第三章 歌姫
第18話
「だから、あたしたちは困っているんだよ。勝手に商売をはじめられてさ」
縦にも横にも身体が大きい女に詰めよられて、竜之進はたじろいだ。
助けを求めてオックを見るも、横を向いて視線をあわせようとしない。くそっ、こういう時だけ逃げやがって。
「早く手を打っておくれよ。このままじゃ干上がっちまうよ」
「待て。少し落ち着け。今の話では何が起きているのか、よくわからん」
竜之進は押し返した。ここで寄り切られては、お終いだ。
「まずは順を追って話をしろ。すべてはそこからだ、グレタ」
グレタと呼ばれた女性はテーブルに手を突いて、竜之進に詰めよっていたが、やがて大きく息を吐いて椅子に座った。
「悪かったね。旦那。頭に血がのぼっていたみたいだ」
「わかってくれて助かる。押しつぶされるかと思ったぜ」
グレタは力士を思わせる体型で、ぶつかり合いになったら確実につぶされる。
それでいて、声は聖女を思わせるほどの美しさで、宴に呼ばれてはその素晴らしい歌を披露する。貴族の集まりにも、よく乞われて赴くという。
さっぱりした性格から彼女を慕う娘は多く、色街の相談役も務めている。
そのグレタが竜之進の住み処に飛び込んできたのは、陽が昇ってから間もない頃合いだった。冬の寒さが身に染みる時期で、彼は暖炉の前に坐ってぼうっとしていた。
突然の嵐に、竜之進は混乱し、危うく言いなりになるところだった。
「さて、どこから話をしようかね」
グレタは右手で髪を梳いた。
「あたしがヴェンタの近くで、歌の師範をしていることは知っているね」
「ああ。若い芸者が通っているんだろう。前を通りかかったら、声が聞こえたよ」
「ゲイシャ? ああ、歌い手のことかい。そうだね。確かに、色街の若い娘にも教えているが、それだけじゃないんだ」
ヴェンタとは、色街の場所を示す。江戸で言えば、吉原みたいなものだ。
グレタの仕事場はヴェンタの大門が見えるところにあり、弟子に歌の稽古をつけている。
「なんというか、歌は生きていく上での知識みたいなものだ。人と話している時にも出てくるし、ちょっとした気持ちを伝える時にも使える。仲違いしていても、声をあわせて歌えば、気分がすっきりして、わだかまりも解ける。そんなものさ」
「確かにな。いい歌を聴くと、心が晴れる」
「そうそう。で、あたしたちはそれなりうまくやっていたんだけど、ひと月前、いきなり歌の師範が現れたんだよ。それも、仕事場の真ん前に。腹がたったね。仁義も何もありゃしない」
「商売敵か。気持ちはわかるが、別段、咎めることではないだろ」
「挨拶もなしにはじめられたら、いい気持ちにはなれないさ。それに、その歌の師範、驚いたことにエルフなんだよ」
グレタは腕を組んだ。
「エルフは歌がうまい。節回しは独特だし、何よりもあの声だ。人間族には絶対に出せない高さと伸びがある。あんな連中に歌われたら、こっちは商売あがったりだよ」
「わかっている。だから、エルフが芸者をやるには市長の許しがいるんだろう」
エルフは特別な種族で、商売をはじめれば、あっという間に人が集まる。
それは町の秩序を乱すほどで、それを怖れて、ギルドは参入を厳しく制限していた。
芸の世界ではとりわけ厳しいと聞いていたが……。
「当然。でも、そんな話は聞いていない」
「許しがないのか。そいつは問題だな」
「余所から来た流れ者が好き勝手やって許されるわけがないんだよ。歌姫って認められているならともかく、何でもないんだからさ」
「なんだ、その歌姫っていうのは?」
「後で教えるよ。今、ここで大事なのは、仁義を通さず、勝手に歌を教えていることさ」
グレタはまくし立てた。
「あそこでは、男でも女でもおかまいなしに弟子として受けいれている。当然、人手が足りないから、ヴェンタの若い娘に手伝わせている。エルフ目当ての若い男に女がからめば、何が起きるかは見当がつくだろ」
「春を売ることまで考えているわけか。そいつは大変だ」
「大店の息子が熱をあげて、金を突っ込んでいるという話も聞いている。奥さんを放りだして通う大工もいる。あたしだけじゃなくて、町の女からも苦情が出はじめているんだよ。何とかしてくれないかね」
「言いたいことはわかるが、こいつはちょっとなあ」
竜之進は大きく息を吐き出した。
「とりあえず役所に話を持っていったら、どうだ? 許しは得ていないんだから、すぐに追い出せる」
「うまくいかないんだよ。賄賂でももらっているんだろ」
グレタは立ちあがり、竜之進に顔を寄せた。
「だから、あんたの力で何とかして欲しいんだよ」
「何とかと言われてもなあ。筋違いもいいところだぜ」
商いのもめ事は、当人同士で片をつけると決まっている。同心が割って入る余地はない。
「気乗りがしねえなあ」
「いいから、さっさとおやり。さもないと、今度は芸者衆を全員引き連れて、その気になるまで、ここに居座るよ!」
グレタは吠えた。
うるさ型の芸者が詰めよってくる。それは悪夢の情景だ。多分、三日は眠れない。
竜之進は決断するしかなかった。心から望まない形ではあったが……。
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