第三話 好奇心は──
✣*✣*✣
――ポォォォォオ! ポォォォォオ! プシュゥゥゥゥゥゥゥウ!
「さ、着いたようだ。行こうか」
「そうね」
「待って」
イソイソとドアへ向かう両親を呼び止める。それからドアを少しだけ開けると慌ただしい音が響いてきて、廊下向かいの窓から外を見てみると。
「見て、結構ここで降りる人多いみたい。少し待ったほうがいいわ。あんなに込んでたらはぐれちゃうもの」
「たしかに、落ち着いてから降りようか」
「よく気がつくわねキャシー。さすがよ」
「うん。ありがとう」
至って普通の親子のやりとり。
両親の瞳の奥の憐れみと、キャサリンの頭さえもう少しマシならばだけれど。
なにはともあれ、落ち着きを見せてから汽車を降りるイングリス一家。
かさばらないように最低限の荷物だけとはいえ、混雑の中を行けばコソドロに目をつけられる可能性だってある。駅から出てもお祭りが近いこともあって人通りは多く、はぐれる可能性も含めてキャサリンの判断に従って正解。
「じゃあまずは荷物を置いてこようか」
「そうね。あまり持ってきてはないけど、身軽にこしたことはないもの」
「パパ、ママ。はぐれちゃダメよ?」
「あぁ、わかってるよ」
「キャシーも離れないでね?」
微笑ましげなやり取りを挟みつつ。一家は娘を間に挟み手を繋ぎながらホテルへ向かう。
ホテルの場所は駅の近く。建物自体は新しく小綺麗だが、汽車の音は響くし、祭りが行われる大通りや大市方面とは徒歩二十分とやや離れており、目的を考えれば不便と言える。
けれど、その分費用はそこまでかからない。お金に困っているわけでもないが、抑えるところは抑える。節制は美徳なり。
「予約をしてるイングリスだが、間違いないだろうか?」
「え〜今確認しますね〜。あ〜はいはい。イングリスさんね。大人二人子供一人でよろしいですか?」
「えぇ」
「三人ですがツインベッドのお部屋ですね。今からすぐお部屋へ? それとも見てまわりますか?」
「見て回るつもりなんだ。だからここで荷物を預けても?」
「えぇ、構いませんよ。では鍵とお部屋への案内は戻ってからでよろしいですね? ではお荷物お預かりします」
「任せる。じゃ、行こうか」
「えぇ」
「うん」
ホテルは郵便で予約済み。手続きも滞りなく。
荷物も部屋まで運んでおいてくれるそうで、財布だけ持ってお祭りへ。
あぁ……近づいていく。
彼女たちが、近づいていく。
✣*✣*✣
町へくりだし、出店で
チャーリーが何か骨董品を手に取り、お店の人と話し始めてキャサリンは聞き耳を立てるけれど。
(何を言ってるかさっぱり。やっぱりちょっとでもお勉強しとけば良かったかしら)
旅行は前々から計画されたものだが、キャサリンが知ったのは出立の二日前。というのもサプライズのほうが良いだろうと両親が思っていたから。
旅行に行くと知った直後も勉強したほうが良いかと聞いたけれど、チャーリーは自分がわかるからする必要ないと言って聞いてくれず。また、言葉を知らないほうが外国に来てる実感が湧くからより刺激的になるだろうとの思惑。
確かに、言葉がわからないのは外国に来た感がある。が、キャサリンからすればそれ以上に不便としか感じないわけで。
さらに言えば。
(もしはぐれたり、ホテルで一人お留守番とかになったらどうするつもりかしら?)
外国で迷子になると子供の自衛は母国よりも遥かに難しい。腕力はもとより言葉巧みに誘拐犯を誑かすこともできないから。力ずくとなればキャサリンに為す術もない。
留守番ならまだ多少の安全は確保できるかもしれないが、父母を装った輩が現れるなりそもそもホテルの従業員とやり取りができないだけでもかなり危ない。特にキャサリンは表情が動かないという問題も抱えているのだから。
もしモラルがなく、迷信深い人間が従業員にいたならば。悪魔の子とでも言われてどんな目に合わされるか。
顔が動かずとも痛みは感じるし、嫌なことは嫌。辛いことは辛いと感じる。
キャサリンはただ頭が良くて、ユーモラスが人とズレていて、顔が動かないだけのただの少女なのだから。
今は……まだ。
(まぁいいわ。そうなったらそうなったで――)
「あ……」
――ざわざわ ドタドタドタッ
突然人々が一斉に動き出して人の波ができる。
油断していたキャサリンは父母両方の手を離していて。
「キャシー! キャサリン!」
「……っと、危ないな……。え……あ!? キャサリン! こっちに戻りなさい!」
(そんなこと言っても、流れに逆らったら危ないわ……)
「パパ。ママ。あとで探しにきて」
「ま、待って!」
その場に留まっても、ひとり逆走しても危険と判断したキャサリンは一旦流れに身を任せることにする。目の前の危険より後の危険のがまだマシと思ったからだが。
この判断が、彼女の人生最大の転機になるとは誰も思わなかった。
✣*✣*✣
――おおおおおお! ヒュー♪ ヒュー♪
歓声と口笛が向かうのはこの祭りの目玉の一つであるパレード。
人々の声で聞こえづらいが近くに寄れば楽器を鳴らす人。伝統的な衣装を着ての踊りで盛り上げてくれる美男美女がいることだろう。
といっても。
(全然見えない……)
小さなキャサリンには関係のない話。
前に行けば見れるかもしれないが、ひしめき合った中を通っていくのは気が引けるし、怖いのでやらない。
興味がないわけではないけれど、それ以上にリスクを嫌った結果後ろにある誰かの家か、はたまた店か知らないけれど。とにかく建物に背中を預けていた。
群衆から離れたら攫われやすいし、近づけば押されるやら踏まれるやらもみくちゃにされるやらになって怪我をしそうだから適切な距離を保つ。
が、そうなるとパレードも見れないし。スリをしている大人子供を眺めるしかやることがなくて。
(暇ね)
「よいしょ」
壁から背を離し、ゆっくり歩き始める。群衆から離れないようにして、沿っていくように。
なにもしないよりか歩いたほうが少しは退屈も紛れるし、元いた場所の方向はわかっているから少しでも近づいておこうと思ったから。
(はぁ……変わり映えしない……)
十分ほど歩いても人と建物に挟まれた細い道。スリをする人間とされる人間が変わるくらいしか変化もなく。やがて目は逆側……人のいない方へ向く。
(薄暗くて汚いわ)
少し遠くを見るとゴミがちらほら。日も当たらないから余計に薄汚く見える。
(あれは……)
さらに歩いて、建物と建物の間の小道を見つけると。そこには浮浪者がゴミの横で眠っている。
みすぼらしい。汚い。気持ち悪い。哀れ。普通浮かべるのはそういった感想だろうか。けれどキャサリンが思ったのは。
(こんなにうるさいのに、寝づらくないかしら?)
そんなことだった。
(……まぁ、じっとしてるし。きっとあの人にとっては寝心地が良いのね)
勝手に結論づけてさらに歩いて行く。
「ん?」
いくつ目かの薄暗い小道に目をやると、視界になにか入ってきた。
(なんだろ……今の)
元々薄暗い小道なのに、一際黒いと感じさせる蠢くナニか。
(黒猫?)
とも思ったけれど。猫にしてはもっとこう……柔らかい印象を得た。液体のように形がない。そんな印象を。
(少しなら……いいかしら)
直感と好奇心が混ざったような不思議な感覚に導かれて、キャサリンは小道に足を向ける。
最初は後ろを見て群衆との距離を測りながらではあったが、やがてその目は黒いナニかしか入らなくなっていた。
✣*✣*✣
「――――」
絶句。
黒いナニかに追いついたキャサリンに訪れたのはまずそれ。
目から入る情報が処理できずに思考も体も硬直してしまう。
けれど、それも無理はない。
何故ならキャサリンの目に入ったのは。
――グジュ……コポッ……コポポッ……ベチャア……
形を留めてない液体のような生き物だったのだから。
何故、生き物と表したのか。それは単純に。
――かひゅぅ……かひゅぅ……こぷ……っ
呼吸しているかのような音を出しながら胴体らしき部分を上下させていたから。
(これ……生き物……よね?)
目の前の得体のしれない生物の呼吸を見ていると、不思議とキャサリンも落ち着いて来て、思考が少しずつ戻ってくる。
(こんな生き物がいるなんて……外国って怖いわ)
少々的外れなことも考えつつ。観察を続けていく。
もちろん下手に動かないし、顔も変わらない。
(とっても不思議。体はほとんど液体なのに中心のところは膨らんでて、そこだけは固体みたい。本体があそこなのかしら?)
直立不動でも頭の中は回り続ける。
群衆よりも、医学書よりも、余程興味深い。時間を忘れるほどにただ観ることに没頭してしまう。
(……あれ?)
そして時間を忘れて早一時間。キャサリンは気づいたことがある。
(さっきまでは逃げてたはずよね。でもここまで近づいてるのにもう逃げてないわ。どうしてかしら?)
というか、先程よりも小さくなっていて。本体を中心に黒いドロドロした液体がどんどん広がっていっている。
(弱ってるのかしら?)
もしかしたら、追い始める前から弱っていて。弱りすぎて
(でも、気になるわ。とっても気になるわ。怖いけれど。どうしても気になるわ)
だけれど、好奇心には逆らえない。キャサリンは不思議な興奮を覚えながら近づこうと試みる。
――ザ……ッ
――ビクッ
「……!?」
一歩近づくと規則正しかった生き物の呼吸が乱れた。
キャサリンも一瞬呼吸が止まるも、顔は動かない。
「大……丈夫……よ……」
「…………」
その一見落ち着いた様子に感化されたのか、生き物も徐々に落ち着いていき、呼吸が戻る。
「……………………………………っ」
そして再びキャサリンは歩を進める。
――ザ……ザ……ザ……
一歩。二歩。三歩。先の一歩含めて計四歩。
あと一歩進めば流れ出たドロドロに踏み入れるというところまで来て歩みが止まる。
(これ……体液かしら……? それとも一部なのかしら? 踏んでも……良い…………もの?)
小首傾げながら悩むキャサリン。悩んだところで良し悪しなどわかるはずもなく、とりあえず様子を見ようと黒い生き物を注視してみると。
(……ちょっと近づくだけでも印象って変わるのね)
遠目でも得体が知れず、恐ろしいと感じる程だったけれど。近づくとあらためて目に入る情報に面を喰らう。
今まで見てきた生物の中で最も近いのは微生物。けれど中型犬かそれ以上に大きい体躯。いや、体躯と言っても良いかわからない造形をしていて。溶け出したドロドロの黒い液体もよく見れば今以上に広がることはせず、本体の方へ向かって体の形を留めようとしている風にも見える。
気色が悪い。普通の人間ならそう思うだろう。
けれどキャサリンは違う。いや、もちろん気持ち悪いという感情はあるのだけれど。それだけじゃないという意味。
(やっぱり踏んじゃダメそう。溶けてても必死で戻ろうとしてるもの。いいえ、もしかしたら溶けているのが正常なのかもしれない。こんな生き物がいるなんて。旅行に来て良かったと心の底から思うわ。本当に……スゴい)
初めて見た類の生物への驚愕、好奇心は元より。自ら歩み寄ったとはいえ。現在はおとなしいとはいえ。あと五、六歩近づけば接触できるという距離にいて襲われない保証はどこにもないのにこのままで平気なのかとかいう恐怖もあり。こんな状態で生命活動ができることへの畏怖と尊敬も覚え。瀕死なのが当たっているのだとすればこんなに珍しく尊い生物がこんな目に合うだなんて哀れだとかもったいないだとか。
そういった
そんな彼女に今、
(どうしよう。興味が尽きないわ。離れたくない……っ)
「あ」
――じわぁ……ツツー……ポタポタ……
これは興奮によるものなのか。ただの成長の証なのか。はたまた神のイタズラなのか。
こんなときに。こんなときに訪れてしまった少女から女性に変わる兆候のひとつがキャサリンに降り掛かってしまう。
下着に染みていき、太ももへたどり着くと伝っていく赤い筋。それと、下着が耐えきれなくなって落ちる赤い雫。
キャサリンに訪れてしまったモノ。それは、初潮。
初潮故出血量は少なく、赤黒くもない。比較的新鮮そうな
けれど、血は血。そこだけが今重要なこと。
(ど、どうしよ……漏れ――)
――ビュン! ベチャ! ビチャチャ!
「きゃっ!?」
下着が濡れて勘違いして驚き一歩下がると、黒い生物がキャサリンの溢れた経血目がけて勢いよく飛んできた。
あまりの勢いに小さく悲鳴を上げながら尻もちをついてしまう。
――じゅる……うじゅる……じゅるる……
「…………」
無言で黒い生物を眺める。
目の前でさっきまでいた場所の地面にゴリゴリと体を押し付けるように必死で
その様はまるでおぞましい化物の捕食そのもので。
けれど新しい反応はキャサリンの好奇心を揺さぶるばかりで、思考は逃亡よりも観察に回ってしまっている。
(これ……赤い……。じゃあ、血……? どうしましょう。病気かしら? いえ、初潮? でもそれだと少し早いような…………ううん。今はそんなことどうでもいいわ。それよりも)
溢れた感覚があって、自分の足元を見れば赤い液体が新しく増えていれば予想も多少つけれよう。
そして、あんなに必死になってソコに飛びついたということは。
「飲んで……るの? 血が……餌?」
行き着いてしまった答えはすぐに彼女を……。
――じゅる……うじゅる……
(勢いが……止まった。食べ終わったのかしら?)
――…………
「……?」
(どうして……こっちの方に頭が向いているように感じるのかしら……頭なんてどこにも――)
――ニチャァア……
「……!?」
(う、嘘……あんなに柔らかそうな泥みたいだったじゃない。なんで……)
キャサリンの目に入ったのは今までアメーバだとか、そういった生物の類かと思っていたモノが見せる歯。
それもいくつもあって、大きさは不揃い。
キャサリンの手のひらサイズもあれば、小指の爪先ほどしかないのもある。
その不揃いさが余計に不気味さを煽っていて。
(……どうして歯を見せるの? 今食べ終わったはずよ…………もしかして、満足してないの?)
目はない。けれど歯の、口の位置を目線と仮定したならば。
「い、いや……」
――じゅる……うじゅる……ピッ……ピチ……ピチチ……
力のない液体は張りのある大きな蜘蛛の糸のように何本も黒い生物の体から伸びて地面に貼り付き、まるで飛びかかかる下準備をしているよう。
「こ、来ないで……っ」
――じゅる……うじゅる……ミチチチチチチッ!
興奮も、好奇心も、恐怖すら顔に浮かばない。
しかし感じないわけではないんだ。
むしろ彼女の場合は頭が良いからこそこの後のことを何種類も、鮮明に想像してしまって。
――ビュビュン! ピッシィ!
「ひゃっ!?」
今度は地面にではなくキャサリンの足首へ絡みつく黒い蕩けた糸。
ネチョッとしているのに力強く絡みついてきて、まるで大きな蛇に捕まったよう。
「ま、待って……」
まだ捕まっただけ。それでも頭の想像はさらに膨らみ、自らで自らの恐怖を煽ってしまって。
「おね、おねがい……だから……」
無表情ながら震える声で願うも、捕食者が非捕食者の願いなど聞き入れるはずもなく。
――パチン! じゅりゅりゅりゅりゅりゅりゅりゅりゅりゅりゅりゅりゅっ!
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁああああぁぁぁぁぁぁぁああああぁぁぁぁぁぁぁあああああッ!!!」
黒い生物は地から糸を離し、勢いよくキャサリンのスカートの中へ入り、細い足のその先にある小さな入口から血の出処へ無遠慮に侵し進む。
どうやら猫は、キャサリンだったようだ。
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