第51話 いい人止まり、異界に乗り込む②
「妖精女王ニァブ様。お客様をお連れしました」
恭しくピルィーに呼ばれ、その生物は目を覚ます。
まるで死から復活したというようにゆっくりと身を起こすと、オレたちに気だるげな視線を送る。
その姿を目にした瞬間――オレは、彼女以上に美しいものはこの世に存在しないと直感した。
彼女が身に纏っているのは、薄く半透明なドレス一枚だった。
ピルィーほどすっぽんぽんじゃないが、ほとんど裸だ。
しかし、それが余計に彼女の異質さを引き立てている。
絵画のなかの女神でさえ、彼女の美しさの数分の一にも達していない。
完璧な美とは、彼女のことだ――
「波が泡立ち、青き太陽が昇る頃、残る容は何に似る」
ニァブと呼ばれた彼女は、不意に薄桃色の唇を動かして、謎の文句を口ずさんだ。
オレは高鳴る鼓動が燐に気づかれていないか心配しつつ、頭上を飛ぶピルィーに尋ねる。
「今、なんて言ったんだ……?」
「女王様は、『ばーか帰れこのクソボケ純』と仰っている」
「……嘘なら殴るぞ」
「間違ったわ! 『アンタ名前はー?』ってさ!」
やっぱり嘘じゃねぇか。
油断も隙もない。
「……佐伯純」
「月はさやかに照り、風立つ丘に鬼火が彷徨う」
ニァブは、またも詩っぽいセリフを吐いた。
どうやら、彼女の言語はこういうものらしい。
「今度はなんて……?」
「『なんか用? アタクシ、これからヨガでちょー忙しいんだけどー』だって!」
「……殴るからな」
「ちょっと! 今度は本当よぉ! 失礼しちゃう!」
ピルィーは憤慨する。
オレは金髪の女に向き合った。
まともに眺めれば眺めるほど、その白磁のようなきめ細かな肌や、起伏に富んだ女体に目が行ってしまう。
ちょっとヨガ見たいな……
そう思った途端、隣からジトッとした視線を感じた。
燐が汚れたものでも見るようにオレを眺めている。
オレは慌てて咳払いした。
「ヨ、ヨガでもなんでもいいが、先にこっちの話を聞いてもら――」
「ところで」
オレの言葉に被せるように『女王』が言った。
そう、女王が言った。
「その女王に挨拶一つせんのか、人間?」
「……いや普通に喋れんのかよ⁉」
「無礼な動物じゃの」
妖精女王は、わずかに指先を動かす。
その途端だった。
まるで巨人の手に上から押さえつけられたかのように、オレの上体が勝手に折れ曲がった。
強烈な力で、ベッドに向かってお辞儀をさせられ、顔を上げようにもビクともしない。
「それで良い」
女王の甘ったるい猫撫で声が聞こえると、同時に重力も元に戻る。
オレは浅い息を吐きながら、ベッド上の存在に驚愕の目を向けた。
コイツはダメだ……
生物の本能が告げていた。
圧倒的に、敵わない……一瞬で殺される……
「さて、純とやら。わらわの眠りを妨げたこと、どう落とし前をつける?」
伝わる言葉を話し出した女王は、高圧的だった。
長いまつ毛に覆われた瞳が、爛々と危険な光を放っている。
――女王様がご機嫌斜めだったら、会った途端に牢屋に閉じ込められる。
入国前にピルィーが言っていたことが脳裏によぎる。
どう答えるのが、正解だ……どうすれば切り抜けられる……
オレが答えあぐねていると、隣から代わりの声が上がった。
「ア……アタシも邪魔した。謝って済むなら、一緒に謝る……だから……」
燐が女王に向かって告げていた。
繋いだ手から、震えが伝わる。
女王は燐に向き直ると、オレのときとは打って変わって優しい慈母のような笑みを彼女に向けた。
「燐は良いのじゃ、気にせずとも」
「なんで……」
「お主はもうほとんど妖精だからじゃよ」
女王の一言は、オレたちの思考を停止させるのに十分な威力を持っていた。
「アタシが、妖精……?」
「そうじゃ。同族に認識されなくなったなら、それはもう人とは呼べぬじゃろ」
女王ニァブは厳かに頷く。
「それに、覚えておらぬのか? お主は生まれ故郷にいたころ、わらわのことを絵にする代わりに、十六となった暁には妖精になると約束したのじゃよ。故に、わらわはお主に魔法をかけた。今頃は、人の世から完全に忘れられる時分じゃろうて」
「そんな……」
燐は絶句する。
顔色からして、彼女はその出来事を覚えていないようだった。
彼女が生まれ故郷、つまり北欧にいたのは、六歳までだ。
あまりの理不尽さに、頭がカッと熱くなった。
「そんなのが、燐に呪いをかけた理由か……子供のころに絵に描いただけで……」
「だけ? わかっておらぬのぉ……わらわの絵じゃぞ? 奴隷にしたって文句は言われない条件じゃと思うが」
「な、なにを馬鹿な……」
余裕の表情を崩さない女王に強く言い返そうとしたそのとき。
横で燐が、俺の注意を引くように繋いでいる手を握った。
「思い出した……アタシはこの人の絵を描いてる……」
その手は震えていた。
「賞を取ったときの絵だ……」
俺は、思わず愕然とした。
それは、まずい……
燐の才能が世間に見出されたキッカケは、妖精を描いた一枚の絵によってだった。
そのモデルがコイツであるならば。
この世に存在さえしないような美貌を前にして、燐が描き、その美が評価されたのなら。
ニァブは、確かに自分を絵に描かせることで、燐に利をもたらしたことになる。
不利な条件に冷や汗が流れてくる。
それでは、コイツの話に筋が通ってしまう……
女王はベッド脇の机に寄りかかり、上に飾られたネックレスを首にかけながら、横目に燐を眺めた。
「……しかし、妖精の国に来たというのに、まだ羽化しないのじゃな」
次の瞬間には、オレたちの目の前にニァブが現れていた。
息を吸う間も、ない。
人の域を超えたスピード。
ニァブは身を屈めると、燐の輪郭を長い指でなぞりながら呟いた。
「人の世で暮らせないようになれば、素直に妖精として生きると思ったのじゃが……まだ人間と繋がっておるのか……」
そう言いながら、視線は燐の腕に沿って下へ……オレたちの繋いでいる手まで滑る。
それだけで、彼女の言わんとしていることをオレは察した。
今の燐を社会と繋いでいるのは、オレしかいない……
彼女が未だに人でいられるのは、オレが楔になっているからか……
オレは女王を睨む。
「絶対渡さねぇからな……」
「ふむ、やはりお主なのか……存外おもしろい奴よの。わらわは、おもしろい生き物は好きじゃよ」
女王は、まるでオレの存在に初めて気づいたかのようにジロジロと見つめ出す。
そして、突然手を叩いた。
「そうじゃ、落とし前の付け方がわかったぞ!」
瞬きよりも早く、いつの間にかベッドの縁に腰掛けていた女王は、喜色満面にオレたちに命令する。
「一つ遊びをしようではないか。よいか? お主たち、今からわらわが良いぞと言うまでその手を離してはならんぞ」
「……は?」
「離してしもうたら、その時点でお主たちはさよならじゃ。おもしろかろ?」
「は……はぁ⁉︎ そんなゲームは受けないぞ!︎」
「それはお主が決めることではない」
女王がパチンと指を鳴らすと、燐以外のすべてが溶けて消えた。
――――――――――――――――――
次回、いい人止まりが戦います。
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