第11話 義統忍、高校生の逸話 母の死去
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父・
そこで美術教師ならと条件をつけられたが、子どもたちに体操の面白さを伝えたくて体育教師となる道を選んだ。
当初、父はそんな忍を突き放したが、絵を描き続けることを条件に和解した。忍も絵を描くこと自体は嫌いではなかったので、それで体育教師が許されるのなら安いものだ。
「お前は基礎のデッサン力がすでに完成しているし、塗り色のカラーバランスも持ち合わせている。絵を描き続ければきっと悦子以上、いや世界を代表する画家になれるはずだ」
まるで絵描きこそが天職だとばかり、事あるごとに言われ続けた。
それに屈しなかったのは、母を囲っている父に対するささやかな抵抗でもある。
「そもそも母さんの絵は売れていないよね。売れない画家と比べられても、恥こそあれ誇りは持てないよ」
母の描く絵は温かみがあり、観ている者の心を安らげるほどである。
それを売らずにコレクションし続ける父の意図が忍にはさっぱりわからなかった。
「これからはお前の絵を描け。もう母さんたちの絵を模写する必要はない。いくら才能が上でも、模写では商売にならないからな」
高校生でも、父からはコレクションで真似るのが難しいと判断された絵画の模写を課されていた。
晴れて将来の夢が決まったことで、父は忍に絵画を強制しなくなったのだ。
忍がようやく勝ち取ったといえるだろう。
おそらく父は忍を画家にすることをあきらめていないだろう。
将来、体育教師で地道に稼ぐよりも、絵画のほうが高く売れる。
とくに忍ほどの腕前なら、言い値でも引く手数多だろう。
時間対効果を考えれば、いずれ息子は画家になる。
父はそう判断しているようだった。
それは忍の情熱を明らかに考え違いしていた。
忍は自らを表現する手段として、絵よりも運動を選んだのだ。
絵画に情熱を傾けるのではなく、スポーツに懸ける。
自らの身ひとつで他者の役に立つ。これまでの模写は画力を向上させるだけでなく、我を抑える忍耐力も養っていた。
自分を押し殺す。
簡単なようで誰にでもできる芸当ではない。
人は誰しも他人から認められようとする。いわゆる承認欲求だ。
誰かから必要とされたがる。
忍が模写を続けたのは、絵画にしか情熱を抱かない父に認められたかったからだ。
しかし、父が求めていたのは母さんの代わりだったのではなかろうか。
その思いを抱くようになってから、忍は絵画と距離をとりはじめたのかもしれない。
父はもう母さんたちの絵を模写しなくていいと断言した。
代わりに父から求められたのは個性。
今まで押し殺してきた個性そのものである。
「今さらオリジナルは描けないよ、父さん。お遊びとして模写を続けたいだけだ。パズルを解くような面白さがあるからね」
忍がそう口にしたときの、父の苦虫を噛み潰したような顔は生涯忘れられないだろう。
どこで育て方を間違えたのか。おそらくそう考えていたに違いない。
超一流の画家を育てるつもりで、超一流のモノマネ画家を生み出しただけなのだから。
そのことに気づいた父は、忍の行動を縛るのをやめた。
この子はもう画家にはなれない。ただ模写のうまい少年でしかないからだ。
「であれば、好きな絵を好きなだけ模写すればいい。そのうち父さんの秘蔵コレクションの模写もお願いするかもしれんな」
父の秘蔵コレクションとは聞いたことがなかった。
すべての作品を買い取って、個展で売りさばいていたとばかり思っていた。
どのような絵が秘蔵となったのだろうか。模写をさせてもらう機会があれば、ぜひとも挑戦してみたい。
父のお抱えは母と丸川優子の二名。あとはパトロンとして数名を囲っていた。
いずれもレベルの高い絵画ばかりだ。
すべてが順調に進み始めたときに限って、凶事は浮上してくるものだ。
高校で体育の授業をしていたとき、父から連絡が入った。
母が亡くなったのだという。
張りのない声で告げられた言葉の意味が当初は理解できなかった。
わかったのは、母の葬儀が終わったときだった。
父は当たり前かのように口を開いた。
「忍、体育教師はあきらめて画家になれ。母さんの代わりだ。母さんよりも才能のある画家は、残念だがお前しかいない」
「ちょっと待ってくれ、父さん。いくら母さんが死んだからって、僕が画家にならなければならない理由にはならないだろう。僕は念願の体育教師になりたいんだ。もう絵は遊びだけにしたいんだ」
「遊びでも構わん。今からオリジナルの絵を描けるように準備しておけ。大々的に売り込んでやるからな。お前の画力なら一枚百万円は下らないだろう」
「いや、父さんの秘蔵コレクションのなかから売りに出せばいいじゃないか。僕が仕事で絵を描く必要なんてない」
「すでに時が止まった絵が再評価されるには、今生きている絵に関連している必要がある。ひまわりの絵を再評価させたいのなら、できれば他の画家が描いたひまわりの絵、最低でも花の絵が評価される必要がある」
「それなら父さんがプロデュースして花の絵を描かせればいいじゃないか。母さんがいなくても専属は他にもいるんだし」
その言葉に父は顔をしかめた。
「母さんの絵を引き立てる作品を描かせるのは難しいな。そもそも母さんの作品を売るために、だしに使うことを唯々諾々と従うとは思えない」
「それで僕に絵を描けっていうのか。父さんはどこまで自分勝手なんだよ」
その言葉が父の痛いところを突いたのか、反論はなか返ってこなかった。
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