第2話
「はは。それで連中は逃げ出したわけかい。だらしないねえ」
軽やかな笑い声に、竜之進は手を振った。
「たいしたことはしていませんよ。俺が行った時には、あらかた騒動は収まっていました。やったのはケツを拭くことぐらいでしたよ」
「何を言う。おぬしが行かなければ、再び殴りあいになって、怪我人は増えていただろうよ。事を収めたのは、おぬしの才覚よ。さすがはヴァルドタントの剣鬼」
「
竜之進が苦笑いすると、目の前に座っていた女性も笑った。
顔立ちは驚くほど整っている。大きな丸い目も、高いのに小さな鼻も、一流の職人が作ったか彫像のように美しい。ほっそりした身体つきには、何とも言えぬ色気が漂う。
絹のケープをまとったその姿は、吉原の花魁を凌駕する艶やかさだ。
実に美しい。江戸でも評判の美人はたくさん見てきたが、比べものにならない。
エルフ族のエレーネは、近隣のエルフ族を束ねる長で、三〇〇年も前からヴァルドタントに住んでいる。市長のみならず、帝都の重鎮とも知り合いで、発言力は絶大だ。彼女が文句をつければ、市役所の重鎮がすっ飛んで詫びに来ると言う。
ただ、その割に人柄は気さくで、エルフのみならず、人やドワーフとも分け隔てなく交流する。無暗に威張ることはなく、人をたしなめるときも穏やかだ。
竜之進にとって、よき相談相手だ。世話になりっぱなしで頭があがらない。
「まあ、おぬしが収めてくれてよかった。ここのところ警邏の連中は役にたたぬ」
二人が話をしているのは、南門の近くにあるエルフ会館だ。三階建てで、二階が執務室、その上がエレーネの住み処だ。
町の中心から離れているのは、目立たないようにしているのに加えて、何かあった時、脱出を容易にするためだ。幾つも抜け道が用意されており、何かあれば、すばやく屋敷から抜け出すことができる。
「市長は人間族に肩入れしている。同族であるから当然であるが、いささか度が過ぎる。前の代までは、もう少し我らのことに気を配っていたのだがな」
「さようで」
「南の方がきな臭いので焦る気持ちはわかる。が、やり過ぎると、亜人も騒ぎ出す」
「むずかしい話でございますねえ」
竜之進は笑って、首筋をかいた。
「そういう話は、お偉方でやっていただきたいですな。手前は、町の者を守るだけで精一杯。変なところには首を突っ込みたくないので」
「おぬしは変わらぬな。いつも町の者を守るために走り、怒鳴り、戦っている。たとえ相手が権力者あってもな。芯の強さは一流だな」
「姐さんに、そう言ってもらえるのはうれしいですねえ。本当に」
竜之進は頭を下げた。
「ただ、あっしは自分のやりたいことをやっているだけなんですよ。江戸の町にいたから頃から、ずっと変わらずにね」
ふと、脳裏に江戸の町がよみがえる。
遠く離れてしまったが、今でも鮮明に思い出すことができる。
水野竜之進は、南町奉行同心、水野太郎左衛門の息子として生まれた。
母は彼が三歳の時にはやり病で亡くなり、その後は父と下女の手で育てられた。
父の教えは厳しく、学問でも剣術でも容赦がなかった。少しでも失敗すれば、最初からやり直しを命じられ、うまくいくまで何度もやらされた。
成長して道場や学問所に通うようになってからも変わらず、夜になると、必ずその日にやったことを報告させられ、わずかでも言いよどむと、厳しく叱責された。
元服したのは十五歳の時で、間を置かず南町奉行に目通りし、見習い同心としての役目についた。
奉行所の同心は将軍と対面できない御家人であり、本来は一代限りの召し抱えであるが、泰平の世が長くつづくと、いつしか親の跡を嗣ぐのが当たり前になっていた。
町奉行同心はきわめて特殊な役目であり、江戸の事情に精通していなければやり遂げることはできない。
そのためには積みあげてきた人間関係が重視されるわけで、同心の息子である竜之進は適任だった。
彼は、若いながらも力量は認められており、近いうちに、花形である定町廻りになると思われていた。
しかし、ある夏の夜、何者かに斬りつけられて、すべてが変わった。
盗人が出たということで、竜之進が深川八幡の裏手に出向くと、怪しいふるまいをする人物を見かけた。声をかけようとする逃げ出したので、あわてて後を追った。
深川三十三間堂の裏手に入ったところで見失ってしまい、どうしようかと思ったところで、いきなれ斬りつけられ、気を失った。
次に目が醒めると、森の中にいた。
川に半分、身体を突っ込んだ状態で、ようやく起き上がると、見たことのない景色が周囲に広がっていた。
江戸ではない。何かがまるで違う。
ふらふらになって歩いていると、空から茶色の獣が迫ってきた。
「
エレーネが笑うと、竜之進は頭を下げた。
「あの時は助かりました。手を貸してくれなかったら、あいつに喰われていました」
竜之進が翼竜に追い込まれた時、エレーネとその仲間が助けてくれた。魔法で動きを封じると、またたく間にその首を切り取って、巨大な敵を始末してくれた。
「森で妙な気配がして確かめに行ったら、おぬしがいた。縁があったということだな」
「さようで」
「拾ったからには見捨てるわけにはいかぬ。勝手に世話をさせてもらった」
「あっしは猫ですかい」
「似たようなものだよ」
エレーネは竜之進をヴァルドタントまで連れてくると、住居を与え、食事の世話をし、仕事を見つけるきっかけを作ってくれた。
「おぬしのけったいな服も用意した。絹であったからな。いろいろと大変であったぞ」
「いや、わがまま言って、申しわけありません。これがないと、どうにも身がひきしまらねえんで」
竜之進の服は黒紋付の羽織に黄八丈の着流しという、江戸で同心を務めていた時と同じものだ。褌も襦袢も雪駄も特別に誂えてもらった逸品である。
ヴァルドタントに来た当初は、皮の服を着ていたのだが、どうにもなじめず、無理を言って、一揃い作ってもらった。
「まあ、いいさ。うちの職人もおもしろいと言っていた。そのうち手直しして、どこかで売ろう。ただ、その剣だけはどうにもならなかったな」
エレーネは、部屋の片隅に置かれた刀に見やった。
竜之進の差料は忠吉の打刀で、先祖伝来の業物である。
刀長は二尺二寸八分。手にした時の感覚が素晴らしい。
念入りに手入れしているが、こちらの世界に来てから何度となく使っているので、痛みも目立つ。
「そう思いますよ。一本しかないので渡すわけにもいきませんしね。まあ、しばらくは大切に使っていきますよ」
「そうしてもらわねば困る。でなければ、貸しを返してもらえないのでな」
エレーネのからかうような言葉に、竜之進は顔をしかめた。嫌な予感がする。
「もしやすると何かあったので?」
「そうよ。ちょっと調べてもらいたいことがある」
「今日、呼び出したのも、そのためで?」
「察しがいいね。そういう男は好きだよ」
エレーネはテーブルに肘をつき、優雅な仕草で手を組むと、そこに顎をのせた。
琴の音色を思わせる声で話をはじめる。それは思いのほか長くなった。
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