第三章

第26話 正妃騒動

 その日、後宮内に激震が走った。


「亮亮、聞いた!? 第一皇子が正妃を決めたって!」


 部屋で文字の勉強をしていたら、息を切らして馬星星マァ・シンシンが帰ってきた。衝撃の言葉付きで。

 さすがに手を止め、目を丸くさせて先輩を見遣る。


「聞いてないです」


 毎日会っている。最低三回は。しかし、そんな報告は受けていない。


──わざわざ一介の宮女に報告はしないか。


 馬星星が顔を赤くさせたり青くさせたりしながら近づいてくる。


「顔色が悪いです」

「感情が爆発してるだけだからいいの。それより、正妃って貴方のことじゃないわよね?」


 その問いに、昨日、毒見中に任深持レン・シェンチーから話しかけられたことを思い出した。


夏晴亮シァ・チンリァン、ところで正妃にはならないのだな』

『はい。申し訳ありません』

『絶対に?』


『はい』

『分かった』


──報告はされなかったけど、正妃の話はしてたなぁ。そういえば。


「違います」

「本当に?」

「はい」


 ならないと答えたので、正妃にはならない。つまり、正妃を決めたということは別の女性に決まったということだ。


「そうなの」


 その場にゆっくりと沈み込んだ馬星星が長い息を吐く。


「もう、この話を聞いて私はどうしたらいいかと──でも、そうなのね」

「大丈夫ですか? 寝台で休んだ方が」

「ありがと。それにしても、第一皇子は何を考えているのかしら。皇帝から急かされた? さすがに王族の内部事情までは分からないし」


 寝台に腰を下ろした先輩に見つめられる。言わんとしていることはなんとなく分かる。


 人と交流するようになって、彼らは何を思いながら会話しているのか考えるようになった。彼女はいま、正妃のことで夏晴亮がどう思うのか悩んでいるのだろう。


「心配しないでください。私はなんとも思ってませんので」

「そうよね。思いっきり断ってたものね。あの様子じゃあっさり心変わりしたとは考えにくいから、きっと何か事情があるんだわ」


 馬星星が夏晴亮の手を取る。


「正妃が亮亮のことを知って嫌がらせしてきたら言ってね。私たち先輩が体を張って守るから」

「有難う御座います。嬉しいです、すごく」


 二人でにこやかに廊下へ出ると、すでにそこは戦場となっていた。


「馬星星、夏晴亮、こっちへ! 正妃がいらっしゃる準備をするわよ!」

「はい!」


 急に決まったことなので全く準備がなされておらず、これから正妃の部屋になる場所を整え、正妃を歓迎する準備をするとのことだった。


「全く、第一皇子ももっと早くおっしゃってくださればいいものを」


 女官がぼやく。本人の前では言えないが、ここにいる人間全員が思っているだろう。


 全員が大慌てで作業をする。半刻してどうにか形になり、正妃の到着を待つばかりとなった。


「正妃はどんな方なんでしょう」

「分からないわ。多分、上の人しか知らないと思う。今朝聞いたって言ってたけど、正妃だったらもっと前もって決まってるはずだし」


 馬星星マァ・シンシンも納得のいかない速さで事が進んでいるらしい。困ったことだ。しかし、宮女が文句を言える立場ではない。指示されたことをどうやって滞りなく終わらせるか。これに尽きる。


「いらしたわ。みんな拱手して」

「はい」


 宮女が通りの両側に並び、一斉に拱手する姿は実に圧巻だ。そこへ牛車が一台やってきて、中から女性が降りてきた。


王美文ワン・メイウェン様、ようこそいらっしゃいました」

「お忙しいのに、皆様有難う御座います」


 王美文が一言礼を言い、宮女の道を歩き出す。頭を下げているため、顔は見えないが立派な漢服を身に着けているのは分かる。第一皇子は身分相応な相手を連れてきたらしい。夏晴亮は安心した。


「あら」


 夏晴亮の近くまで来た王美文が声を漏らす。


「貴方が……ふふ、そうなの……」


 誰に言ったのか、すぐ真上から聞こえた声はなんだか肌寒い風を伴っていた。


 正妃が去り、ようやく緊張が解ける。これで終わりではない。旅の疲れを癒してもらうため、簡易な食事と湯あみの支度に取り掛からなければ。


「各自別れて準備を」

「承知しました」


 夏晴亮が持ち場に行こうとしたところへ、女官が呼び止めた。


「夏晴亮」

「はい」

「貴方は一刻後、任深持様のお部屋へ行きなさい」

「任深持様のお部屋へ? ああ、毒見ですね。承知しました」


 女官はやや暗い顔をさせて続けた。


「王美文様もいらっしゃいます。くれぐれも失礼のないように」

「はい」


 忠告された夏晴亮は掃除の仕事を手早く終え、身なりを精一杯整えた。事情を知った馬星星も協力してくれ、控えめながら化粧も施した。これで出来る限りのことはした。


「よし、失礼しないように失礼しないように」


 一緒にいるという彼女がどういう人物か分からないので、怒りを買わないようあまり話さないで毒見の時間を終わらせたい。


 指定された時刻になり、任深持の部屋の扉を叩く。


「夏晴亮です」

「入れ」


 ゆっくり開けると、いつもの光景に正妃が追加された。ここでようやく顔を見ることが出来た。煌びやかな髪飾り、華やかな顔立ち、正妃にふさわしいと思う。


「王美文よ。よろしくね」

「夏晴亮です。こちらこそ宜しくお願い致します」


 王美文が夏晴亮の手を取る。


「ずっと会ってみたかったの」


 そう言って正妃が怪しく笑った。

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