5 バグ(モリン)
「――ユロ! こっちに回避!」
モリンが叫んだ瞬間、ユロが声の方へ跳んだ。果ての穴が蔦の大半と、三ツ目模様の籠を三分の一ほど消し飛ばし、少年は無様に転がりながらモリンのかたわらへ着地した。
「おい! 頭大丈夫か!」とモリン。
「……それ、悪口に聞こえるな」
すっぱりと直線上に切り取られた籠を脱ぎ捨て、ユロが頭をぺたぺたと触る。片側だけ髪が短くなっているが、怪我はなさそうだ。
「なぜ助けた、モリン」
スッとモリンを見下ろした少年の黒髪が、冬の冷たい夜風に揺れる。否、真っ直ぐこちらを向いてはいるが、瞳は夢でも見ているようにうつろで、きりりと引き結ばれた唇との対比がどこか不均衡に見える。
「なぜって――」
その理由が自分でもわからず、モリンが答えに詰まっていると、ユロの素顔をじっと見ていたイウがその時ぽつりと言った。
「……目が、ふたつ」
何のことやらと思ったが、杯を耳に当てたシュドは思い当たることがあるのか「あれは嘘だ」と言う。
「嘘……」
「君を絶望させようと思った」
「ならば、イデンも目はふたつ?」
「おそらく」
「……何の話だ?」
ユロが眉を寄せ、怪訝そうに言った。モリンは「気にすんな、どうせ大したことじゃねえ」と応えた。
「しかし、僕の話をしているのでは」
「『三ツ目』だから目玉も三つかと思ってたのに……とか、どうせそんなこったろ」
「馬鹿を言うな、編者がそんなに愚かなはずがないだろう」
「……はは」
「それはそうと、死にたくなければ距離を取った方がいい。外殻に全く刃が通らなかった。討伐は難航するだろう」
「俺達が死ねば、お前達は喜ぶんじゃねえのかよ」
「……そんなことはない」
絞り出すように言ったユロがあまりに苦しそうな顔をするので、モリンは思わず黙り込んでじっと三ツ目の少年を見つめた。彼は彼で、〈バグ〉に対して葛藤を抱えているのだろうか。少年はその鋭い身体感覚でモリンの視線に気づいたか、唇を噛んで俯くと頬を真っ赤にした。
(なぜ赤くなる)
モリンは首を捻ったが、彼が普段は顔を隠している人間であったことをすぐに思い出し、なるほどと頷いた。顔を見られるのが恥ずかしいのだ。
(イウと同じだな)
「そんなに気にしなくて大丈夫だ。結構かっこいいよ、お前の顔」
「……っ! な、何をっ」
今度はぱあっと耳まで薔薇色になった。モリンはかける台詞を間違えたかと眉を寄せ、ユロはちょっぴり涙目になったが、少し回復したらしいイデンが駆けてくるのに気づくと、一瞬でその気配を照れる少年から鋭く研ぎ澄まされた処刑人のものに変えてしまう。
「イデン」
「次は私が行く」
「援護します」
彼は淡々と応え、そしてもう一度だけモリンを見下ろして言う。
「できるだけ、身を低くしてなよ」
そしてユロは彼女に背を向け、再び走り出した。「おい、やめろ!」と叫んだが、振り返りもしない。イデンが壁を蹴って飛び上がり、空中ですらりと斬首刀を抜き放つと、今度は節目ではなく、竜の外殻に開いた三角形の穴にずぶりと深く刃を刺し込んだ。両手で掴んだ柄を素早く捻り……円座竜が悲鳴を上げる!
――ううぅゥウウウゥゥぅぅう
風が鳴るような、しかし苦痛に満ちた咆哮。イデンが素早く竜の背から飛び降り、その声で振り撒かれる恐怖に全員が身構えた、その時のことだ。突如、巨大な竜の腹のあたりから真っ黒な霧のようなものが噴き出して、まともに正面から浴びたイデンとユロが声も上げず倒れた。
(毒か!)
「迎撃型〈レイドボス〉の〈カウンタースキル〉だ! 全体攻撃と思われる。退避を!」
シュドが焦った声を上げた。何を言っているのかイマイチわからなかったモリンだったが、何にしろ、逃げることはできなかった。傷の痛みに咽び泣くような咆哮を上げ続ける竜のせいで、ぴくりとも身動きできない。そしてそれは、退避を指示したシュドも同じであるようだ。
黒い霧が地面をつたって押し寄せる。さぞや酷い異臭がするだろうと思ったが、予想に反して何の匂いもしなかった。臭くない、息苦しくもない、痛みもない。しかしモリンは唯一動かせる視線を巡らせて戦慄した。指先の皮膚がどす黒く染まっている。黒怪の血に染められたように、じわじわと末端から黒が広がって、感覚と、温度を蝕んでゆく。まるでそこだけ死体になったように、体が冷たく固くなってゆく。この黒が心臓に達した時に自分は死ぬのだと、モリンは本能的に悟った。
(……虹、見せてやれなかったな)
困難な状況でも決して諦めない勇気と信念が彼女の長所だったが、流石にどうしようもなかった。せめて最期は友の顔を見ていたいと、イウの姿を探す。
幸いにして、彼女はすぐに見つかった――モリンのかたわらにしゃがみ込み、心配そうに顔を覗き込んでいたのだ。
(……え?)
「モリン、口を開けて」
イウはやわらかく囁いて、目玉しか動かせないモリンの様子を見ると、ほっそりした白い指を彼女の唇の間に差し入れた。左手で顎を開かせて、右手にはなぜか、一昨日樹上集落で収穫していた小さい青林檎。
「……解毒薬」
彼女がそう呟くと、切れ目ひとつない果実から金色に光る雫が一滴、ぽたりとモリンの舌に落ちた。甘酸っぱい味と爽やかな香り。何度か目を瞬いて、まさかなと思って見下ろすと、肘まで染まっていたはずの黒がどこにも見当たらない。
「お前、これは、一体……」
「調薬ができると言った。それで、モリンを助けると」
「いや、それ、調薬っていうか」
「モリンを、助けられた?」
「……うん」
ふんわりと口元に笑みを浮かべたイウは、虹色の瞳をきらりとさせて、軽やかに立ち上がるとシュドの方へ歩いていった。皆を地面に縛りつけている恐怖を、なぜか彼女だけは感じていないらしい。イウはシュドにも果汁を一滴飲ませ、ユロとイデンの方へ向かった。白い花のような神官服はもう着ていないのに、なぜかその後ろ姿が神々しく見えた。
三ツ目達は流石に諦めなければならないかと思ったが、イウの「解毒薬」とやらの効果はそんなものではなかったようだ。すぐに息を吹き返したユロは、やはり少しだけ皆より竜の声に耐性があるらしく、ずるずるとイデンを引きずって竜から離れ、モリンの近くにぐったりとうずくまった。
「おい。これに懲りて、もうあの竜を殺そうとか思うんじゃねえぞ?」
そう声をかけると、ユロは膝に顔を埋めたまま弱々しい声で返した。
「……君は、なぜ」
「あいつ、ただ葉っぱを食いたいだけのでかい虫っぽいからな。そういう生き物が傷つくと、俺のダチが泣くんだ」
「そん、な、甘……」
「現実的なことなんてなんもわかってない、甘ったるい夢もできるだけ叶えてやりたいんだ。身の丈に合わない願いを全部諦めなきゃなんねえ世界なんて、つまんねえじゃん」
そう笑って振り返ると、シュドが小さく頷いた。自分勝手な変人なのは相変わらずだが、彼なりにイウやモリンのことを理解はしているのだ。
「興奮作用のある薬草を持ってる。それを噛めば一時的に動けるようになるはずだ。竜が大人しくしてるうちにこいつらを岸まで運んで、すぐに出るぞ」
仲間達にそう告げて、少し萎んだ青林檎を持ったままじっと円座竜を見つめ続けているイウの背中を叩く。彼女は泣き出してこそいなかったが、虹色の目は涙でいっぱいだ。
「かわいそうだけど、こればっかりは今すぐどうこうできる問題じゃねえ。作戦立てて、また出直すぞ。いいな?」
「置いて、ゆくの……? あんなに、苦しんでいるのに」
「だからって、ここに突っ立ってても助けてやれねえだろ」
「助けて、あげられない……」
イウの囁きが悲しみに揺れる。またもや大半の蔦の葉を食べ損ねてしまった〈レイドボス〉が苦しげに鳴いて、絶望から身を守るように体を丸めた。金色の尾の先端が消え失せて、黒い血が溢れ出す。イウが息を呑み、堪えきれずに肩を震わせ始めた。
「どう、どうし、て……あんな風に、なってしまったの?」
「生まれつきの
シュドが言った。イウの頬に光が流れた。
「あの子は……一体、いつ生まれたの?」
彼女は服の合わせ目から顔を出したアースロの頭を指先で大切に撫で、立ち上がって一歩、二歩と前へ出た。
「生まれてから、あんなに大きくなるまで……ずっとずっと、苦しんでいたの? あんな風に、苦しい、苦しいと泣きながら、何十年もひとりでこの地に閉じ込められて、飢えて、痛みに苛まれて、生きてきたの?」
銀の瞳の中を虹の光が踊る。彼女が強く悲しんでいるからだろうか、深い青色の光がゆらゆらと水面のように揺れた。凍るような銀の髪を星明かりが煌めかせ、その姿がなんだかとても神聖な、人ならざるもののように見えて、モリンはいっとき全ての恐怖を忘れた。そのくらい美しかった。
「イウ……」
「そんなことがあってはならない。あの静かな優しい竜は、本当は、傷ひとつない殻を宝石のように煌めかせながら、瞳に青い光を宿して、光脈の森で朽ち葉を食べて、静かに幸せに、長い時を生きてゆくために生まれたのに」
痛いほど澄んだ声が、静かな街に響く。胸の前でぎゅっと手を握って立つイウの頭上で、銀の尾を引いて星が流れた。虹色の瞳から涙がこぼれ、ぽたりと落ちたその足元で、歪な三角形の穴がふっと消える。
「哀れな竜よ。神が石碑になんと記そうと、あなたは幸せでなければならない」
その時目にした光景は、モリンにとって一生忘れられないものになった。
ぽたり、ぽたりと宝石のような涙を流す少女の足元から、波紋が広がるように街が修復されてゆく奇跡の光景を、彼女は畏怖に震えながら見た。
透明な力が綻びだらけの街を覆う。無数に開いた果てへの穴が、次々に灰色の美しい石畳へ変わり、凝った意匠の建造物に変わり、木々が枝を伸ばした。その波はすぐに竜へ到達し、穴だらけの外殻は傷ひとつなく鏡のように輝いた。苦痛に満ちた唸り声が消え、寝息のようにやわらかな音色が聞こえ始める。
その口元には降り積もった落ち葉の山があったが、この上ない、優しい力の波動を追って竜は顔を上げ、じっと、イウと見つめ合った。けれど、その虹の瞳が果てへ消えることはなかった。竜はゆっくりと心地よさそうに体を伸ばし、欠けなく全て揃った脚を波打たせ、伸ばされたイウの手にそっと触覚を触れさせた。見上げた空とよく似た、星の光が散る黒い瞳が幸福そうにきらりと光った。
そうしてモリンが瞬きを忘れている僅かな間に、星降る街は平穏に包まれたのだ。
恐怖の咆哮からすっかり解放されて尚、身動きひとつせず、イウを見つめている三ツ目達をシュドが見下ろす。
彼は情熱的でも冷酷でもない、いつも通りに温度のない声で言った。
「涙目は確かに果てを開くが、その大きさも、形も、常に彼女の想像通りだ。そして彼女は自らの明瞭な想像力でもってその穴を塞ぎ、この封じられた地と、〈バグ〉である竜をも、あるべき姿へと変えることができる。それが、どういうことかわかるか」
気だるい伏し目で淡々と告げる編者を、イデンとユロは地面に座り込んだまま呆然と見上げた。しかしその手はぶるぶると震えていた。まるで次の言葉を恐れるように。
「――イウは〈バグ〉ではない。〈プログラマ〉だ」
二人の処刑人は、無言のまま両手を胸に当て、跪いて首を垂れた。
「何なりと罰をお与えください、我らが神よ」
突然手のひらを返した三ツ目達を、イウはしばらく無言で見下ろしていた。そしてゆっくり振り返って、モリンをじっと見つめた。潤んだ瞳が明らかに助けを求めているのを見て、若き天才モモンガはようやく友への畏敬に打ち勝ち、声を上げて笑い出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。