第20話『メリルきらい』
教員寮のリビングに夕日が差し込み、紅に染まっている。
メリルは食卓に座り、白い熊のぬいぐるみを抱きしめていた。ニーナが貯めていたお小遣いで買ってくれたぬいぐるみである。
授業中に起きた誤射事故の後、メリルはニーナを医務室に連れて行き、治療を受けさせた。幸い大した怪我はなかったが、念のためニーナを連れて教員寮に戻ることにした。
今ニーナは、自分の部屋で眠っている。メリルが大事を取って休むよう言ったのだ。
「まるで母親みたいなことをしてるわね……」
自嘲しながらメリルは、食卓の上に置いた紙袋を見つめる。中身は、ドリームイリュージョンパークでシャーロットから渡された〝何も入っていないクッキー〟だ。
「あたしは……あの子をどうしたいの?」
ニーナの心臓が止まっていると気付いた時、全身を無数の氷柱で貫かれたようだった。
心臓が動いていなくてもニーナが生きていると知った時、恐怖よりも安堵が先に来た。ニーナが無事であったことを喜んでしまっている自分がいた。
ほんの少し前なら授業中の事故で心臓が止まっていたことも喜んでいただろう。
あの事故によって契約魔術でも契約対象者以外による攻撃は通ること。事故から守れなかったとしても戒めの対象にはならないことが判明した。
もしかしたらこのクッキーも通用するかもしれない。仮にこれを用いなくてもやりようはいくらでもある。ニーナを暗殺するための抜け道が出来たのに、喜びは全くない。
メリルは、ニーナに愛情を抱いている。そう認めるしかない。時間をかけすぎた。もっと早く実行していればニーナに愛情を抱かず、世界の安寧を脅かす怪物と割り切れたろう。
だが、もう無理だ。今更ニーナを怪物だとは思えない。心臓を動かさずに生きていける規格外の魔力を持った生命体は、もはや人間ではなく旧神であろう。
しかしそれすらメリルには、関係なくなりつつある。
人間であるか旧神であるかは重要ではない。メリルはニーナのことが好きなのだ。
口では物騒なことを言いながらも子供らしさを隠しきれないところ。
食べるのが大好きで、なんでも美味しそうに食べるところ。
貯めていたお小遣いで、メリルにぬいぐるみを買ってくれる優しいところ。
可愛らしいところがたくさんある。あんな子を殺したくはない。だけど世界を守るためには、あの驚異的な力を放置するのは危険だ。
今ならメリルのほうが圧倒的に強い。確実にニーナを暗殺することが可能だ。
契約魔術さえなければ簡単にニーナの命を奪える。裏を返せば契約魔術がある限りメリルにはニーナを殺す方法がない。
だから暗殺は出来ないし、契約魔術の影響がある限り、家族ごっこを続けていられる。
せめてその時が来るまでは、ニーナに優しくしよう。
メリルは、抱きしめている白い熊のぬいぐるみの頭を撫でた。
リョウが頭を撫でるとニーナは嬉しそうにする。ぬいぐるみはちょうどいい練習相手だ。
ぬいぐるみのふかふかした手触りを楽しんでいると、ニーナが階段を下りてきた。上下黒のパジャマ姿だ。寝やすいようにとメリルが着替えさせた。
「メリル」
甘えた声を出しながらニーナが駆け寄ってきた。見たところ体調は良さそうだ。
「ニーナ。調子はどう? 痛いところはないかしら?」
「平気。メリルぬいぐるみ気に入った?」
「……ええ、そうね。ありがとう」
「ん。ねぇメリル。お腹空いた」
「そう。何かあるかしら」
メリルは抱きしめていたぬいぐるみを食卓の上に置いて立ち上がる。
冷蔵庫の方を向いた途端、がさり、と紙袋を開ける音が背後から聞こえた。
「これ美味しそう」
咄嗟に振り返ると、ニーナがチョコチップクッキーを右手に持っていた。
大きく口を開けてクッキーにかじりつこうとしている。
戒めは発動しない。激痛に苛まれない。このままだとニーナはクッキーを口にする――。
「だめっ!」
メリルは、ニーナの手を叩き、クッキーを落とした。床に落ちたクッキーが砕け、魔術構築の気配が広がる。やはりシャーロットが何か仕込んでいた。構築の気配だけではどういう魔術か判断は出来なかったが、恐らく毒系統の魔術の可能性が高い。
しかしシャーロットは、空間魔術に関しては達人級だが、通常の魔術は不得手としている。もしも毒系統の魔術だとしたらどうやって仕込んだのだろうか。
だがシャーロットの予測が正しかったことが完全に証明された。契約魔術の影響下にない人間であればニーナを殺せる。
メリルが手を下すまでもない。空間魔術さえ構築したらあとはシャーロットに任せれば全て終わる。シャーロットが空間魔術の構築を施してくれた右手でライトスタンドに触れれば確実にニーナを暗殺可能だ。空間魔術内であればリョウに邪魔されることもない。
ニーナを殺せてしまう。暗殺が出来てしまう。任務を果たせてしまう。
突然やってきた現実を噛み締めるように右手を見つめていると、鼻をすする音がした。
「メリル……なんでぶつの……」
ニーナを見やると、赤い瞳に涙を一杯にためて唇をぎゅっと噛んでいた。
メリルが叩いた右手の甲が赤く腫れている。慌てていたせいで強く叩いてしまった。
「ご、ごめんなさい!」
ニーナに駆け寄り、右手を擦ろうとする。だがニーナは右手を背中に隠してしまった。
手が腫れるほど強くぶたれたら怒るのも無理はない。
どうにか機嫌を取ろうと、思考を高速で回転させて言い訳をひねり出す。
「あ、あのねニーナ、このクッキー腐ってるのよ! だから食べたらお腹壊すのっ。それで……本当にごめんなさい。別のおやつ作ってあげる。何がいい?」
唇を噛んだままニーナはそっぽを向いている。
「ねぇニーナ?」
いつもリョウがしているよう頭を撫でようと思って右手を伸ばした。
さっき練習したからきっとうまく出来る。撫でれば機嫌を直してくれるかもしれない。
だがニーナは、メリルの伸ばした手を拒絶するかのように叩いた。
「メリルきらい」
氷のように冷たい声で言い放つと、ニーナは二階へと続く階段を駆け上がった。
「……嫌いか……」
初めてニーナに嫌いと言われた。心の奥がキュッと締め付けられる。こんなに胸が苦しい経験はしたことがない。人を初めて殺した時と同じぐらい嫌な気持ちだ。
「なんであたし…‥傷ついてんのよ……」
ニーナを暗殺しようとしていたくせに、嫌いと言われただけで心を痛めるなんておこがましい。痛いのは、思い切り手を叩かれたニーナだ。赤く腫れてしまっていて――。
「手を……叩けた?」
メリルはニーナの手を叩いた。ニーナの手が赤く腫れるほど強く。つまりニーナに対して危害を加えた。契約魔術によってニーナを傷つけられないはずなのに叩けたのだ。
「なんでっ……戒めが発動しないの?」
これまではメリルが攻撃を仕掛けたり、薬を盛った食事をニーナが食べようとしただけで契約魔術の戒めが発動した。今まで通りなら殴ろうとした時点で戒めが発動するはず。
何故今回に限って戒めが発動しないのか、思案を巡らせる。
「ニーナの安全を守るためにしたことだから?」
可能性としては考えられる。ニーナの守るためであればある程度危害を加えても契約魔術の違反には当たらない。加えてもう一つ可能性がある。こちらはもっとシンプルだ。
「まさか契約魔術の効果が切れかけている?」
自分の体内に、メリルは意識を集中する。全身に刻まれた契約魔術の痕跡を確認した。未だに契約魔術の構築は健在だ。だが構築の至る箇所に綻びが生まれていた。
契約魔術は、魔術構築の際に期限を設定する。契約期間が長ければ長いほど大量の魔力と複雑な魔術構築が必要だ。
ニーナの場合、魔力は問題にならない。だが魔術構築の技量となれば話は違う。
いくら強大な魔力を持っていても、ニーナはまだ七歳だ。魔術構築の練度は低い。魔力量の多さで強引に契約魔術を起動は出来ても、長期間持続するだけの精度はないのだ。
この状態なら、あと一日も経たずに契約魔術は解除される。そうすれば搦め手なんて必要ない。メリル自ら、ニーナに直接手を下すことが可能となる。
「明日には、あたしはニーナを殺せるようになる……」
今ならリョウもメリルのことをある程度信頼している。今日ニーナを医務室に連れて行くのを任せたのがいい例だ。その気になれば簡単に虚を突けるだろう。
シャーロットの空間魔術を併用すれば、さすがのリョウでも邪魔することは出来ない。
しかも明日はルギタニアの競技大会。学院が一般に開放されるからシャーロットの潜入もこれまでよりも容易くなる。
明日、ニーナを暗殺するにあたって最高の条件が整う。それを自覚した瞬間、メリルは強烈な吐き気を催し、両手で口元を抑えた。
「どうかしたか?」
背後から声を掛けられてメリルは振り返った。険しい顔をしたリョウが玄関に立っている。メリルは素早く平静を装った。
「別にどうもしないわ……あんたこそ何かあったの?」
「……いや」
メリルは、一緒に暮らすようになってある程度、リョウの感情を察せるようになった。
彼は、明らかに悩んでいる。だがそれをメリルに話すつもりはないらしい。隠し事をしているのは明白だ。何を隠しているか考察し、ある可能性が頭に浮かぶ。
もしかしたらリョウもメリルと同じことに気が付いたのかもしれない。
彼も達人級の魔術師だ。自身にかけられている契約魔術の状態を知った可能性はある。
契約魔術が無くなれば状況的にリョウが圧倒的な優位に立つ。
彼がメリルの正体を明かすだけで事は全て片付く。生徒を殺した憎い紅の生殺与奪を握っているも同然だ。であるならば、何故リョウがこんなに悩むのか?
メリルを殺せばニーナが悲しむと思っているからだ。
家族の形を壊したらニーナが傷つくのは間違いない。なんだかんだで子供らしいところのある女の子だ。リョウもそれを分かっているからメリルを殺せない。
裏を返せばメリルを殺すことを躊躇しているリョウなら簡単に殺せる。元々メリルとリョウには相当の実力差があるのだ。しかし彼が死んでもニーナに深い悲しみを与えることになる。メリルもそれだけはしたくない。
家族としての時間を長く過ごしすぎた。メリルは、ニーナとリョウに情を抱いてしまった。一度抱いた情を捨て去ることは出来ない。いざという時、必ず刃を鈍らせる。
メリルは己に問いかける。ニーナとリョウを殺せるか。答えはすぐに帰ってきた。
ニーナの暗殺は出来ない。リョウも殺したくない。これがメリルの素直な気持ちだった。
もうこうなってしまったらメリルに残された道は一つしかない。
「……ねぇ、あたしの外出を許可してくれない?」
メリルの頼みに、リョウは眉根を寄せた。
「外出許可?」
「知ってるでしょ? あたしは帝国の人間だから自由に外には出られないのよ。あんたが許可をくれたら出られるんだけど」
「……分かった。許可は取っておくから行けよ」
許可されないかと思っていたが、意外にすんなりと事が運び、メリルは安堵した。
「ありがとう……」
メリルは、食卓の上のクッキーが入った紙袋を手にして教員寮を後にした。
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