第30話
「あそこだね。まさか、こんな所に住んでいるなんて」
エマが示した家は、石造りの建物に寄り添って建つ掘っ立て小屋だった。
木造で、よっぽど手を抜いて作ったのか、右に傾いていた。屋根は曲がっていたし、庇も傾いて落ちかけている。壁もまっ黒だ。
「ひでえな。あれじゃあ雨風も防げねえだろうに」
「ここでは悪くないよ。このあたりは貧民窟だからね。まともに屋根があるだけマシさ」
エマの言葉に、竜之進は左右を見回す。
建物の壁ぎわに、みすぼらしい格好をした男の子が座っている。うずくまったまま動こうとしない。
その横には、大人が寝そべっている。洋袴には穴が大きく裂けていて、まっ黒な足が向き出しだった。
ゴミの落ちた道を子供と母親がゆっくり横切っていく。その顔に精気はない。
ヴァルドタントの南西部には貧民窟があり、そこには食う物すら満足にない人々が暮らしている。荒みきっており、常人は近づくことすらない。
彼らをねらった魔術師は、ここの最深部で暮らしていた。
どうするか迷ったが、竜之進は踏みこむ道を選んだ。殺しを見逃すわけにはいかない。
同行したのは、エマだった。自分で決着をつけたいと言って、引かなかった。
「さすがに、ここまで奥だと他の魔術師も入ってこない。いい隠れ家だよ」
「確か、名前はクムとか言ったな」
「ああ。アクトゥス派の長老に訊いたら、そういうのがいたと言われた。三〇年も前の話らしいけれど」
「そんな奴がどうしてここに」
「前に荒っぽいことをやったみたい。にらまれていて魔術師街には住めなかったんだよ」
「それだけとも思えぬが」
どうも魔術はわからない。これまでのやり方が使えなくて困る。
「この町でやっていくには、慣れていかねえとな」
竜之進は先に立って、魔術師の家に近づく。
後ろからエマが魔術具を投げると、周囲の音が小さくなり、景色がぼやけた。
今回、エマはアデールから魔術具を山のように貸し与えられている。これもそも一つで、何やら気配を薄める道具らしい。
彼らが道を横切っても、町の者は気づく気配すらなかった。すれ違っても顔を向けることすらない。
邪魔されることなく、竜之進は家に取りつく。
人の気配はなかった。どうやら出かけているらしい。事前に使い魔で探っていたとおりだ。
ここでエマが前に出て扉の前に立った、その瞳が竜之進に向く。
「これが最後の仕事だ。もうやらない」
「わかっている。これは俺の役目でもある。存分にやれ」
エマは道具をとりだして、鍵穴を差し込む。しばらくいじっていると、冷たい音が響いた。
竜之進が把手を押すと、扉は開いた。
「暗いな」
「大丈夫」
エマが魔術具をとりだして、灯りをつける。
途端に山のような本が視界に飛び込んでくる。どのぐらいあるのか。書棚だけではなく、床にもテーブルの上にも積んである。
一部の本は開かれたままで、気づいたことを書いた跡も見てとれる。
部屋の右奥には、魔術具とおぼしき銀細工や宝石が無造作に並んでいる。
竜之進は、江戸の知り合いを思い出した。
藤岡屋由蔵という古本屋であるが、彼の仕事場がまさにこのような感じだった。座敷には書付や書籍が散乱し、畳も壁も満足に見えないかった。奥座敷はさらにひどく、紙の束がそれこそ山のように積まれていた。御記録本屋の異名をとるだけのことはあるが、さすがに散らかり具合がひどすぎると思ったものだ。
「これじゃあ、何が何だかわからんな」
「そんなことはないよ。散らかっているように見えて、この部屋、案外まとまっている。大事なものは一所に集まっているよ」
エマはテーブルに近づいた。
「ここだ。見て。何か書いている」
「なんだ、これは人の図か?」
紙には男の裸身が書いてあり、腹や胸のあたりには細かい文字が書き込まれていた。横には内臓が記した図があり、そこにも書付がある。
「星の図があるな。人の内臓を結んでいる」
竜之進は図を指で追った。
「何か書いてある。読めるか?」
「ああ、何とかね」
「内容は?」
「ええと、心の臓と肝の臓を抜き出して、えっ……」
エマの顔が青ざめた。書付をなぞっていた指が止まる。
「待って、これって……」
「どうした?」
「これ、前に帝都の魔術師に見せてもらったことがある。あの時は押込みの下調べをしていた時だから、あまり気にしなかったけれど、まさか……」
「何が書いてある?」
「わかったよ。この魔術師が何をねらっているか」
エマは強ばった顔で、竜之進を見た。
「魔術師の最大の目標にして、禁断の術。……不老不死だ」
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