第3話『クソガキ』

 リョウは、ニーナと共に学院西にある教員棟・学院長室を訪れていた。入り口の向かい側の壁一面が窓になっており、左右の壁にはマホガニーで出来た本棚が並んでいる。

 部屋の中央には年代物のマホガニーのデスクがあり、老年の男が座っていた。毛のないねずみを擬人化したような風貌の男で上下黒の教員用制服に身を包んでいる。

 バージス・ビートン学院長。ルギタニア魔術学院の学院長を二十年務めている人物だ。

 人柄の良さ、教師としての指導力、魔術師としての実力を兼ね備えている。


「久しいのうリョウ。会うのは一年ぶりかのう」

「お久しぶりですバージス学院長」

「暗殺者の件は本当に助かったのう。で、その人物が帝国人とは間違いないか?」

「ええ。確実に。あいつの……紅の技は忘れられない」

「ふむ。あれほどの傑物がこの国に……おまけに〝帝国人の連続殺人事件〟まで」

「人材交流で来た連中のあれですか?」


 一年前、ルギタニア共和国とワイズ帝国は講和条約を結び、五年の長きに亘る戦争は終わった。それ以降、両国の和平の証として人材交流が積極的に行われている。

 もちろんこれは建前だ。実際には、両国がまた戦争を始めないようにするための安全装置である。自国の相応の身分や立場の人間を人質として相手国に送っているのだ。

 その人材交流でルギタニアを訪れたワイズ帝国人が七ヶ月で十二人惨殺された。

 しかしルギタニア政府は、犯人の目星すらついていない。国の沽券に関わる大問題だ。


「まったく頭が痛いのう……しかし紅とはのう」


 バージスは、腕を組んで椅子に身体を沈めた。


「どうしたものか。帝国側に問い合わせたところでのう……」

「シラを切るでしょう。紅独断の犯行で帝国は一切関係ない。連中のいつものやり口だ。そしてルギタニアも戦争への発展を避けるため帝国の言い分を飲んで追及はしない」

「政府にこの件は報告するが、そうなるだろうのう……まぁ、お前と会うとはニーナも運が良い子だ。その子については理解しているかのう?」


 ニーナの凄まじいまでの魔力。ここまで来たらその理由が知りたくなる。けれど特別な事情があるのは想像に難くない。本人がいる前でどこまで聞いてもよいのか。

 リョウが言いよどんでいると、ニーナはズボンの裾を引っ張ってきた。


「なんでも聞けばいい。わたしは気にしない」

「……学院長。この子の魔力量はなんです? 両親は相当高名な魔術師だとは思いますが」


 バージスは、困ったような笑みを浮かべて頬をかいた。


「その子の親のことは分からなくてのう」


 ニーナが一番触れてほしくない話題を聞いてしまった。己の失態に舌を打ちたくなる。

 恐る恐るニーナの様子を横目で確認した。彼女は相変わらずの無表情である。

 しかしリョウの目には、ニーナが平静を必死に装っているように見えた。

 バージスもそれを悟ったのだろうか。デスクの引き出しから棒付きキャンディーを取り出し、ニーナに手渡した。

 ニーナは、受け取ったキャンディーを頬張った。無言且つ無表情だが、心なしか機嫌が直ったように見える。

 バージス学院長は、困ったような顔でつるつるの頭をぺちぺちと叩いた。


「リョウ。この子の魔力は、親の血筋がどうこう言う段階じゃない。そしてこの子が入学して一月経つが、正直言ってわしらは、この子を持て余している」


 本人を前にして随分な言い方だ。リョウの知るバージスは子供に対してこんな口を聞く人物ではなかった。裏を返せばバージスですらこう言わざるを得ない子供なのだろう。

 事実ニーナは相当扱いにくい。彼女と出会ってすぐにそれを思い知らされた。

 彼女の面倒を見る教師に同情の念を抱いていると、バージスがにっこりと笑った。


「リョウ、お前さんがこの子を指導してやってくれんかのう?」


 バージスの言葉に、耳を疑った。


「……は?」

「リョウ、お前さんが――」

「何言ってんですか! なんで俺がこのガキの面倒見なきゃ、痛っ!?」


 リョウの右足に激痛が走った。ニーナの左のブーツの踵がリョウの右足の爪先を思い切り、踏みつけている。


「お前さん以上の適任はおらんと思うがのう。昔からお前さんは、口は悪いがなんかんだで優しいし、面倒見もいい。ほれ、その子もお前さんに懐いとる」


 ニーナは顔色一つ変えず、ブーツの踵でリョウの爪先を何度も踏みつけてくる。無表情で平然とこういう行動をしてくるあたりが末恐ろしい。


「これのどこが懐いてんです!? これのどこが!? 痛ッ! 痛ッ!! 痛ぇよ!!」


 リョウは、ニーナの着ている制服の上着の襟を掴んで持ち上げた。ニーナの両足が空中でバタバタ動いている。


「リョウ、下ろして」

「下ろしてたまるか。学院長、断ります。俺にその資格はない」

「まだそんなことを言っているのかのう。お前さんがなんと言おうと、お前さんは世界を救った英雄だよ」


 みんな口を揃えて同じことを言うが、それは事実ではない。若者を戦場へ送り、彼らを守れず、おめおめと自分だけ生き残った。英雄とは真逆の大罪人である。


「俺は英雄じゃない。英雄は生徒たちだ。俺は……生徒を死地に送った悪魔です」

「お前さんがルギタニア式魔術を開発し、広めねば生まれついての魔術師の数で劣るルギタニアは、ワイズ帝国との戦争に負けておった。もっと大勢が犠牲になっておった」

「だが犠牲になるべきじゃない人間が俺のせいで死んだのは事実だ。だから教職に戻るつもりはない。ここでいくら問答をしても無駄ですよ」


 リョウがバージスに背を向けようとした瞬間、彼は椅子から飛ぶような勢いで立ち上がり、頭を下げてきた。


「頼む! ニーナを護衛してくれんかのう! その子は見た通りの奔放な性格でのう! しょっちゅう学院を抜け出すし、この前なんか一人でアガイスの森に行ってしまって!」

「アガイスの森!?」


 思わぬ場所の登場に、リョウの声は上ずってしまった。


「あの魔獣の巣窟に……こいつが一人で!? ていうかこっから五十キロ以上離れてますよ! ニーナ、お前なんであんな場所に!?」

「魔獣は、わたしにぴったりのともだち。だから会いたくて結界に抜け穴を作ったの。でもすぐに穴がふさがるから行くたびに結界に穴をあけなくちゃいけなくて面倒だわ」

「あの結界は、高位の魔術師でも一人で破れるもんじゃねぇぞ。なんつー馬鹿魔力……」


 アガイスの森の結界は、自動修復機能がある。子供一人が通れる程度の穴が開いても瞬時に修復される。問題は、そもそも結界が破ること自体が不可能に近いという点だ。

 人知を超えた素質である。学院がニーナを持て余すのも無理はない。

 だからと言ってリョウは、自分の考えを変えるつもりはなかった。


「とにかく俺は、復職するつもりも、こいつのボディーガードをやるつもりもないです」

「頼む! 警備体制の強化は併せてやる! だからなんとか! この通り!」

「だからやりません。失礼」


 リョウは、ニーナを床に下ろして踵を返した。するとシャツの左袖をくいっと引っ張れる。振り返るとニーナが唇をぎゅっと結んでリョウを見上げていた。

 ルビーのように輝く瞳が涙で潤んでいる。想定外の事態に、リョウは面食らった。


「……リョウがいい……」


 甘えた声を出す姿を見ると、やはり幼い女の子なのだと実感させられる。

 自分に人を教える資格はない。けれどニーナを置き去りにするのもはばかられる。

 リョウの心で相反する感情が鍔迫り合いをしていた。多くの若者を死地へと送った自分にそんな資格はないが、ニーナが望んでくれるなら答えてやりたい。

 両親がいない。学校でも疎まれる。せめて一人ぐらいは、この子の味方がいなくてはいけない。それぐらいなら出来るかもしれない。亡き師がリョウにそうしてくれたように。


「……ったく。分かったよ。俺でいいならやってやる」

「ほんとう?」


 不安そうな顔でニーナは首を傾げる。

 リョウは、微笑んでニーナの頭をそっと撫でた。


「……ああ、本当だ」


 そう告げると、ニーナは無表情になってリョウの手を払いのけた。


「大人ってちょろいわね」

「このクソガキ……」


 リョウの決心は、開始一分で大いに揺らいだ。



 * * * * *



 リョウがニーナに魔術を教える。そう決まったら事が進むのは早かった。

 まず以前使っていた教員寮への入居が即日に決まった。

 ルギタニア魔術学院の教員には、二階建てのテラスハウスが割り当てられる。

 教員の家族が一緒に暮らすことも想定されており、キッチン・風呂・トイレ・リビング・複数の寝室などの設備が設けられている。

 そこにはニーナも一緒に住むことになった。ニーナの性格が原因で、学生寮では一緒に住める生徒がいないらしい。人を見下す悪癖を改善しない限り、無理もないだろう。


 さらにバージス学院長の一声で、リョウの教師としての復職も決まり、ニーナの所属する高等科一年の魔術実技担当となった。

 深夜、バージス学院長に呼び出された高等科一年の実技担任教師は、任を解かれたことを歓喜して号泣していたらしい。ニーナの他にもう一人厄介な生徒がいるらしく、ストレスで胃に穴が開いたとか。


 結局バージス学院長に上手く丸め込まれ、彼の掌でまんまと踊らされている。

 戦争が終わってから一年。リョウの時間は止まっていた。それなのに物事は一度進み始めると息つく間もなく進んでいく。ギャップに心が追い付かず、一睡も出来なかった。

 眠れないままベッドに身体を横たえることほど無意味なこともない。

 早朝リョウは、二階の寝室から一階のリビングに降りた。リョウの住む教員寮は、玄関から部屋の中に入るとすぐにリビングがある構造で、キッチンも併設されている。


 リョウは、オーブン付きコンロの火で煙草をつけた。

 マホガニーの食卓に座り、窓から差し込む朝日を浴びながら煙草を一服する。

 吐き出した紫煙は、朝の青い光の中で踊り、不定形に形を変える。これから先どうなっていくのか、そんな不安を投影したかのようであった。

 煙が大気に溶けていくのを見送っていると、コンコン! と玄関扉をノックする音が響いた。煙草をくわえたまま扉を開けると、ウサギが二本足で玄関前に立っていた。灰色の毛並みで背中には新聞の入った籠を背負っている。背丈はニーナより二回り小さい。


「チチッ。キュイ」


 鳴きながらウサギが背中を見せてくる。リョウは籠から新聞紙を一部取り、ポケットから百ダエド硬貨を一枚取り出して籠に入れた。


「ご苦労さん」


 リョウが礼を言うと、ウサギは両手足を地面につき、四足歩行の姿勢を取る。


「キュキュイキュイ!」


 ウサギは全身に青い光を纏い、地面を蹴った。小さな身体は、稲妻のような速度で走り出し、瞬く間に姿が見えなくなる。


「いまのなに?」


 いつのまにか黒いパジャマ姿のニーナが背後に立っていた。眠たそうに眼をこすっている姿は、存外子供らしい。


「ブリッツラビットって魔獣だ。新聞社が契約魔術で使役してるんだよ」


 リョウは、ズボンのポケットから金属製の携帯灰皿を取り出して、煙草を放り込む。

 しばらくは酒も煙草も嗜めない。少々息苦しいが、ニーナと同居する以上、副流煙を吸わせるわけにはいかない。子供と暮らす最低限のマナーである。


「悪い。臭いだろ」


 リョウは、窓を開けて煙の匂いを追い出そうと新聞であおいだ。


「別にいい。たばこの匂いはきらいじゃないわ」

「末恐ろしいこと言うんじゃねぇ。こんなもん大人になっても吸うな。害しかねぇから」

「リョウはなんで吸うの」


 酒と煙草は、人間に享楽を与えながら緩やかに殺してくれる。罪と向き合って己を罰する時間はありながらも、人より長く生きない。リョウにとってそれは救いであった。


「……さぁな、死に損なったからかもな」

「じゃあ殺してあげようか」


 ニーナは、無表情且つ無感情でさらりと言ってのけた。悪い意味で将来が楽しみである。


「だから末恐ろしいこと言うんじゃねぇよ……もっと人に対して思いやりを持て」

「わたしの心は冷たいの。心臓も動いてないわ」

「そりゃ大変だな。じゃあ心が温かくなるように飯を作ってやる。ニーナ、お前アレルギーとか嫌いな食いもんとかあるか?」

「なんでそんなこと聞くの」

「アレルギーがあるなら気をつけないとだろ。あと嫌いなもんは無理して食わせない主義なんだ。大抵大人になったら食えるようになるから。飯は美味くて楽しいがモットーだ」

「お酒とたばこで味覚が死んでる人間のくせに」

「ほう。じゃあ俺の作る朝飯を食って吠え面をかくこったな。でアレルギーは?」

「ない」


 リョウは、コンロの左隣に置かれた冷蔵庫を開けた。食材は、夜の内に学食の厨房から拝借している。卵四つ・トマト一個・チーズ・一斤のパンを取り出してキッチンに立った。

 まずパンを薄くスライスして、二枚トースターに入れる。

 溶いた卵と小さい角切りにしたトマトを多めのオリーブオイルを引いたフライパンで手早く炒める。味付けは、少しの塩と細かく削ったチーズをたっぷりと。

 トマトエッグが焼き終わると、トースターからパンが飛び出した。熱いうちに薄くバターを塗っておく。

 パンの香ばしい香りとチーズのコクのある匂いがリビングにふんわりと漂った。

 トーストとトマトエッグを一枚の皿に盛り付け、フォークと一緒に食卓に置いた。


「出来たぞ」


 リョウが食卓に着くと、向かい側にニーナが座った。

 朝食を眺めるニーナの口元に笑みが咲く。その姿は、普通の子供と変わらない。

 じっと眺めていると、ニーナは、はっとしていつもの無表情を取り戻した。


「食事なんて生きるための栄養をセッシュするための手段。こんなものにお金と時間とロウリョクを割く人の気がしれない」


 ニーナは、フォークを手に取り、トマトエッグを一口。


「んむぅ!?」


 ニーナは、きらきらと目を輝かせて満面の笑みを浮かべた。


「おいし……はっ!?」


 無邪気な笑顔も束の間、ニーナは無表情を取り繕った。


「ニーナ、いい吠え面だったぞ」

「……うるさい。滅べばいいのに」


 リョウは、勝利の愉悦に浸りながらトマトエッグを頬張った。


「……美味いな」


 食事の味がちゃんとしたのは一年ぶりだった。

 卵のまろやかさとトマトの酸味をチーズの塩味が融合した味わいは、食欲を刺激する。

 次の一口をフォークですくうと、ニーナが蔑んだ目で見てきた。


「自画自賛するなんて、おとなげないわね」

「でも美味いだろ?」

「リョウって性格悪いわ」

「お前に言われちゃおしまいだな」


 リョウは、トマトエッグをぱくりと頬張り、食卓に新聞紙を広げた。

 ニーナは椅子の上に立ち、身を乗り出して新聞紙を覗いてくる。


「新聞っておもしろい?」

「物騒なことしか書いてねぇな。一面はお前が地面に開けた大穴だ」

「さすがわたしね」


 自慢することじゃない、と突っ込みたい衝動を抑えて新聞に目を落とした。


「あとは連続殺人事件十二人目の被害者が出る」

「きのう学院長が言ってたやつ?」

「ああ。被害者は全員ワイズ帝国人。全員獣に引き裂かれたような状態か。ひでぇや」

「……わたし、この学校にだいすきなともだちがいる。とっても仲よくしてくれる人。人材交流で来た人だから心配だわ」


 ニーナの友達のワイズ帝国人。一体どんな人物なのか。


「……そりゃ会うのが楽しみだな」


 好奇心で胸を満たしながらリョウはトーストをかじった。

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