第33話 続・毒見師

任春レン・チュン……」

『わおん!』


 皇帝の名前を読み上げていたら、扉の外から元気な鳴き声がした。


阿雨アーユー!」


 ここぞとばかりに夏晴亮が扉へ走る。


「亮亮、走っちゃだめよ」

「あ、そうでした。上品に上品に」


 人はふとした時に慣れた仕草が出る。だから、常に上品に過ごして、いつでも王族たる態度を保たなければならない。今までの生活とは真逆で予想以上に難しい。


 扉を開けると、雨がすり寄ってきた。


「お疲れ様。怪しい人はいなかった?」

『わん』

「ありがとう」


 ひとまず毒事件は解決したので、雨には見回りをお願いしている。しばらくは何もせず遊んでもらっていても構わないのだが、夏晴亮シァ・チンリァンが勉強まみれで一緒に遊べないので、暇つぶしも兼ねていたりする。


「いいこいいこ」

『くぅん』


 ひとしきり撫でると、満足した雨が自身の寝床に転がった。そこには雨が好きな玩具や布団などがあり、雨のお気に入りの場所となっている。


「阿雨、私と一緒に」

「お勉強が終わったらね」

「馬先輩~~~」

「あと半刻だから頑張ろ!」


 くすんくすん涙目になりながら、残りの時間を必死に耐えた。皇帝の名前など、現皇帝と先代を覚えておけば支障はなさそうなのに。消えたらしい国の歴史も一週間後には夏晴亮の頭から抜け落ちていそうだ。


「あはは。ほんと勉強苦手ね」

「慣れないもので……」

「私も得意じゃないけど」


 きっちり半刻後、夏晴亮が寝台にぱたりと倒れた。どうせならこのまま寝てしまいたいが、あいにく今度は夕餉の毒見の時間である。


 側室になってからも毒見師は辞めていない。そもそも、夏晴亮以外に協力な毒を食べて死なない人間がいないため、彼女にしか出来ないと言った方が正しい。今では食事の内容も一緒になったので、毒見が終わったら仲良く二人で食べている。ちなみに正妃も同じ部屋で食べている。


 この事実は三人と付き人以外では料理長のみが知っている。しかし、食事中は皆静かにしているため、まさか正妃が契約結婚で来たとまでは分かっていない。ついでなので、夏晴亮は正妃の毒見も請け負っている。


「は~……いつ見ても迷いなく食べて、素晴らしい光景ね」

「毒が入っていても美味しいだけなので」

「なんて優秀な妃なの! こんな素敵な側妃と同じ時を過ごすことが出来て幸せだわ」

「……王美文ワン・メイウェン。それは何だ?」


 任深持レン・シェンチーが盆の横に置かれた物を尋ねる。それは櫛やら髪飾りで、食事時には似つかわしくない物だ。


「え? これはその、可愛い阿亮アーリァンにもっと可愛くなってほしいなぁと思いまして。あとで髪を触らせてもらおうかと……」


 思いがけず問われて、最後は小声になっていた。さすがに、正妃でも任深持に強くは言えないらしい。


「ほう……夏晴亮に、な」


 ちらりと任深持が夏晴亮に視線を送る。当の本人が食事に夢中だ。


「なるほど。分かった、許す」

「有難う御座います!」

「しかし、机には載せるな」


「失礼しました。金依依ジン・イーイー、これを持っていてくれる? ごめんなさいね」

「承知しました」


 言われた金依依が櫛と髪飾りを手に持った。


 金依依は王美文が連れてきた付き人で、代々王家の使用人として雇われている家系だと言っていた。勤勉で不真面目な態度は一切無い、王家に信頼されてここに来たことが窺える人間だ。ただ、とても無口で、最低限の挨拶と返事以外で声を聞いたことがない。


 夏晴亮の周りにいる女性陣はおしゃべりが好きな者が多いため、とても新鮮に映った。いつか話してみたいとは思うものの、それが彼女の負担であれば無理強いも出来ず、結局出会って数日、未だ挨拶以外交流が無かった。


 嫌われてはいないと思う。というより、何の感情も抱かれていない気がする。


「終わったわ! 阿亮、髪の毛を整えてもよろしくて?」


 食器が下げられた部屋で王美文の声が響く。拒否する理由も無く夏晴亮が頷けば、王美文の顔がさらに明るくなった。


「任深持様、お待たせ致しました。お部屋に戻りましょう」

「ひぅんッッ」


 その時、馬牙風マァ・ヤーフォンが部屋に入ってきた。王美文は一気に挙動不審になる。それは任深持と馬宰相が退室するまで続いた。


「……んはぁッ」

「息を止めてたのですか? 具合など悪くなっていませんか?」

「ええ、大丈夫。彼が来て呼吸困難になっただけだから」


 金依依に背中を擦られつつ笑顔を見せる。しかし、馬宰相と同じ空間にいるだけでこんな風になるのなら、もし会話でもしたら倒れてしまうのではないか。


「んんッ……でも、何かおかしかったわ」

「何がですか?」

「馬牙風の何かが……おかしかったような」

「風兄の……?」


 馬星星と夏晴亮が顔を見合わせて首を傾げる。二人にとっては、いつもと全く変わらない彼であった。

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