第36話

 やわらかい光が視界いっぱいに広がる。

 そうか。もう朝か。早く仕度をして、御番所に行かねば。

 今日は深川の番屋で、茶瓶長屋の差配から話を聞く必要がある。新しく長屋に入った鋳掛屋が夜になると出かけ、身元不明の連中と話をしているらしい。風袋を見るに、盗人の一味と思われる。

 荒事で知られる月輪組の連中が、江戸に舞い戻っているという噂も聞いている。早めに手を打たないと、どこぞの大店に押込みが入るかもしれない。

 江戸を守るのは、自分の使命だ。最後まできちんと……。

 そこで、竜之進の脳裏を、昨日の情景がかすめた。

 そうだ。魔術で、確か……。

 思わず身を起こしたところで、激しい痛みが走る。小さくうめいて、そのまま倒れ込む。

「ダメですよ。まだ動いては」

 やさしい声に、視線を向けると、見知った顔がそこにはあった。

「大怪我をしているんです。無理をすると、命にかかわりますよ」

 金の髪と緑の瞳が陽光を受けて輝く。美しさには、以前より磨きがかかっているように思える。

 ヴェルデだ。ヴァルドタントの歌姫が静かに彼を見ていた。

「おぬしか。どうして……。いや、いったい、ここはどこだ」

「私の家です。落ち着いてください。ここは安全ですから」

 ヴェルデの細い手が竜之進の額に触れる。不思議なやわらかさに、焦りが抜けていく。

「熱はなさそうですね。無事で何よりです」

「そうか。俺は、敵にやられて……」

「担ぎ込まれた時には驚きました」

 ヴェルデは、何が起きたのかをゆっくりと語った。

 竜之進を見つけたのは、オックだった。昨日は竜之進に言われて、ナム地区で聞き込みをしていたが、どうにも気になることがあって貧民街に向かっていた。そこで、彼らが戦っているところを見たらしい。

「助けようとしたのですが、間に合わなかったみたいで。運河に落ちたのは見ていたので、夜船の船頭に声をかけて探してもらったようです。何とか見つけて、その後で、近くに私の家があることを思い出して」

「助けを乞うたのか。そうか」

 竜之進は痛みを押して、半身を起こした。

「すまん。いろいろと迷惑をかけたな」

「いえ、水野様には世話になりましたから」

「手当もしてもらったようで。すまないな」

 腕と胸には包帯が巻いてあった。肩の切り傷には、布が貼ってある。

「治療師を呼んで、最低限の手当はしてもらいました。まだ治っていないところもありますので、無理をしてはいけません」

「そうはいかない。ここにいては迷惑がかかる」

 竜之進は寝床から出ようとしたが、痛みが走って、思わずうめいてしまった。

「動かないでください。今、オックさんがエレーネ様を呼びに行っています。あの方ならば、腕のいい治療師を知っていますし、あの方自身の力で治すこともできます」

「しかし……」

「服も焼けて使い物にならないのですよ。その格好でどこに行くつもりですか」

 竜之進は褌だけの姿で寝かされていた。これではどうすることもできない。

 彼が横になると、ヴェルデが毛布をかけてくれた。

「ずいぶんと無茶をしたものですね。何があったのですか?」

「人を探していた。いろいろあってな」

 竜之進は、事情を説明した。ラセニケ家のもめ事については触れず、行方しれずの子供を捜しているとだけ語った。

「治療院ですか。あの貧民窟にある」

「ああ、思ったよりも守りが堅くてな。中に入ることすらできん。知り合いに話を通してもらっているんだが、どうなることか」

「そうですか」

 ヴェルデが黙り込んだので、竜之進は目は細めた。

「どうした?」

「そういうことなら、お力になれるかもしれません」

 ヴェルデは机の引き出しから紙を取りだした。

「やっぱり、そうです。私、治療院のお医者さんを一人、知っています」

「なんだって?」

「私の歌が好きとのことで、何度か聞きに来てくれたのです。話もしたことがありますし、連絡先も知っています。うまく話を持っていけば……」

「手を貸してくれるのは助かる。あそこに入ることができれば、いろいろと物事が先に進む。だが……いいのか」

 竜之進の問いに、ヴェルデはうなずいた。

「かまいません。水野様にはお世話になりました。私がこうしてヴァルドタントで自由な暮らしができるのも、水野様のおかげです。少しでも恩返しができるのであれば、やりたいです」

「だが……」

 ヴェルデを巻きこんでしまうのは心苦しい。苦労してきただけに、何事もなく、このまま平穏に暮らして欲しい。

 その一方で、竜之進が追い込まれていることも確かで、少しでも前に進む力は欲しかった。

「わかった。ならば、手伝ってくれるか」

「喜んで」

 ヴェルデがさながら春の日差しのような心地よい笑みを浮かべた所で、扉を叩く音がした。

「あ、親分、目をさましている」

 部屋に飛び込んできたのは、オックだった。

「まだ寝ていると思ったのに」

「おう。また大変なことに巻きこまれているようだな」

 その後からエレーネが笑って入ってきた。

「歌姫、久しぶりだな」

「こちらこそご無沙汰しています。あの、機嫌がよさそうですが、何かあったんですか」

「これからいいことがあるんだよ」

 エレーネは竜之進を見つめる。

「いい機会だから、こいつの性根をたたき直してやろうと思ってね。さあ、理由を話してもらおうか」

 思わず、竜之進は息を呑む。

 さて、どうやって言い訳するか。

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