第9話 義統忍、高校生の逸話 名画の模写遊び

 高校に入る頃にはすでに母に匹敵する絵が描けるようになっていた。

 しかし美術の授業では爪を隠すようにピカソやシャガール、ルーベンスやモネ、ダ・ヴィンチに至るまで、教科書に載っていた名画を片っ端から模写して楽しんだ。


 入学してから出来た友達に駿河するがとものりがいた。彼は剣道部に所属しているが、住んでいる地域が近いため、通学で待ち合わせをする仲だったのである。


よしむね、今日も美術で遊んでいただろう。先生が呆れていたぞ。お前と同じ中学のやつから聞いた話だと、小学校の頃にコンクールで内閣総理大臣賞を獲ったんだってな」


「絵なんて今は遊びに過ぎないよ。真面目に描くのも馬鹿らしいからな」

「せっかくの才能がこうやって埋もれていくわけか。体操部を辞めて美術部に入るのがいいと思うんだけどな。どうせうちの体操部は強くないし」

 駿河の言い分もわからないではない。


「まあ地区大会で敗退するようなチームだからな。でも体を鍛えるにはいい部活だと思うよ」

「それは否定できないな。器械体操なんて全員ムキムキのマッチョ揃い。おそらくいちばん筋肉を酷使する部活だよな」

「いろんな技ができるようになるって、それだけで面白いんだ」


 今日は一学期末で通知表が配られた。

 父が最も気にしているのが美術の成績だったのである。

 しかし忍は最高評価を逃し続けた。


 まあ無理もない。教科書に載っている作品の模写しか描いていなかったのだから。

 贋作家にでもなるのでなければ、まったく意味のないことをしているのは目に見えていただろう。

 そして父が美術の成績を気にするのも、画家とパトロンの息子が最高評価を獲れないとメンツが立たないからだった。


 当の忍は世間の評価などいっさい気にしていない。

 あくまでも絵は遊びだったのである。著名な絵の模写をするのも遊びの一環だし、絵画にこだわる父へのささやかな反抗でもあった。


「なぜ絵にもっと情熱を持てないのか。お前ほどの画力があれば、いずれ日本を代表する画家にもなれるというのに。いつまでも遊んでばかりいないで、少しは真面目に取り組むんだな」

「まあまあ、お父さん。いろんな名画を模写するのは、スキルを高める目的でもよく行われるものですから。あまり叱らないでやってね」


 母のフォローは的確だったが、忍はただ遊んでいただけだった。

 画力を高めようなんてこれっぽちも思っていない。


 だから高校一年生の間、忍は美術で最高評価を逃し続けたのだ。


◇◇◇


「忍、いいかげんにしろ。お前が最高評価を獲らないと母さんの作品が売れないだろうが」

「父さん、そもそも母さんの作品はほとんど売っていないよね。今さら売れないというのは虫が良すぎるんじゃないか。そんなに売りたければ、どんどん売っていればよかったじゃないか」

「お前に画壇のことはわからんよ。いくらいい絵を描いたところで、タイミングを間違えたら評価されない。今、母さんの絵は再評価される時期に来ているんだ。これを逃すと次にいつ好機が到来するかわからない。お前が優秀なら母さんの絵だってどんどん売れる状況なんだ。だから母さんのためだと思って最高評価を獲るんだ」


 結局、他人の描いた絵で生活する以上、より高値で売りたいのが本心なのだろう。

 母を盾にして自尊心を満足させたいようにしか映らなかった。


 だが、本当に母の生活を楽にしたいのなら、協力しないわけにはいかなかった。

 高校二年生になってから、改めて母の描いた絵を模写し始めた。そして美術の時間でも模写のほかにもオリジナルの作品を描いていく。


「義統、お前やっぱり才能あるよ。強くない体操部なんかより美術部に転籍したらどうだ。あまりにも才能がもったいないぞ」

 駿河のひと言は鋭い。

「うーん。絵で将来を考えても、画家はほとんど売れないからな。生活していける画家なんて数えるほどしかいない。だから個展でも開いて実際に絵が売れるところを見るまでは、画家なんて水物でしかないんだよ」


 駿河はあまり納得したふうではなかった。でも忍の母が売れない画家であることを知っているので、ある程度の説得力はあるのだろう。

「まあ絵に関しては義統のほうが詳しいからな。僕はまともな絵が描けないから、どんな世界なのか、興味はあっても近づけもしないし」

 忍が本格的に絵の勉強を始めると、学校中が大騒ぎする出来事が発生した。

 なんと忍が小学生の時に描いた絵が盗難に遭ったというのだ。


 駿河を連れて久しぶりに母校へ赴くと、教頭先生が対応してくれた。先週には壁に掲げられていた忍の絵が、今週に入った途端、こつぜんと姿を消したのだという。


「義統、お前どれだけすごい絵を描いたっていうんだよ。小学生時代の絵が盗まれるなんて、よほど名の売れた画家でなければありえないんじゃないか」

 教頭先生は教職員室のなかで掲げられていた一枚の写真を持ってきた。

「義統くんのご学友の駿河さんでいらっしゃいましたね。これが盗まれた絵なんですけど」

 その写真を見た駿河は、驚きを隠さなかったようだ。


「いやいやいや。これはないだろう。小学生でこれを描いたっていうのか」

「そんなに驚くものじゃないよ。デッサンから着色まで二日で仕上げただけだから」

「二日でこんなにうまいのか。どんな天才児かと思うわな。これは確かに絵画コンクールで優勝するわけだ」

 駿河の賛辞は嬉しいのだが、誰がこの絵を持ち去ったのか。その行方が気になった。


「教頭先生、この写真をお預かりしてもよろしいでしょうか。僕の手元には写真も残していませんから、警察に捜査をお願いするにしても見本がないと」

「ああ、それでしたらすでに警察におまかせしてありますよ。警視庁のたまさんという方が捜査に当たってくださるそうで」


「盗まれたものを探す専門の部署があるんですか。それは知りませんでした」

 駿河は素直な感想を述べた。

 まあ殺人を追う部署があるんだから、詐欺や窃盗にだって対応する部署くらいあるだろう。


 忍は内心でそう思いながらも、口には出さなかった。




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