたじたじとなりながら、今井さんの前におしぼりを置くと、キッチンに逃げた。
「(なに?どうしたらいいの?なに泣き?)」
凛ちゃんに助けを求める。
――ほっとけばいいんじゃない?色んな感情が爆発した、的なやつでしょ?
凛ちゃんは気の無い返事をした。キッチンからちらちらと顔を出し、今井さんの様子を伺うが、しかしどうすればいいのか分からないのでやはり見守るしかなかった。
それから小一時間ほど経過して、ようやく気がおさまったのか、今井さんはおもむろに立ち上がると従業員室へ歩いて行った。
(あ、こんな日でもちゃんと着替えるんだ……。真面目だな)
着替えを終えた今井さんが従業員室から出てた。
「――て、店長……」
泣き止んだばかりの少ししゃくりあげるような声の調子で今井さんはそう言った。
「店長?――あ、僕か。なんでしょう?」
僕はおずおずとキッチンから出た。今井さんは今にも泣き出しそうな様子だった。目が真っ赤だ。
「店長、すいません……。話を聞いてもらっていいですか……?」
「ああ、もちろん。――す、座って?」
あらたまった調子で切り出され、僕は内心、動揺していた。ソファに座り、向かいの席を今井さんに勧めた。自分だけでは心細いので、足元をうろついていたサモさんを無理やり抱き上げ、ひざの上に乗せた。サモさんは、不満そうにひと鳴きしたが、それで気がおさまったのか、僕のひざの上で大人しく身体を丸めた。
「ナンパ待ちは、もうしません……」
しばらくして、今井さんがぽつりと呟いた。
「ああ、そう?それは良かった。お父さんにも報告したらきっと喜んでくれると思うよ」
僕は緊張のあまり、的外れなことを言ってしまった。今井さんは、皮肉と受け取ったのか、少し傷ついた顔で僕の顔を見つめた。
――颯太は相槌だけしてたらいいから。余計なこと言うな。
カウンターの高イスに座っていた凛ちゃんに怒られる。
「ごめん。今のは気にしないで。話したいことがあったんだよね?続けて?」
今井さんに先を促す。今井さんはしばらく
「私、自分でも嫌になってたんです。でもやめられなくて……。男の子に話しかけてもらえるのが嬉しかったんです」
「なるほどね。気持ち、分かるよ」
ナンパするやつなんかどうせヤリ目だろう、と僕は内心思っていたが、余計なことを言って今井さんを傷つけたくないので、無難な相槌を返した。思いの他、それが効果的だったようで今井さんはほっと安心したように先を話し始めた。
「すごく自己嫌悪に陥ることもあったんです。――そんなときはこのお店に来ていました。普通のお店にいると、どうしても男の子に声をかけてもらうの、期待しちゃうんで……」
「なるほど。このお店だったら間違いなく一人になれるからね」
「すいません。そんなつもりでは……。でも、いつも店長が暇そうにしてるだけでお客さんいなかったから……」
「あ、結構前から、覗いたりしてたんだ」
「はい……。でも、勇気が出なくて」
「そりゃ、そうでしょ。おっさんが猫とふたりで映画観てるお店なんて、普通、怖くて入れないよ。本当に良く入れたよね。――ていうか家に帰れば良かったのに」
今井さんは目を泳がせた。
「親には、塾の自習室で夜まで勉強するって嘘ついてたから、どこかで時間潰さないといけなくて……。――でも、いつも家で制服を着替えて出かけるので怪しまれてはいたんです……」
「なるほどね。――犯罪を犯している訳じゃないんだから、そんな縮こまらなくていいよ?」
「一回怖い目にもあってるんです。――覚えていますか?雨が降っていて、私が急にお邪魔した日」
「ああ、いつもより、遅い時間に来た日だね?」
「はい……。――男の子、二人組でした。雰囲気がなんだか怖かったんで、話しかけられても下向いて無視してたんですけど、しつこくて。雨で広場に人が少なかったせいもあって、かなり強引に私を連れて行こうとしたんです。それで、傘を投げ出して走ってここまで逃げて来ました」
「そっか……」
「そんな怖い目にあってもやめられないなんておかしいですよね?――でも、さすがに店長やお父さんにご迷惑をかけて反省しました。もうやめます」
「まあ、あれだね。自己嫌悪に陥るってことは
今井さんは小さく頷いた。
「それで、バイトはどうするの?別に辞めてもらっていんだけど」
今井さんが顔を上げた。少し傷ついた表情を浮かべている。
「ごめん、ごめん。辞めさせたい訳じゃなくてさ。もちろん続けてもらってもいんだけど。ただ、うち、お客さん、こないじゃん?」
「お客さん、来るように頑張ります」
「お小遣いが欲しいんだったら、誘惑が多いこの繁華街じゃなくて家の近くでバイト探したら?」
僕の提案に今井さんは悲しそうに俯いた。
(困ったなあ……)
「――まあ、すぐに決めないといけないことでもないから、また来週来てよ?そのとき、話そう」
今井さんは少し間をおいて、「はい」と消え入るような声で返事をした。
「店長……」
翌週、従業員室から出てきた今井さんに早速呼び止められた。とても深刻な表情をしていた。
(ああ、バイト辞めるんだな。残念。――まあ、俺から勧めたことでもあるけど)
「なんでしょう?」
と僕は努めて明るく返事をした。
「バイトなんですけど……」
「うん」
今井さんは意を決したように口を開いた。
「――シフト、増やしてもらえないですか?」
「え?」
予想だにしていなかったことに僕はぽかんとした。
「え?増やす?ここのシフトを?」
「はい。先週はずっと家にいるようにしてたんですけど……――なんか誘惑に負けそうになるんです」
「えー?部活とかしたらいいじゃん」
「でも、この時期だと入りづらくて……。友達もいないし……」
今井さんは恥ずかしそうに顔を伏せた。
「でも、どうだろう?――ここでバイトするの?毎日?」
「塾があるので毎日は流石に無理ですけど……――ダメですか?バイト代出すの厳しかったら、無給でもいいです……」
「何言ってんの?無給で良い訳ないでしょ?」
「でも映画見てるだけですし……――それに売上ないのに、私のシフト増えたら、赤字になるかなって思って」
「まあ、お金の心配は大丈夫。オーナー、超金持ちのおばあちゃんだから。お店の名前が示す通り、お金はいくらでも使える」
今井さんはぽかんとした表情を浮かべる。
「お店の名前?――……オーナーさんの名前じゃないんですか?」
「違うよ。オーナーの名前は信子だよ。――Yumi's Cafe & Barって言う名前はお金を
今井さんはびっくりした様子で目を丸くした。
「オーナーにはゆみは僕の母親の名前、って言ってあるんだ。――まあ、それは本当なんだけど。母親がずっと自分のお店出すの夢だったから、その夢を少しでも形にしたいって言ったら、採用してくれた」
今井さんは戸惑った様子で、頷いた。
「えっと、それで……」
「まあ、シフト増やしたいなら別にいいよ?何曜日に来るの?」
今井さんはほっと安心した様子で肩から力を抜いた。
(お店の風向きが変わればいいな)
僕はそんなことを心密かに期待した。
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