6 夕焼け(モリン)

 水筒の水は貴重なので、地下室で採った果実を齧りながら慎重に先を急ぐ。慣れてきたとはいえ、やはりこんな底のない世界の果てを歩くのは恐ろしい。


 途切れた大地の向こう、遺跡の森とは少し形の違う根をよじ登って地上へ出る。途端に乾いた熱気が全身を包み込み、モリンは久しぶりの夏季に少し顔をしかめた。鮮やかな朱色の木漏れ日を、イウがぽかんと口を開けて見上げている。


 樹上集落は、晴れ渡る夏の夕暮れの区域なのだ。


「……モリン。虹の赤色は、こんな風に輝いているの?」

「もっと大人しい感じだな。こんな眩しくなくて……どう言ったらいいかな。光ってるってより、そこに色がある、みたいな」

「そこに、色がある」

「うーん……まあ見りゃわかるって。それよか、黒怪が集まってくる前に登らねえと」

「登る」

「『樹上』集落だからな――いいか、お前らは黙って突っ立ってればいいから」


 指差す大木の上には、木造の小さな家々が無数に並んでいる。木々の間には橋も渡されているが、モモンガの風合羽で移動している人間も多い。


 モリンは手頃な枝を拾うと先端に油布を巻きつけ、隙間に狼煙草の葉を何枚か押し込んで火をつけた。もこもこと夏の雲のような白煙を上げて即席の狼煙が燃え上がり、それに気づいた樹上の人間が一人、見張り台から滑空してくる。ふわっと空中で速度を落とし、三歩の惰走で着地したモモンガの青年は、中々の腕前と見える。彼は三人を見るとさりげなく腰のベルトに手を添わせ、不思議そうに会釈する。集落の人間は依頼を受けた探索者が立ち寄ることに慣れているが、まあ当然、神官服を着た人間にはそうそう出くわさない。


「同業と……そちらのお二人は?」

「花園のモリンだ。こちらは銀羽ぎんう銀岩ぎんがん、銀花の徒でいらっしゃる。此度は修験の護衛を仰せつかった」

「ギンカの……ああ、蝶の神官さんね」

「――銀花若蛹徒ぎんかじゃくようと、銀岩にございます。大樹の花々へ、蝶の訪れがあるように」


 すると、突然低い声で歌うように唱えたシュドが、胸の前で蝶の印を組んで軽く頭を下げた。隣でイウもピッタリ揃って同じ礼をする。反射的にすごい目で見そうになったモリンだったが、危ういところで堪えた。青年は目をぱちくりとして二人を見つめ、数秒固まった後、「あ、どうも……その、ありがたいお言葉を、ええと」と頭をかく。


「何日か、補給も兼ねて滞在させてほしいんだけど」

「樹上は初めてかい?」

「何度か。勝手はわかってる」


 そう言うと、青年は懐から小さな手帳を取り出して「花園の、モリン、モリン……」と呟きながらパラパラ捲った。


「うん、過去に問題は起こしてないな。なら自由にするといい。神官様がたに、何か特別な待遇が必要かな?」

「いや。修験の身でいらっしゃるから、歓待とかはいらない」

「ん。俺から長には伝えておくよ、修験の方がいらしてるって」

「うん、頼む」


 モリンが素直に頷くと、青年は木の上に向かって金属製の小さな笛を吹いた。ピィーッと甲高い音が響き、イウがびくっとして、少しすると縄梯子が降ろされる。


「ありがと」


「ごゆっくり」

 青年はニコッとして、神官二人に会釈すると、鉤縄を使ってあっという間に集落へ戻っていった。モリン達も縄梯子を登ってゆくと、上には長い槍を背負った筋骨隆々の男と、その背に隠れて子供達が数人、興味津々の顔で集まっている。


「久しぶりだな、嬢ちゃん。今日は護衛依頼か」


 男が縄梯子を巻き上げながらニッと笑う。モリンも「ギアのおっちゃん! 久しぶり」と破顔した。


「東の風車亭かざぐるまていなら空き部屋があるはずだ。神官様がたは雑魚寝の安宿じゃない方がいいだろ?」

「うん、行ってみる」

「……ねえ、蝶々はいないの?」


 五、六歳の少女がギアの背中から半分だけ顔を覗かせ、小さな声でイウに尋ねた。イウは首を振って、緊張しているのかいつもより更に幽かな声で言った。


「あの子達は、花園の巣から離してはかわいそうだから……」

「え? なあに?」

「『あの子達は、花園の巣から離してはかわいそうだから』だってよ」

「そっか……それならしかたないね」


 少女が肩を落とし、イウが慌てたように胸元に手を入れようとした。変な虫を取り出される前に、モリンが胸の高さにある栗色の頭をくしゃっと撫でる。


「大きくなったら遊びに来いよ。神官達と一緒なら、花の蜜を吸ってるとこが見られるぞ」

「うん!」


 一転、瞳を輝かせた少女を、ギアがニカっと笑って撫でてやる。その光景は微笑ましかったが、モリンがそっと横目で窺った範囲にも、やはり編者達の背丈や肌の色をジロジロと不気味そうに見ている大人が数人。


 ちらりちらりと、悟られない程度に視線を送りながら、モリンは誰がどんな表情をしていたか記憶していった。あからさまな不安や嫌悪よりも、何食わぬ顔をしている人間を探す。


 排他的な輩の言葉に友が傷つけられるのでは、という心配はあまりしていなかった。シュドはシュドだし、イウは態度こそ弱々しいが、世界の害悪と罵られ命を狙われながら「虹を見てみたい」なんて抜かしている女だ。みみっちい差別なんぞに泣かされはしないだろう。


 それよりも、警戒心を隠して裏でどこかへ報告するような奴がいないか、そちらの方がずっと重要だ。シュドによれば「三ツ目」と呼ばれる籠頭の執行人はあの二人だけのようだが、だからといって、彼らの息がかかった者が潜んでいないとは限らない。


(とりあえず、見える範囲に不審な奴はいないが……)


 とはいえ、補給を終えたら早々に発つのがいいだろう。宿の寝台で数日体を休めたらすぐに。


(けど、その前に風車亭の展望台から、イウに森を照らす夕陽を見せてやろう)


 そう思うと、梢の合間から照らす金色の光がひどく崇高なものに思えて、モリンは柄にもなく感傷的な気分になった。こんな逃避行のなかで、蝶や花や空の色を眺めて回ることの、なんと贅沢なことだろう。


 彼女が今まで調査対象としか思っていなかった、区域ごとの気候や生態系の違いに、編者達はひとつひとつ、一歩あゆみを進めるごとに感動している。モリンが今まで金銭と引き換えに提出してきた報告書は、こんなにも純粋な人達に手渡されてきたのだ。彼女の書いた虹の調査記録を、追っ手から逃げる間に落としてなくしてしまったと泣くイウに、モリンがとっておいた古い野帳を渡してやった時のあの反応! 何度思い出してもクスッと笑ってしまうし、胸の奥の方がくすぐったくなる。


 橋を三本渡った先にある風車亭は、他よりも頭ひとつ高い木の上にあるので、広い空と森を一望できた。カラカラと小さな音を立てて無数に回っている風車は、夕陽を反射して金色に輝いているが、実際には銀箔を貼った紙で作られている。よく晴れていて乾いた区域だからこそ置ける銀紙細工だ。朝露に濡れる花園生まれのモリンから見ても、とても軽やかで美しい。


 イウは無言でその光景を見つめ、そしてなぜか手を伸ばすと、高い位置で結ったモリンの髪を触った。指で梳くように撫でて「モリンの髪は、夕焼けよりも炎に似ている」と微笑する。


「……そうかよ」

「凍えた指先をあたため、闇を照らす炎の色」

「やめろって……ほら、兄さんから少し小遣いもらってるから、宿の売店で風車買ってやるよ」

「売店」

「花園では店に寄る暇なかったからな。鍛冶屋にも行かねえとだし、明日から忙しくなるぞ」

「鍛冶屋」

「お前らにもそろそろ、短刀の一本くらいあった方がいいだろ?」

「〈サーベイヤー〉の槍は手に入るか?」


 しゃがみ込んで風車を観察していたシュドが口を挟んだ。モリンは帰ってゆく子供達に手を振りながら、目だけでじろりと振り返った。


「……お前、槍とか使えんの?」

「測量には必要だろう」

「は? ああ……そういや、なんか地面に突き立てて高さ測ってんの見たことあるな」

「うむ。測っているのは主に距離だが」

「そうなの?」

「高さと角度から距離を算出する」

「いや、そこはそんな興味ねえけど……地図とか、だいたいの道がわかればいいだろ。そこまで正確に計測する意味ある?」

「俯瞰できない地下迷宮などの地図は、感覚で描くと破綻する」

「……どうしても大物が欲しいなら、ちゃんと扱い方を習え。測量道具としての使い道があっても、武器は武器だ。ギアのおっちゃんに話つけてやるから」

「ふむ、あの男は〈サーベイヤー〉だったか」

「測量士、な。ちょっとでも身を隠したいなら、門外不出の言語でしゃべんな」

「専門家の地図製作を見学できるだろうか」

「聞けよ」


 宿屋の扉は花園のような引き戸ではなく、取っ手を手前に引く形のものだ。結び付けられた鈴がチリンと音を立てると、その音に顔を上げた亭主が「いらっしゃい」と笑顔になった。


「三人、ひと部屋、とりあえず二泊。空きはあるか?」

「三人部屋ってのはないんで、二人部屋と一人部屋のふた部屋でよろしいなら」

「それじゃ護衛できない。二人部屋でいい。料金は三人分払う」

「あいよ」


 流石は集落一番の宿、客の事情に深入りしないし、見るからに風変わりな編者達にも顔色ひとつ変えない。


(表情が読めないのは、あんまり嬉しくねえが)


 モリンは慎重にそう考えながら財布を出し、そしてほんの少し上目遣いで「三人目はちょっと負けてくんね? 寝台ないんだろ?」と言った。亭主は片方の眉を上げて数秒モリンを見つめ、「仕方ねえな……二人半でいいよ」と苦笑する。


「ありがと、助かる!」

「お部屋までご案内しましょう」


 そう言って鍵を手に取った店主に「頼む」と返そうとした時、ふいに風合羽を引っ張られてモリンは連れの少女を振り返った。

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