エピローグ
「いや、アースロが泳げるのはわかったけどさ、それよりお前は泳げるわけ?」
最近また大きくなった気がする虫が、雨粒の跳ねる湖で優雅に体をくねらせ泳いでいる。それを愛おしげに見つめていたイウは、モリンの問いにこてんと首を傾げた。
「わたしは、泳いだことがない」
「だよな。だから少し時間はかかるけど、金貯めて舟を買おうって言ってんだ」
「舟では、水中遺跡の中が見られない」
「でも溺れるだろ?」
「溺れない」
「なんでそんなに自信満々なんだよ……」
「頑張って、息を止める」
そう言って色鮮やかに光る瞳で見つめてくるイウは、既に遊泳用に作られた蜘蛛織の服に着替えている。神官服とはまた違った意匠だが、魚のひれのような飾り帯がよく似合っている。準備万端だ、泳げないことを除けば。
「シュドも、泳いだことないんだろ?」
「私は水中呼吸の〈スキル〉がある。〈レベル3〉なので、半鐘分は潜水可能だ」
「……なんでそんなに〈レベル〉が高いんだよ」
「水桶に顔を浸けた」
「あ、そう……」
「わたしの『星明かり』も、〈レベル3〉になった」
「うん、そりゃあんだけ毎日使ってりゃな」
モリンは少し豪華になった手のひらの紋様を見せてくるイウの額を指先でツンとつつき、「いいぜ、ならイウは俺が引っ張ってってやる」と腕組みして宣言した。
「……うん!」
「息継ぎできる場所は決まってるからな、苦しくなってもすぐには上がれねえぞ」
「うん」
覚悟だけは決まっているようなので、「じゃあ、息止めろよ」と言って湖に潜る。湖といっても水中遺跡のそれはかなり複雑な形をしていて、潜水して遺跡の中を通り抜けなければ、虹の見える場所へは行かれないのだ。
ちゃんと潜れたか振り返って確かめると、イウは目を丸くして水の中の景色を見回し、すぐに手を開いて小さな星を出現させた。「ここで星を出したらどう見えるのだろう」なんて考えている暇があるなら、まあ大丈夫だろう。
モリンは壁を蹴って深く潜り、暗く狭い通路へと入り込んだ。内部は入り組んでいるが、地図は頭に入っている。シュドがついてきているのを確認しながら、できるだけ速く泳いでゆく。手を引かれているイウは曲がるたびに壁にぶつかってびくりとする。本当にどんくさい奴だ。
遺跡の中は石壁に囲まれているので、光石で周囲を照らしながら進む。松明や灯火の〈スキル〉に比べればかなり光量が低いが、目が慣れてくればこれで充分だ。
そして息継ぎ地点まであと半分、というところで、モリンは自らの過ちを悟った。
(はしゃぐな、イウ!)
そう念じたが、通じるわけない。頬を紅潮させ、瞳をキラキラさせてあちこち見回しているイウは、青い光に照らされた美しい壁画の数々に胸を高鳴らせているようだ。心臓が速く脈打てば、それだけ息が苦しくなるのも早い。彼女はあえなく肺の空気を使い切り、ごぼりと大きな泡を吐いて喉を押さえた。
(まずい)
急いで水面へ浮上しようと、モリンは友の手をしっかり掴んで強く壁を蹴った。が、イウが動かない。どこかに服を引っかけたのか。
(……は、ええっ?)
そして振り返ったイウは目を剥いて目の前の二人を凝視した。〈スキル〉の力で大きく息を吸ったシュドが、さっとイウの鼻をつまんだかと思うと、背中を引き寄せて彼女の唇に己のそれを押し付けている。目をまん丸くしたイウはそのまま数秒間口移しで空気を与えられていたが、ぱち、ぱち、と瞬きをしたあと、ふっと気絶した。
(まあ、そうなるよな)
ぐいぐい引っ張って水面に顔を出し、岩の上にイウを引き上げる。幸いにも水は飲んでいないようで、頬を引っ叩くとすぐに咳き込んで呼吸を始めた。
「……息を吐いちまってもすぐには死なねえから、あんま素人が変なことすんな」
なんとなく頬を赤らめながらモリンが言うと、シュドは「わかった」とあまり納得していないような声で言った。
「イウ、大丈夫か?」
「……とても胸が苦しい。息ができない」
「どっちの意味で?」
「精神的な、意味で」
「なら大丈夫だな」
頷いていると、シュドがなぜかそわそわと目を泳がせている。挙動不審なそれに気づいたモリンが怪訝な顔で見守っていると、彼は壁を見つめ、イウをちらりと盗み見て、自分の膝に目を移す。そして何やら決心した様子で顔を上げ、両手で顔を覆ってじたばたしている少女に向かって小さく言った。
「……精神的に苦しめる、つもりはなかった」
謝りたかっただけかよ。とモリンは呆れてため息をついた。が、イウにとっては予想だにしない言葉だったらしい。「えっ」とハッキリ声に出して絶句し、そしておずおずと言った。
「苦しんでいない。口づけにとても驚いて、急激に心拍数が上がり、その結果呼吸が苦しい」
「……口づけ?」
「うん」
小さな頷きを見たシュドは、口を半開きにして彫像のように固まった。まさかそんな反応をするとは思っていなかったモリンは少し驚き、照れているのだろうかと観察してみたが、顔色はどちらかというと青褪めている。青年はたっぷり百数える間微動だにせず、心配したイウにそっと肩を叩かれると、ついと視線を逸らして囁いた。
「私は……そんなつもりでは」
シュドはそれきり一言も口を利かなくなったので、モリンはさっさと二人を観測地点まで連れて行くことにした。冷たい水に潜れば少し頭も冷えるだろう。
(ここから一気に進展……いや、しそうもねえな)
何を思っているのかわかりにくいシュドだが、反応を見る限り恋とか愛とか、少なくともそういうことは考えていなさそうだ。暗い通路を進んでいる間に、イウの方も元に戻ったらしい。ざばりと水から上がると、彼女はさっそくきょろきょろと空を見回して目当てのものを探し、待ちきれない様子でモリンに尋ねた。
「六の鐘まで、あとどのくらい?」
「予定より長く休んだからな。もうすぐだよ」
「こちら側は、雨が弱い」
「うん。水中遺跡は湖のあっちとこっちで天気が違うんだ。面白いだろ――」
そう言い終わるかどうかという時、ゴーン……と早朝の鐘が幽かに聞こえてきた。塔の頂上で鳴らしているそれがこんなに遠くの区域まで聞こえるのもまた、この世界の謎のひとつである。残像ができる速さでイウが北の空を見上げた。
「……あ」
イウが息を呑む音がした。見上げると、晴れた雲の合間にうっすらと七色の橋が架かり始めている。鐘の音に合わせて少しずつ、虹は色を鮮やかにしてゆく。
ゴーン……
ゴーン……
ゴーン……
「これが……虹」
「お気に召しましたか、編者様?」
「モリン、ありがとう」
溢れる涙を何度も拭い、夢見た虹を一心に見つめながらイウが言った。
「おう!」
「ありが、とう」
「うん」
「あり、ありがっ……とうっ」
「わかったって」
肩を抱いてやると、イウは泣きじゃくりながら「よく見えない」とびしょ濡れの袖で目を拭った。
「十二の鐘の時にちゃんと見ればいいさ」
「また、見られるの?」
「うん。今日はここに泊まりだし、また何度でも連れてきてやるよ」
「何度でも」
感激しているイウに笑みが浮かんでしまうのを抑えられず、ごまかすように頬を揉みながら、モリンは言った。
「うん、お前が望むならな。……なあイウ、お前はこれからどうしたい? イデン達は『塔へお戻りください』とか言ってたが、帰るつもりなのか? 虹を見る夢は叶えたし、なんかお前、神様みたいな扱いになっちまったしさ……もう二度と会えないっていうのは、俺はちょっと、ヤなんだけど」
「わたしは帰らない」
イウがきっぱり首を振るのに歓喜が湧き上がりそうになって、モリンは慌てて深呼吸で心を鎮めた。だめだ、まだ期待するな。
「どこか、他にも行きたいとこがあるのか?」
「全部」
「……全部?」
きょとんとしたモリンに、イウが涙目でやわらかく微笑む。
「わたしは、あの街のように壊れてしまった土地があるなら、それを直したいと思う。〈バグ〉達を殺さず、あるべき姿に戻せるならば、そうしたい。けれどわたしには、まだ知らないことが多すぎる。見たことのないものは想像できない。だから、世界の全てを見て回りたい」
「それは、お前……一生かかっても、回りきれるかどうか」
「そうしたら、モリンと一生、一緒にいられる。そうなったら、わたしは嬉しい」
「……まあ、うん。そりゃ俺だって嬉しいけど」
「なら、そうしよう」
ぎゅうっと抱きしめられて、モリンも涙ぐんでしまった。が、目を逸らした先に座っていたシュドは二人に見向きもせず、「こんなものか」という顔でつまらなさそうに空を眺めている。
「虹、あんまし興味ないか?」
そう尋ねると、シュドは横目に視線を合わせて淡々と言った。
「いや。涙目があまりに夢を語るので、少々期待が過ぎたようだ」
「……綺麗ではない?」
濡れた瞳で見上げるイウをじっと見下ろし、シュドは軽く肩を竦めた。
「君の瞳の方が、謎が多い」
「……ならば、シュド、は、旅を」
「私はそもそも、君を研究するために塔を出たのだ。君が世界を見て回るのならば、当然私も同行する。果辺の〈マップ〉製作も全く捗っていないしな」
「ずっと、一緒?」
「ああ」
ぱあっと花開くように満面の笑みを浮かべたイウの瞳が、虹を映してこれ以上なく色鮮やかに輝いた。それを見つめるシュドの頬がほんのり色づいて見えた気がしたが、後になって思えば、あれはモリンの気のせいだったのかもしれない。
〈了〉
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