第46話 いい人止まり、叫ぶ


 燐の家が元あった土地を去り、公園へ戻るとき。


 灯里は、


「なんでも力になるから」


 と力強く請け合ってくれた。

 不可解な事象には納得できずとも、燐の苦しみには共感したらしい。


 ただ、そんな彼女も二日経てばすべてを忘れた。

 世界の忘却力がどれほど強固なのか、オレはまったく分かっていなかった。


 オレが三週間も覚えていられたのは、単に燐の一年に渡る人体実験の結果だったのだ。

 そして、その期間も越えて、今もオレが記憶を保持しているのは、ひとえに奇跡の賜物だ。

 恐らく、もう二度とは起こらない……



 最低気温が、四度を記録した。

 今年の冬は平年よりずっと寒くなる予報で、小屋から凍えながら出てきた燐は、ゆたんぽを抱きしめすぎて引っかかれていた。


 文化祭から、さらに一週間弱。


 オレたちは一日中、ひたすら歩き続けていた。

 彼女に縁がある場所を訪れ、正体のわからない『原因』を探す毎日。


 通っていた絵画教室、図書館、スーパー、そこらへんの道……

 ただ、あてもなく、街を彷徨い続ける。


 オレは、文化祭を飛び出してから、自分の学校には一度も足を運んでいなかった。

 さらに、ここ数日は寮にさえ帰っていない。


 当然、心配した灯里や瑛一から、頻繁に電話やメッセージが入るようになった。

 が、毎回、問題ないということだけを伝えて切るようにした。


 真実を伝えても、彼らは結局忘れて、振り出しに戻る。

 時間を浪費するだけだ。なら、曖昧にやり過ごしたほうがいい。

 燐がオレに素性を伝えなかった理由を、この身で学んでいく。



 時は、残酷に、過ぎる。


 オレたちは一体なにを探しているんだろう。

 この行為も無駄なのではないか。

 そんな疑念を振り払い、歩みを進める。


 焦っていた。


 日が経つにつれ、燐を忘れる瞬間が増えていたからだ。


 一時間に一度鳴らしていたアラームは、今は二十分おきに変更した。

 寝てしまったら、燐を忘れてしまいそうな気がして、眠ることさえ自分に禁じた。


 睡魔が襲ってきたら、顔を叩き、公園を走る。

 それでもダメなら、冷水を溜めたバケツに顔を突っ込む。


 毎日歩き詰め、さらに四日は寝ておらず。

 そんな自分で自分を拷問するような生活は――突如として終わりを迎えた。



 その日は、数日ぶりの快晴だった。

 暖かな陽気がとても穏やかで、空気はどこか牧歌的だ。

 オレたちは、公園の芝の上で昼食をとったあと、次の作戦を立てていた。

 

 そして……

 

 いつから、そうなっていたのか……

 オレはいつの間にか意識を失っていて。


 気づいた時には、知らない女性に膝枕されていた。


「……誰?」


 夢か現か判然とないまま、見下ろす顔にぼんやりと問いかける。


「誰かなァ。ヒントはね、ん〜、元素記号?」

 彼女はよくわからないセリフを口にしながら、力なく笑ってみせる。


 その悲しみを押し込めたような微笑みに、オレの思考が過去と繋がった。


「あ、燐……」

「イヒヒ、せいか〜い。あーしのこと、思い出した〜?」

「……ごめん」


 視界の先の彼女が、水底から覗いたように、ぐにゃりと歪んだ。

 慌てて、目を擦る。


 オレ、今、完全に忘れてた……


 どのくらい眠ってしまったのだろうか。

 園内の時計を見上げ、雷に打たれたような衝撃が走る。

 

 前に時間を確認してから、数分しか経っていなかった。

 寝落ちていたのは、更に短い間のはず。


 そのわずかな時間で、オレは全てを忘れたのだ……


 頭は、未だに睡眠不足でぐらついている。

 まだ寝たいと叫んでいる。

 眠気を呼ぶように、体の芯が発熱している。

 視界が霞み、まぶたが重い。


 全身の至るところがアラートをあげて、オレに伝えていた。

 今日は越えられない……と。


「もういいよ」


 燐の穏やかな声が耳朶に届いた。


「もう充分頑張ってくれたから。こんなに長く覚えててくれたこと、今までなかった。それだけで、嬉しいから」

「……それでいいわけないだろ」

「いいんだよ」


 オレの頭を優しく撫でる。


「……早く、動かねぇと。次はどこに行く。思いつく場所は……」

「あのね、お願いがあるんだけど」


 彼女は、わざわざ改まって――


「今日はお休みにして、ここで一緒にいてほしいなァ、って」


 儚い願いに、声が出なかった。

 それは、諦めを意味する言葉だった。


「そんなことしたら、オレはまた燐を忘れる……」

「純くんは知らないかもしれないけど」


 燐は、柔らかくほほえんで言う。


「アタシ、大好きなんだよ、純くんのこと。初めて会ってから、ずっと。だから、こうやって仲良くなれただけで、満足なんだ。これ以上はいらないの」


 それは、悪戯な彼女に似合わない、率直な告白で。

 大粒の涙が、雨のように降っていた。


 そんな目をされたら……

 オレは……ますます逃げるわけにはいかないだろ。


 オレは、燐の膝から体を起こすと、涙する彼女に向かって宣言するように告げた。


「嫌だ」


 燐は、鼻をグズグズと鳴らしながら、オレに尋ねる。


「……どうして? 今忘れても、アタシが死んじゃうわけじゃないんだよ。次の純くんも、絶対私を見つけてくれる」

「この先はわからないだろ」


 オレは顔を顰めて反論する。


「時が経てば、状況は変わる。来年になっただけで、受験勉強でオレの生活リズムは変わる。公園に来なくなったら、記憶は残らない。そんな細い糸で繋がってんだ、今のオレたちは」

「……」

「だから、今止めないとダメなんだよ。ここで終わらせないと……燐のほうがきっと壊れる……」


 だから、オレが諦める訳にはいかないんだ。

 たとえ彼女が諦めても、絶対に……


 オレは震える膝に手を置いて、立ち上がろうとする。

 が、酷使した足が地面を踏みしめると、丘のわずかな傾斜にもよろめいてしまった。


 考えてみれば、文化祭の準備期間中から駆けずり回っていたのだ。

 さすがの若い体も、もう使い物にならないらしい。

 

「クソ……なんなんだよ……」


 悪態が口をついていた。

 それは、理不尽さに対する怒りだった。


「なんなんだよ、この状況はよ……!」


 周りも気にせず、叫ぶ。


「純くん……」

「誰だよ、燐にこんなことしたやつは!」


 心の底から、原初の感情が沸き起こり、噴出していた。

 自分の苛立ちに、視界が白熱し、神経が焼き切れそうになる。


「神様なんだか仏様なんだか知らねぇけどよ。なんだよこの仕打ちは。燐がなにかしたのかよ!」

「純くん、もういいから……」

「ふざけんなよ! 出てこいよクソ野郎!この、クソッ! バカ野郎! バーカ!」


 脳から出力される語彙は、怒りに応じてどんどん貧弱になっていく。

 それでも、オレは天に向かって叫ばざるを得なかった。

 

 「バーカ! バーーーカ‼」

 

 燐は、俺の裾を握ったまま泣いていた。

 その姿に、オレはようやく口を閉ざす。


 本当は、叫ばずとも分かっていた。

 彼女に制されずとも、気づいていた。


 ……オレたちは、負けたのだ。

 これが、三十七回目の敗北の形なのだ。


「……ごめんな」

「いい……」


 燐が、首を振る。

 顔を隠した腕の下では、涙がとどまることなく落ちていた。

 

 その姿は、どこまでも痛ましく、救いがなく……

 オレは励ましたい一心で、彼女を抱きかかえようとした。

 

 ――そのときだった。

 

「バカはアンタよ、バーカ!」


 地面から、甲高い金切り声が聞こえたのは。



――――――――――――――――――


次回、いい人止まり、声の正体に気付きます。

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