2 調教師(イウ)

 宿の宿泊予定を一週間延長し、探索者の元へ通う日々が始まった。持参した手書きの楽譜はロヅ翁を予想以上に喜ばせ、優しい老人と歌や笛を教え合って書き記すのは、イウにとっても有意義な時間だった。


「蝶達は神の眷属なので、操蝶、という呼称は厳密には不敬になる。あくまでも祈り、願うという立場を崩してはならない」

「なるほどのう。例えば儂が、野生の蝶を笛で従えたとすれば、神官様はお怒りになるかね?」

「そこまでの干渉はしない」


 イウは遠話糸えんわいとというらしい、ふたつの紙の杯の底同士を糸で繋いだものに向かって話す。こうすると彼女の小さな声でもはっきり聞こえるらしい。初日はほとんど会話が成り立たなかったので、二日目にロヅ翁が持ってきた。


「調教笛ものう、ただ従属させ命令するものと思っておる若人も多いが、本質としては従えた獣を守るためのものなんじゃよ。獣の本能と、人間の判断力。ふたつを合わせて互いを守るための、絆の笛じゃ。銀羽ちゃんはそこのところをよくわかっとるのがいい。そういう音色をしとる」

「絆の笛」

「そうじゃ。狩人と違うて、調教師は黒怪を傷つける武器を持たん。呼吸を合わせ、音色を合わせて信頼を勝ち取る。その信頼が、調教師の武器となる。ただ命じて狩らせるのではない」

「ならば、戦わず蜜も糸も作らぬ無力な黒怪と絆を結んでもよい?」

「真の意味で無力な黒怪なぞおらんよ。光を捨て、色を捨てた黒怪達は、それによって人とは違う力を得ておる。例えば蚯蚓キュウインのような虫は、ひたすらのたくっておるだけのように見えるが、あやつは非常によい土を作る」

「無力な黒怪はいない」

「そうじゃ」


 老人は頷いて微笑み、そして優しい小声をそっと、杯に吹き込んだ。


「……塔の外の世界は楽しいかね、銀羽ちゃん」


 イウは面の下の目を一度ゆっくりと瞬かせ、老調教師の声に試すような響きがないのをじっくりと確かめ、僅かな動揺もない凪いだ囁きを返した。


「花々に囲まれた六重銀塔ほど、美しい光景はないと思っていたけれど……この夕焼け空もまた、得難い宝となった」

「そうか、そうか。よかったの」

「……うん」


 少し休憩にしようと言われたので、イウはロヅ翁と並んで茶を飲みながら、シュドとモリンの訓練を眺めた。槍の扱いを学ぶはずだったシュドはなぜかギアと一緒になって熱心に製図の勉強会をしていて、モリンの方は空中を自在に飛び回り、モモンガの青年センと追いかけっこのようなものをしている。


「ありゃあ、だいぶモリンちゃんの方が手を抜いとるの」


 ひらりひらりと頭上を通過してゆく影を見守りながらロヅが呟いた。イウが首を傾げたのを見て、「ほっほっ」と楽しげに笑う。


「しかもセンは気づいとらん上に、美人のお嬢さんへいいとこ見せようと全力で飛んどる。探索者は手の内を全部は見せんものじゃ。銀羽ちゃんも、とっておきの楽譜のひとつふたつくらい、隠しておきなさい」

「……はい」


 そろそろ夕食の準備が始まる、という時間になって、その日の修練は解散になった。モリン達と合流すると、明るい茶色の髪を汗で額に張りつかせたセンが「明日は探索に出てみないか」と提案してきた。


「北東の迷宮遺跡に新しい部屋が見つかったんで、明日は狩人達とチームを組んで測量に入るんだよ。それに同行してみないか?」

「いいのか?」


 モリンが目を輝かせる。新しい土地の調査団に入れるなんて彼女にとっては願ってもない状況であろうし、イウも、モリンが夢のひとつを叶える瞬間を目にしたいと思った。


「俺の速さについてこれるモリンなら足手まといにはならないし、神官様は人気者だからな、みんな喜んでるよ」

「やったぜ!」


 モリンがぐっと拳を握る。「測量は実地で覚えるのが一番だ」と顎髭を撫でながら言うギアに、シュドもどこか嬉しそうに頷いていた。

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