第22話『家族ごっこ』

 太陽は沈みかけており、教員寮の窓から見える校舎が夜の色に染められつつある。

 リョウは、リビングの食卓に着いて煙草を吸っていた。

 紫煙を肺に溜めながらメリルが外出した理由について考える。あんな風に素直に頼られたのは初めてだ。よほど追い詰められていたのだろう。

 リョウが帰ってきた時、明らかにメリルの様子はおかしかった。相当の事態が起きたのは間違いない。外出許可を与えたが、彼女はどこへ向かったのか。


「帝国で何かあったか? ならもう帰ってこねぇか」


 紅を取り逃がすなんて大失態にも程がある。だが今は彼女に死んでほしいとは思っていない。メリルがこのまま帝国に帰るのなら、ありがたい話だ。殺し合わずに済む。そんなことを考えている自分がおかしくて煙草をくわえたまま自嘲した。


「変わったねぇ、俺も。あいつは俺の生徒を殺したやつなのによ……」


 生徒を殺された怒りや憎しみがなくなったわけじゃない。メリルを許せないし、許したいとも思わない。だが命は奪いたくなかった。

 それにメリルを殺したらニーナが悲しんでしまう。ニーナとの付き合いは、メリルのほうが長い。暗殺のために近づいたのだろうが、ニーナはメリルにとてもよく懐いている。

 メリルもニーナに情を抱いているのは明らかだ。しかし軍人は、任務のために自我を殺す。そういう訓練を受けるものだ。

 特にメリルは、他人に辛い思いをさせるなら自分が辛い思いをすることを選択する性格である。生半可な覚悟でニーナ暗殺任務に従事しているわけではない。

 そんなメリルをもってしても心を揺らしている。契約魔術によって強制的に家族となり、一緒に時間を過ごしたことでニーナに対する愛情が芽生えたのだ。


 以前のリョウは、ニーナの行いが家族を欲する子供心によるものだと考えていた。けれど今は違う。孤児院での振る舞いを考えると、意図的にこの状況を作った可能性がある。

 これまでニーナを魔力が多い以外は、普通の子供だと思い込んでいた。子供は純真なもの、そんなある種の信仰を抱いていたのだ。

 こんな世界滅べばいいというニーナの口癖も子供らしい悪態のように軽くとらえていたが、もしかしたら全部本心かもしれない。本当に世界を滅ぼそうとしている可能性を否定出来ない。世界を滅ぼせるだけの力があるのだから。

 心の中でニーナに対する不安感が膨らんでいた。


 仮にニーナが暴走した時、リョウ一人で止められるのか?

 現在のニーナ相手なら問題はない。苦もなく制圧出来る。しかしニーナの成長速度は尋常ではない。恐らく数年の内に、リョウでは足元にも及ばないほどの大魔術師になる。

 そして成長したニーナをルギタニア政府が放っておくわけがない。あらゆる手段を使って軍に引き入れるだろう。

 ニーナに正しい力の使い方を学ばせる。ニーナを戦争に利用させない。今度こそ教師としての道は誤らないと覚悟してきた。だが、メリルの言っていたことが正しいのかもしれない。これ以上ニーナを魔術師として成長させるのは危険すぎる。


 もしかしたらニーナを育てると決めたこと自体が誤りだったのかもしれない。

 自分の過去の失敗を帳消しにしたくて、その道具としてニーナを利用していたのではないか。戦場で死なせてしまった生徒たちへの罪悪感を拭うために――。

 自分の判断も自分の心も、リョウは信じられなくなっていた。

 ユウジンならニーナを正しく導くことが出来た。彼なら未熟なリョウのように間違うことも迷うこともなかったろう。己の不甲斐なさに涙が出そうになって目頭を押さえた。


「師匠……俺はどうしたらいいですか?」

「うう……ぐすっ」


 突然天井から泣き声が降ってくる。

 自分のものではない泣き声に、リョウは思わず頭上を仰いだ。


「ニーナ?」


 ニーナが泣いているなんて一度もなかった。一体何があったのか。

 不審に思いながら階段を上がり、ニーナの部屋の扉の前に立ってノックした。


「ニーナ? どうした? 入るぞ」


 扉を開けると、ニーナがスパイダコと蜘蛛のぬいぐるみを抱えてベッドに横たわっている。すんすんと鼻をすすりながら泣きじゃくる姿は、いかにも七歳の女の子らしかった。


「ニーナどうした?」


 リョウは、ベッドの縁に腰かけてニーナの頭を撫でる。

 するとニーナは、尖らせた口をしょぼしょぼと動かした。


「メリルがぶった……」


 ニーナの言葉に、リョウは我が耳を疑った。思わず目を見開いて硬直してしまう。


「……ぶった……だと……」

「わたしがクッキー食べようとしたらぶたれた……」

「……メリルに……ぶたれたんだな?」

「ん」


 契約魔術の影響下にある限り、メリルがニーナに危害を加えることは出来ないはず。

 もし危害を加えられたのなら、契約魔術の効果が切れかけている証拠だ。

 リョウは、意識を集中させて自身の体内に刻まれた契約魔術の構築を確認する。


「こ……これは……」


 契約魔術の構築式が崩れかけていた。未だ影響はあるからニーナやメリルに殺意を持った攻撃をすれば戒めが発動するかもしれない。

 だがそれもあと一日弱のこと。間もなくニーナの施した契約魔術は解除される。

 リョウが帰宅した時、メリルが思いつめた顔をしていた。彼女はなんらかの理由で反射的にニーナを叩いたのだろう。そしてニーナを叩いたことで契約魔術の効果切れを悟った。

 メリルからすればニーナを殺さないで済む唯一の理由が消滅した。つまりメリルはニーナを殺さなくてはならない。それがメリルの思いつめた表情の理由だ。

 メリルの外出は、間違いなく契約魔術が解除されかけていることと関係している。


 契約魔術は、メリルが紅であると暴露することをリョウに禁じていた。魔術師としての戦闘能力はメリルのほうが格上だが、ここがルギタニアである以上、優位な立場にいるのはリョウだ。リョウと同格の魔術師を数名用意すればメリルを仕留めるのは容易である。

 彼女は、正体を明かされる前にルギタニア国内からの逃亡を図っているのかもしれない。


 契約魔術が完全に解除されなければメリルは、ニーナと長期間離れることも国外脱出も出来ないはず。となれば今メリルは、契約魔術が完全に解けた際に国外脱出するための準備をしていると考えるのが自然だ。

 準備を終えたら、ここに帰ってくる可能性が高い。現在の契約魔術の状態ならメリルの拘束をバージス学院長に依頼するぐらいなら大丈夫かもしれない。

 だがその後が問題だ。メリルは確実に尋問という名の拷問にかけられる。

 結果、メリルの正体が紅であると明らかになればルギタニア政府は容赦しない。間違いなくメリルは処刑される。


 ワイズ帝国もメリルに助け舟は出さない。帝国の命令でニーナの暗殺をしたとなれば二国間の緊張は高まる。仮初の平和を守るためメリルの独断での犯行とするはずだ。

 帝国はニーナ暗殺への関与を認めない。ルギタニアも戦争を再開したくない。両国は、帝国の英雄である紅の処刑で手を打つだろう。


 紅の処刑。少し前だったら喜べたのに、今はそう思えない。

 リョウにとっては生徒を殺した憎い敵だ。けれど家族として一緒の時間を過ごす中で知ってしまった。憎い敵も人間であったことを。誰よりも心優しい少女であることを。

 ニーナにとってもメリルは母であり、姉のような存在である。

 大好きな人にぶたれたから、ニーナはこうして泣いているのだ。


「ニーナ。メリルはお前をぶったのか?」

「ん」

「じゃあメリルが嫌いか?」

「……メリルにきらいって言った……」


 ニーナの声は尻すぼみに小さくなっていった。メリルに嫌いと言ったことを激しく後悔しているのが伝わってくる。ニーナの頭を撫でると、一階から玄関扉の開く音が響いた。


「ただいま」


 メリルの声が一階から聞こえた途端、ニーナは二つのぬいぐるみを抱きしめたままベッドから飛び起きた。とたとたと小さな足音を鳴らして部屋を飛び出し、階段を駆け下りる。

 リョウがニーナの後を追って一階のリビングに降りた。

 メリルは、ケーキ屋のロゴが入った紙箱を持っており、しゃがんでニーナと視線を合わせていた。


「ニーナ、さっきはごめんなさい。これ買ってきたからあとで三人で食べましょう?」


 メリルは、ニーナに微笑みかけた。

 ニーナは、スパイダコと蜘蛛のぬいぐるみの足を揉みながらモジモジとしている。


「……メリル」

「なぁに?」

「……きらいって言ってごめんなさい」

「ううん。あたしがぶったんだから悪いのはあたし。でもこれで仲直り出来るかしら?」

「……ん」


 こくりとニーナが頷くと、メリルはニーナを抱きしめた。その姿は我が子を愛する母親そのものである。ニーナの背中を撫でながらメリルは、リョウを見つめてきた。


「ただいま……リョウ」


 緑色。磨き上げられた翠玉のような瞳には、戸惑いも迷いもない。固い覚悟を秘めていることを悟らせる輝きだ。

 その覚悟の裏に、悲壮な情が渦巻いているのをリョウは見逃さなかった。


「……おかえりメリル」


 この家族ごっこはもう終わりなのだと、リョウは直感した。

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