第66話 ウェーブのある中で

「何の為にJSSに入ったと思う」

「わからない」

「食べていくためよ。そこに入れば生きていくことが出来る。それしか選択肢はなければ必然とそうするもの。わからないでしょ、公安に入った貴方には」

 柴崎が返す言葉はなかった。想像する世界と李凪が話した現実は大きく乖離していた。その世界にいない自分といる李凪には、世界を分けるようにフェンスがあった。飛び越えて入れる高さではない。

「本当の苗字は忘れた。ほんの数年使った苗字だから」

「忘れるもんなの」

「忘れるもん」

「それでもナギはいいと思う」

「そう」

 御世辞のような言葉は聞き飽きていた。適当にあしらうように李凪は返した。

「ねえ」

「何」

「こっち向いて」

 立っていた柴崎は座っている李凪に近づいて目線を李凪に合わせた。すると、李凪は柴崎に顔を近づける。

「目を閉じて」

 そう言って、柴崎の目を閉じさせた。

 目を閉じたことを確認すると李凪は自分の唇を柴崎の唇に押しつけた。舌を使って唇をなぞるように舐めて、柴崎の閉じていた歯を開かせた。舌は徐々に激しく動いていく。

 ムードも何もない展開でいきなり求められる李凪に動揺しつつも、柴崎はその瞬間を今までのように応じていた。李凪の世界というものはその瞬間が全てであった。溶ける氷のような世界観で、刹那の時間がすべてであった。




 李凪の目を覚ましたのは、次の日の早朝であった。裸の心は何かをまた騙せる。皮膚に触る繊維は心地悪かった。記憶はまだ残っていた。

 お互いに身体の中心を強く押し付けあった夜のことを思い出す。何となくその感覚は、まだ微かに残っていた。

 李凪はかけ布団を畳んで、寝ていたソファの座面にかけた。

 起きた場所は自宅のリビングであった。酒を飲んで酔っていても、自力で家まで帰って、玄関で靴を揃えるが出来る。そんな人間であると自負していた。

 テレビを点けると朝の情報番組が放送されている。画面の左上に6:55と表示されている。総合司会が日替わりのパーソナリティとトークしている姿を横目で見つつ、李凪はコップの水を二杯口にした。

 いつもより早く家を出て、上野支部へ向かった。オペレーター陣は昨日もフル稼働で情報収集を行っている。

 麗那がいない分、下にいるカルテード以下の若手で回ささなければならない台所事情は、一課にとって最大の痛手であった。

 ユナイトが近海に配備した空母は全て撃沈した。それと同じくして、米国や英国も領土近海で行われていた海戦は優勢のまま膠着状態となっていた。米英との戦いはこのまま敗戦という形で停戦が行われる可能性があった。

 現状の戦争を二つ落としたユナイトは立場的にも不利になっていた。ユーロ圏においてもかつてはユナイト側にいた国々が徐々に離れていく。ユニオンの勢力圏と全盛期の半分となっている。

その中で忘れられていたものが、再び静かに動き始めようとしていた。ユナイトは自らの掲げる自由と正義の元、行動を起こしていた。

 一課のオペレータールームでは、最前列に町屋、早田、三次のデスクを並べていた。それを指揮する為、中列に中堅となった梅野、小林のデスクが置かれている。現在は小林がオペレータールームに在席である。ドア付近の後列に麗那、悠のデスクが置かれているが現在はどちらも不在であった。

「ナギさん」

 オペレータールームに入ってきた李凪に気づいて小林が声をかけた。

「悠さんはいないか」

「すぐ戻ってくると思います」

「そう」

 李凪は麗那のデスクに目が入った。座面を回して足を組んで座り込む。しばらくしたら戻ってくるという言葉通りに李凪はその場で待っていた。悠が戻ってきたのは約一時間後であった。

 ドアが急にスッと開き、外の生暖かい空気が中に入ってくる。李凪はそれに気づいて座面を回して振り向いた。悠は李凪を見て、やっと戻ったかと言うような顔つきでほころんだ。

「ちょうどのタイミングで戻ったな」

「ええ」

「仙台はどうじゃったんじゃ」

「まあまあですね」

「ほうか」

「次はどこですか」

「まだない」

 そういって悠は李凪に一枚の写真を渡した。

「これは」

 悠は何も答えなかった。李凪はじっと悠の顔を見てから、何も言わずにオペレータールームを飛び出していった。

 何となくこの攻撃には続きがあることは理解していた。李凪は地下の駐車場に向かうため階段を降りていく。車はいつもの駐車スペースに停められていた。李凪はドアを開けてエンジンをかける前に一度手を止めた。そしてもう一度写真を見た。

 写っているのは完成されたタイラントキャンセラーであった。背景からそれは海上にあることがわかる。敵はもう攻撃の手前まで入っている。

「どうするつもりなん」

 悠の声はスピーカーから聞こえた。駐車場のカメラから位置を特定し、車と通信を繫げて李凪に話しかけていた。

「どうするにも」

「勘で動いたんか」

「どっちみち戦うしかないですよね」

「じゃが、まだ動かんほうがええ。場所が特定できとらん」

 李凪は車を降りて、エレベーターホールへ戻っていった。うなだれた姿は何もできずに終わる瞬間を悔やんでいるというものではなかった。

「まるで失策だ」

 李凪は午後二時頃にテレビを見て口にしていた。そこに映るのは全世界で同時に行われたユニオンからの攻撃であった。

 事前に通告したルールを無視した制裁とでも言いたいのであろう。それは海上から現れた潜水艦から行われた光学兵器による都市破壊攻撃であった。

 どの国もあくまで軍事基地がおかれている場所を狙って攻撃を行っているとしているが、テレビに映る映像は都市が一瞬で消し飛ぶような攻撃であった。

「タイラントキャンセラーか」

 サイコチップは存在しない。データだけあればユナイトの方でも容易に作ることが出来る。わかっていることであったが、公安のサイコチップ奪取は失敗に終わっている。JSSでも解析が終了しているが、あれはただの頭脳に等しかった。

 サイコチップはユニオンに関係する組織が鉄拳会を通じて日本の中小企業に作らせたものである。それを国外流出阻止の為に公安は奪ったが、もう既にそれに代わるものが量産されている。ただ違いがあるとすればウェーブジャマーを妨害出来る装置が付いているか同課であった。

 本当に欲しいものはウェーブジャマーの妨害であると推測されていた。これがあれば大半の戦況は厳しいものになる。情報化された社会から百年以上経ち、ネットワークによって動く世界が当たり前となった現在では、遮断するだけで簡単なことも複雑になってしまう点があった。

 李凪の携帯に通知が入った。小林からであった。内容はオペレータールームに戻ってくるようにという内容であった。今見ていたテレビから理由は分かった。組織としてやっと動きだすということである。

「戻りました」

 李凪は何事も無かったかのようにオペレータールームに入った。

「おけーり。とりま、これ」

 悠が小林の方に手でどうぞと指示を出した。それを見て小林は、キーボードのキーを押した。前方のモニターから映し出されたのはタイラントキャンセラーによる攻撃であった。

 ドローンから撮影された映像であった。潜水艦が浮上して、光学兵器の放射砲の先を都市に向けている。

「ここを見」

 悠が指差した先は奥で小さい点にしか見えない。そこを小林が拡大していくと一隻の船舶が映っている。

「シロッコ」

「せや」

 船舶の中でシロッコは他の者と、グラス片手に双眼鏡でタイラントキャンセラーの見物をしていた。

「ナギの言う通りやったな」

 シロッコと再開し、李凪の中にある戦闘の意識はシロッコという的に向いていた。悠の静止は李凪を冷静にさせたが、不可逆的に動き始めていた。

 火山が噴火の兆候を見せ、周辺の大地が変化していくように世界は動き始めていた。

「それで政府は」

「政府にはユニオンの連名で宣戦布告。本当の戦いや」

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