第47話 いい人止まり、困惑する
ギクリとした次の瞬間には、オレの体は前へつんのめっていた。
ただ立っていただけなのに、膝から突然力が抜け、平衡感覚を失う。
真下にいた燐共々、倒れ込むのを止められない。
「うわッ!」
「ふぇぇっ!」
世界がスローモーションに変化し、押し倒される燐が驚きに目を見開く様を目撃しながら、オレの脳みそは戸惑った。
な、なんだ――?
なんで今、オレは転んでるんだ?
なにもしていないのに、急に膝がくずおれた。
……例えるなら、そう、膝カックンだ。
燐を下敷きにしないように、オレはなんとか肘をつく。
オレの下に強制的に潜り込まされた燐は、目を何度もしばたたかせてオレを見上げていた。
「だ、大丈夫か?」
「う、うん……」
頷いた燐は、オレの背後を見透かすように続ける。
「いまなにか……聞こえたよね……?」
その言葉に驚く。
聞こえたのは、オレだけではなかったのだ。
「へへーん! ざまぁねぇこった!」
また聞こえた。
高すぎる、声というより鳴き声に近いそれ。
オレは急いで振り返る。
すると――いた。
信じられなくて目をこする。二、三度こすって頬をつねる。
それでも、その姿は消えない……
手のひら大くらいの人型の生き物が、オレたちの背後でホバリングしていた。
服を着ておらず、背中にトンボみたいな透けた羽を四枚生やしている。
それは、どう見たってアレだった。
ピーターパンの周りを飛び回る、アレ……
「妖精だ……!」
燐が、口元に手を当てて叫んでいた。
その視線は、オレとまったく同じ場所に注がれている。
……どうやら、オレの寝不足が見せる幻覚ではないようだ。
「あぁ⁉ アンタたち、アタイのこと見てるでしょ⁉」
オレたちの目に気づくと、それは低い空中からキーキーと喚き立てた。
「見るな! チクショウ! 見つかるなって女王様にキツく言われてたのに! もっと見て!」
甲高い、小動物の悲鳴みたいな声。
金糸のような髪に、素っ裸の全身。股にはあのグロテスクな棒が生えていないから、多分メスだ。メスの妖精。
妖精に性別があるのかは知らないが……
「人間野郎にバレたってバレたらアタイおやつ抜きのおしりペンペンの刑になっちゃうじゃない! 今日のおやつはゴミムシのこっくり焼きよ! やん、アタイ激しいの大好き! 早く隠れて帰らなきゃ!」
それは、一応、人間の言葉を喋っていた。
内容は、支離滅裂だが……
呆気にとられていると、段々その生き物の周縁が青い空気に溶けて薄れていくのがわかった。
「捕まえてッ‼」
突然、燐が今までにない大音声で吠えた。
オレは弾けるように前に飛び出し、消えかけたその体を間一髪でむんずと掴む。
「ぐぇ……ッ! ちょっと! 苦ちぃ!」
生物は、オレの手のなかでもがいた。
「早く離して! 離しちゃイヤ!」
オレは、拳に収めた生物に改めて目を見張る。
オレ、妖精を捕まえちまったぞ……
「お知らせもなく握り潰すなんてひどいじゃない!」
彼女(?)は、脳天に突き刺さるような金切り声で非難し始めた。
「ちょっと膝蹴って転ばせてやっただけなのに! 今日は厄年だわ! あぁ、嬉しい‼」
「……」
オレは、ついツッコみたくなる気持ちをグッと我慢した。そんな場合じゃない。
人間、ありえないことを目の前にすると、思考停止するらしい。
妖精は、枝豆くらいの小さな口から小さなため息を漏らすと、拳からオレを見上げて尋ねてきた。
「アンタ、なんて名前よ」
「……」
「ねぇ、聞こえないの⁉ 答えなさいよっ‼」
「……純」
「死ね純‼」
シンプルに罵倒された。
答えなきゃよかった。
「お前こそなんなんだ……」
「アタイは妖精さん。え、アンタ妖精さんなの? そうよ、妖精さん! ちょっとヤダ! ちゃんと名前で呼んでよ! アタイにはちゃんとピルィーって名前があんのよ‼」
妖精は一人芝居で捲し立てると、オレの手に思い切り噛みつき始めた。
「イッテェ――ッ! いきなりなにすんだ! やめろ‼」
「だってアンタ、今アタイを握り潰してるじゃない!」
彼女は、オレに食いついたままモガモガ言う。
「良い行いには良い行いで、悪い行いには悪い行いで返す。これが妖精の掟第十二!」
「なら、先蹴ったのお前だろ!」
「そんなことしてないわよ‼」
「さっき自分で言ったろ! いいから離せ……!」
オレは彼女の親指大の頭を持って肉から無理やり引きはがす。
手には歯形がついていた。
「どうして……」
小さな呟きに振り向くと、地面にペタンと座り込んだ燐が、今にも泣きそうな表情で妖精を凝視していた。
「どうして今さら見えるようになったの……」
「コイツがバカにしたからよ!」
妖精はオレを指さしてケンケンと叫ぶ。
「アタイのことバカとかタコとかうんこ味のカレーとか言いやがって! アタイはカレー味のうんこよ! 失礼しちゃう!」
彼女のけたたましい叫び声は、寝不足の頭にいたく響く。
思わず腕を伸ばして物理的に距離を取った、そのとき。
「……ちょっと待て」
ふと、ひとつの違和感を思考が捉えた。
それはみるみる膨らんで、疑念になり、心臓が口から飛び出そうな緊張を連れてくる。
オレは再び拳を近づけて、ふんぞり返る妖精と目と鼻の先で向き合った。
「ピルィーとか言ったな……ひとつ言っておきたいんだが、オレがさっきバカって言ったのは、燐をこんな目に合わせた奴に対してだ。誰とは言ってない」
「知ってるわよ! だからアタイは、バカはお前だバーカって言い返してやったんじゃない! 妖精の掟第十二に従ってね!」
「つまりお前がやったってことか」
「……ギクッ!」
「お前が燐をみんなから忘れさせてんだな?」
「ギクギクッ!」
漫画のように反応した妖精は、慌てた様子で否定し始めた。
「ア、アタイじゃないわよ! アタイはやってない! ただの監視役だもん!」
「……じゃあ、誰がやってんだよ」
「女王様がやってるの!」
そう叫んでから、彼女は顔面蒼白になった。
「いっけね、これ言っちゃいけないヤツだった!」
――――――――――――――――――
次回、北欧系ギャルが妖精を喘がせます。
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