第56話 いい人止まり、選ぶ③


「な、なに言ってやがんだ……」

「ホホホ。だから言うたじゃろう。わらわは面白いものが好きじゃと。これでようやくお主の要求とトントンじゃ」


 女王ニァブは、卑劣に捻じ曲がった口角を隠そうともしなかった。


「先だってお主の頭を覗いたとき、二人といるときのお主はやけに幸せそうじゃった。故に、そのどちらかからお主の記憶を奪ったらさぞ愉快だろうと思っておったのじゃ。我ながら冴えておるわ。さぁ、どちらが良い? お主が選んだほうを正解にしてやるぞ」

「お前……」

「ほれ、早う選べ。どちらじゃ。燐か、灯里か」

「……選べる訳ないだろ」

「なら、燐は返せないのぉ」


 スルスルと、ふざけたことを口にする。


 細かいことなどどうでもいいのだ、この化け物は……

 ただ、人間が苦しんでいる様を楽しみたいだけなのだ。


 憎しみを込めて睨みつけるも、女王は余裕の表情で笑顔を浮かべて返す。

 オレは下唇を噛んだ。


 ここに来て、ゴールを目の前にして……

 どうすればいい……


「……アタシが忘れる」


 燐が名乗り出ていた。

 

「な……なんで!」

「灯里っちは、純くんと関わりすぎてる。純くんの記憶が消えると、色んな過去に影響が出て多分普通には生きられなくなる。でも、アタシの純くんとの記憶は今年だけ。最初は混乱すると思うけど、きっと酷いことにはならない」


 彼女の話し方はこの状況に似合わないほど冷静だった。


「そういう問題じゃねぇだろ⁉︎ どうにか二人とも残す手段を――」

「わかるの。この案を受け入れた時点で、あの女王から二択以外の選択肢を引き出すことはできない。答えるしかない。どうしてそう感じるのか、わからないけど……」

「ホホ、妖精の力が馴染んでおるからじゃよ。やはり無理にでも羽化させておいたほうがよかったか……?」


 ニァブは不敵に笑っている。


「女王様。アタシから、純くんの記憶を消して」

「それはこやつが決めることじゃ」


 この場にいる全員の視線が、オレに向く。

 あまりに荷の重い選択が、委ねられた。


 この一年のオレの記憶が消えたら、燐はどうなるのか。

 架空の未来が頭に駆け巡る。

 

 燐の頭からオレの記憶が消えたら、オレに三十七回忘れられたことを当然忘れ、忘れられないように必死に工夫したことも忘れ、この妖精の国のこともオレの存在が欠落した不完全な状況となるのだろう。


 しかし……だからなんなんだ?


 オレを忘れたとしたら、それはホームレス時代の不幸せな記憶が消えるってことだ。

 それに、元の世界に戻れば、燐の両親も娘の一年間の不在にすぐに気づくはず。

 警察に行って電話一本でも入れれば、その日のうちに彼女は両親の元へと帰れるだろう。

 

 ……なら、幸せじゃないか。

 オレがいなくても。


「燐は、それでいいんだな……」

「……いいわけない」


 振り返って、オレは彼女の剣幕に息を呑んだ。

 燐は、大粒の涙をこぼしながらオレを睨んでいた。


「アタシだって、覚えていたいよ……! 誰を忘れたって……純くんのことは忘れたくない……!」


 繋ぐ手が痛いくらいに握られている。

 強く、切実に……


「沢山思い出があるの! 夏も、冬も、春も、秋も! 純くんの優しさも、暖かさも、全部忘れたくない!」

「燐……」

「……でも、そうするしかないの。わかるの。これが、用意された答え。そう仕向けられてる……」


 語尾に向かうに従って、燐の声は段々弱まっていき、最後には、涙と共に地に落ちていった。


「本当に、どうしようもないのか……?」


 燐は首を振った。


「純くん、言って。アタシを選んで。それで、終わらせよう……この日常を……」


 オレを見上げる燐の大きな瞳には、強い決意が灯っていた。

 その光に、オレが異論を差し挟む余地は、もうなかった。


 彼女は既に覚悟を決めている。

 それに、オレは応えなければいけない。


 彼女の最後の想いを、無駄にしないために……


「……答えは、燐」

「ホホホ、正解じゃ。まぁ、いい暇潰しにはなったかのぉ」


 女王の愉快そうな笑いに伴って、絹のような長い金髪が揺れる。

 オレは歯を食いしばった。


 コイツにとっては、全てがお遊びか……


「さて、なかなか楽しませてもろうたし、約束通り魔法を解いて元の世界へ帰してやろうかの」


 そう告げると、女王ニァブはベッドから腰を上げ、優雅な足取りでオレたちの前まで歩いてきた。

 オレはその様子を憎々しげに睨んでいたが、姿が近づくほどに気圧されてしまう。


 現実離れした美貌と、人を威圧する存在感……

 既に、彼女の立ち振る舞いからは、先ほどまでの人間らしさは失われていた。


 畏れを抱かせるほど荘厳な今の姿は、神にさえ近い……


 左手が、再び強く握られた。


「……アタシ、純くんのこと忘れても、忘れないから」


 女王が近づくなか、燐がオレを真っ直ぐに見つめていた。


「忘れたって、きっともう一度会いに行くから」

「燐……」


 透明な雫が、彼女の大きな瞳からこぼれ落ちる。


「……大好き」


 オレたちの前で足を止めた女王の背中から、虹色に輝く巨大な羽が広がった。


 ニァブの聞き取れさえしない呪文が耳に届いた瞬間――


 意識は闇の底へ落ちていった。



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