第52話 いい人止まり、ゲームをする①
世界は墨を流したような闇に堕ちていた。
不安げな燐だけが、オレの手の先に存在している。それ以外は、なにも見えない……
「大昔、妖精となった男を人間界に連れ戻した女がおった」
女王の声は、どこからか響く。
「勝負には負けたが、それが大変楽しくての。また同じことをしようと思うのじゃ。ルールは一つだけ。燐の手を離したらお主の負け。離さなかったら、わらわの負けじゃ」
「……なら、離すわけねぇだろ」
「そうか?」
突然、握っていた手から伝わる感触が変わった。
ゴワゴワとしていて、硬い。これは人の手なんかじゃない。毛のついた棒だ。
オレは振り向いて、硬直した。
ついさっきまで燐が立っていた場所には、デカい虫がいた。
オレより高い体長のそれが、真横に直立してオレを見下ろしている。
複数ある足の一本を、オレの手はしっかり握っていた。
背筋が、大きく震えた。
「ほれ、お前。怖いのじゃろう。気持ち悪いのじゃろう。離したらどうじゃ?」
ニァブの無邪気な笑いが響く。
同時に、隣の虫が羽をバタつかせ始める。
悪趣味だ。
オレは全身に汗が流れるのを感じながら、自分の内にある誤りに気づいた。
今までオレは、ピルィーや女王をアニメ映画の妖精と同種のものと見なしていた。
どうやらそれは、おめでたい勘違いだったらしい。
映画の妖精はただのフィクション、つまり人間に都合のいい『偽物』であり、今オレをオモチャにして遊んでいる連中こそが、『本物』の妖精なのだ。
そして、恐らくコイツらは、人間を石や樹木くらいにしか思っていない……
「ふむ、虫ではダメか。人間は虫をぶつければ大抵参るのだがの」
姿が見えなくなったことで、彼女の邪悪さがストレートに伝わってくる。
「なら、これではどうじゃ」
音もなく、棒状の感触は消えた。
その代わり、オレの拳に現れたのは、一枚の刃物だった。
鋭く磨き抜かれたそれは、不用意にも握り込んでいる手から血を吹き出させていた。
手の肉を裂き、骨に達している感覚がある。
痛みはない。痛くはない。
だが、脳が混乱し、危険信号を発している。
「まだじゃよ」
ニァブの声を合図に、刃物やらパイプやらドリルやらが拳を貫通して突き出てきた。
顔に血がかかる。
直視もできないほど悲惨な状況が、オレの手を襲っていた。
手の甲が、様々な凶器で蹂躙されていく。
オレは思わず目を背けた。
そうだ、見なければいい。
どんな感覚が来ようとも、痛くなければ、我慢できる。
そう思っていると――全ての感覚が消えた。
なにも感じない。
音もしない。
恐る恐る目を開いて真横を振り向く。
……燐の姿がなかった。
騒がしかった先ほどまでと打って変わって、闇の世界にいるのは、オレ一人だ。
まさか、目を瞑ることはルール違反だったか……
ヒヤッとした瞬間、周囲の闇が晴れ、白く染まり始めた。
いや、ようやく終わったのか……
オレは安堵の息をつき――それが誤解であることに気づく。
目の前に広がり始めたのは、妖精国の白い綿の世界ではなく、正真正銘の雪景色だった。
呼吸が浅くなる。
間違えるわけがない。何度も繰り返し見た、悪夢だ。
住み慣れた地元の街並み。
大きな古い市営団地。
白く染まる駐車場。
その遥か上方から……
「どれ、お主が一番が見たくないものを見せてやろうか」
灯里の体が、大粒の雪と共に降ってきていた。
――――――――――――――――――
次回、いい人止まり、立ち尽くします。
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