第49話 先輩と後輩
おずおずと、広い背中に手を回した。
心臓が鳴る。この音が届いていなければいいと思うが、同じくらい速い音がすぐ傍から聞こえてきた。二人して笑う。
「私も守ります」
「ありがとう」
「はい」
「二人で、絶対に帰ろう」
長い抱擁を終え、お互い見つめ合う。
「最後に、もう一つだけ我儘を言っていいか」
「いいですよ」
ややあって、任深持が口を開いた。
「その、ああ……ええと。貴方の覚悟が出来るまでいつまでも待つつもりではあるのだが」
珍しく言い淀むので、返事もせずに続きを待っていたら、余計任深持の顔が強張った。
「言ってください」
「あー……口づけをしたいのだが」
咳払いをしてそっぽを向いてしまった夫を可愛らしく思い、彼の両手を握って答えた。
「私の覚悟が出来ていなかったら、いつまで待つつもりだったんです?」
「死が分かつまで。許されないなら、最期まで触れない覚悟は出来ていた」
「もう触れていますよ」
「それは許してくれたから……」
我慢出来ず、夏晴亮が笑い出した。任深持が慌てる。
「すまない。もう言わないから」
「おっしゃってくださって構いません。私は貴方の妻ですよ。それくらい、いつでも」
「……さすが夏晴亮」
髪の毛を撫でられる。じっと見つめていたら、目を閉じてほしいと懇願された。仕方なく目を瞑って待っていると、額に柔らかいものが一瞬触れた。
「ありがとう」
右手を額に当てて目を開ける。任深持が真っ赤な顔をさせて視線を逸らしていた。
「今の私にはこれが精いっぱいだ」
夏晴亮が首を振る。
「嬉しいです」
「帰ってきたら、次は口に挑戦する」
「はい」
元気に返事をしたら、ようやくこちらを向いてくれた。
任深持の部屋を出ると、馬星星と馬牙風が待っていた。
「あら、早かったのね。もういいの?」
「大丈夫です。お待たせしました」
「じゃあ、行きましょ」
馬宰相が部屋に入っていくのを眺めながら、自室へと歩き出した。
途中、馬星星がにこにこして何か言いたげだったが、結局何も言葉を発さずに部屋まで着いた。
着替えを用意され、外出着を脱ぐ。馬星星が小さく息を吐いた。
「こうやって亮亮のお世話をするのもあと一日か。ね、早く帰ってきてね。毎日毎日お祈りしているから」
「分かりました」
髪の毛を梳かれながら、これまでの日々を思い出す。馬星星が穏やかに切り出した。
「ね、今日はもう何も無いでしょ? 夕餉までは部屋にいて二人でお話ししない?」
「します」
「ふふ、即答嬉しい!」
寝台の上に布団を丸め、それを背もたれにして二人して座る。前に置かれている机には、今日購入したお菓子が並んでいる。夏晴亮が瞳を輝かせた。
「なんか、これだけで楽しいです」
「でしょ。外に出たら張り詰めることばかりだから、中ではこうやって遊ばないとね」
「全部食べていいですか?」
妹からのお願いに、姉は毅然とした態度で断った。
「駄目よ。明後日の荷物にも入れるでしょう」
「そうでした。少しだけにします」
「えらい」
二人で沢山の話をした。初日にさっそく迷子になったこと、同室になってからのことを。
「馬先輩の家族はどうですか? 今でも会ったりしますか?」
「私の?」
「聞きたいです。私、家族ってよく知らないから」
馬星星が目を細めて夏晴亮に寄りかかった。
「そうねぇ、じゃあ親と、兄妹のことでも」
馬星星は、物心ついた頃のことから順々に話してくれた。
「父は物静かで母は逆。それで一番一緒にいたのは兄」
「お兄さんは優しかったですか?」
「ううん、ちょっと意地悪。でも、遊びに行く時はいつも私を連れて回ってくれた。きっと、忙しい両親の代わりをしてくれたのね。五歳も離れていたし」
自分とは縁の無かった話を夏晴亮は夢中で聞いた。
「それは嬉しいですね」
「うん。でも、兄は倒れてしまったの。流行り病ってやつ、誰の所為でもない」
「……そうでしたか」
馬星星が辺りを見回して続ける。
「だから、風兄の伝手で宮女にしてもらったってわけ。本来は身分が低いから、風兄の親戚だからって特別な扱いはなかったけど、そっちの方が気楽でよかった」
夏晴亮がちらちら馬星星を窺う。ばしんと背中を叩かれた。
「心配しないで。兄は私が稼いだお金で、有名なお医者様に診てもらって良くなったわ。今は家の手伝いしながら働いてる」
「よかったです」
話を聞いてからずっと心臓が跳ねていたので、思わず胸を押さえて息を吐いた。
「宮女の仕事はこれからも続けますか?」
「もちろん。せっかく出世して亮亮ともまた一緒にいられるようになったんだもの。元気なうちはずっと続けるわ」
「私も、馬先輩と一緒にいられて嬉しいです」
馬星星が両腕を上げて伸びをする。
「ね、いつまでも。まずは帰ってきたら、またこうやってお話しましょ」
「はい」
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