6 果て(イウ)
眼下には、そう、確かに空があった。淡く青い朝の空が、どこまでも深く続いている。空を見上げても空の終わりは見えないように、見下ろした空にも底は見えない。
「これは……何? 地面の下に、こんなものが」
「おそらく大地の厚さによって見え方が変わるのだろう。岩盤の中は暗く、突き抜ければこのようになる」
「これ……落ちたら、どうなるんだ?」
モリンが小さな声で言った。彼女らしくない、静かな声だ。
「餓死するまで落下し続ける、と言われているが。果てへ落ちて生還した前例は報告されていないので、確証はない」
「餓死、するまで……」
「つまり大地は、霧に囲まれて見えぬだけで、空の中に浮いているの? なぜ、どうやって」
イウが問うと、シュドが「原理はわからぬが」と肩を竦めた。果ての穴の中はとても静かで、彼女の囁きも聞こえるらしい。彼は包帯できつく縛られた肩を見て、そして何か思いついたようにそこへ手をかざした。
「作りかけであるから、というのが私の持論だ」
「……作りかけって、どういうことだ?」
青褪めた顔で底のない空を見下ろしていたモリンも、興味を惹かれたらしい。イウも頷いて促せば、シュドは何やら手のひらから青色の奇妙な光を出しながら言った。
「実に不完全だとは思わぬか、この
「神様の作りかけだから、まだところどころ変なところがあるって? 言いたいことはわかるが、えらく神話的だな。お前はそういうの、信じない方かと思ってたが」
モリンが言う。そして彼女は青い光を引っ込めたシュドが包帯をほどくのを見守り、その下の肌がまっさらで傷ひとつないのを見て目を剥いた。
「それも〈スキル〉ってやつか」
「うむ。治癒の〈スキル〉は秘密裏に使用しやすかったので、〈レベル3〉まで上昇している」
「……わかった。こっそり自傷して練習して上手くなったってことだな?」
「いかにも」
「ほんとお前、ちょっとおかしいよ」
「自傷? 伏し目、それはだめ」
思わずシュドの手を握りしめてしまって、イウは頬を真っ赤にして俯いた。それをモリンが何とも言えぬ生あたたかな表情見つめ、そして彼女は頭上へ目を向けるとため息をついた。
「……というか、そろそろ脱出方法を考えねえとな。落ちてきた穴は塞がれちまったし」
「え?」
「ああ、気づいてなかったか。お前、目ぇ回してたもんな」
籠頭が穴からこっちを覗いてさ、俺達が手の届かねえところにいるのを見て、お前の開けた穴を大岩転がして塞ぎやがった。そう話す声が少し遠い。
「まあ方法つっても、イウがもっかい穴開けるしかなさそうだけど……絶望で足元が崩れるような感じがすると、開くんだろ? 上にも開けられるもんかな」
「上にも……」
真っ黒な大地の底を見上げる。木の根は土ではなく岩の隙間から生えているようで、穴を掘って通り抜けるのは不可能に見える。
「……っと! おい、絶望すんな!」
ハッと意識を引き戻すと、モリンが片足を上げた奇妙な姿勢になって額に汗をかいていた。足元の根が少し削れ、ほろほろと虚空へ落ちていっている様子に唾を飲む。
「わたし、は……」
「根をつたって東へ向かうぞ」
と、シュドが言った。モリンは「今は探検してる場合じゃねえだろ」と相手にしない。
「この地図を見なさい。この根は丁度、この地点だ。真東へ三里ほど向かうと、〈イベントエリア〉への案内碑が発見された場所になる。見ての通り地図にない土地であり……おそらく、これは三ツ目も知らぬ知識だ。真上で見張っているであろう彼らから、完全に姿を隠すことができる」
癒えた片手で荷物から器用に地図とコンパスを取り出したシュドが、満足げに言った。モリンは「だから、わかる言葉で話せって」とぼやきつつ、難しい顔で思案している。確かに、あの三ツ目達ならばイウ達が再び果てを切り開いて地上に出てこないか、しばらく見張っている可能性は高い。
「古代のごく一定期間行き来が可能であった区域で、現在は霧に包まれ、入ることのできぬ失われた土地だ」
「失われた土地って……そんなとこ行って大丈夫なわけ?」
「君は、そういった土地をはじめに踏む人間になりたいのではなかったか?」
「……確かに」
イウがおろおろしている間に、何やら話が決まってしまった。急に瞳をキラキラ輝かせ、楽しげになったモリンが「行ってみようぜ、イウ!」と笑うので、思わずこくんと頷いてしまう。
三人は絡み合った根を慎重につたって、東へ東へと進み始めた。段々と根を掴む手に力が入らなくなってきた頃、シュドが「見なさい」と斜め上を指差す。少し朦朧としながら目で追う。
「……あれは」
「地図上にはない、隣の〈エリア〉だ」
「エリアとは……区域のこと?」
「いかにも。私の仮説通り、迷い霧の侵食は果てまで及ばぬらしい。視界は良好、コンパスも使用可能。これは素晴らしい発見だ、早速果辺の〈マップ〉を作成せねば」
鉛筆を取り出したシュドを尻目に、モリンは恐れるような顔でその光景を見上げていた。岩と土でできた堅牢な大地がまるで刃物で切られたようにスッパリと途切れ、そして少し隙間を開けて、また別の大地が始まっている。
「つまり、熟練の探索者も迷っちまう深い霧の向こうは……地面が途切れてて、だから『果辺』って呼ぶのか? 大地には端っこがあって、その先は果てだから」とモリン。
「君、意外に賢いな」とシュド。
そしてよく見れば、途切れているのは土や岩だけではない。地表近くのあれはどう見ても川だ。水の流れが一滴もこぼさずにぶつりと途切れ、空間を開けてまた始まるなんてこと、有り得るのだろうか? イウがそれを指摘すると、モリンも寒気がするように二の腕をさすった。
「お前が……神様の作りかけなんて信心を持ってるのも、ちょっとわかる気がする」
「創造神〈プログラマ〉を信じるのは、信仰心ではない」
手元の地図に集中しながら、何気ない口調でシュドが言うのにモリンとイウが首を傾げる。
「神を信じるのに、信仰ではない?」
「大地の創造者が記したとしか思えぬ碑文が、世界各地の遺跡に点在している。そこの〈イベントエリア〉への案内と思われる石碑には、このように記されている」
イベント「古代の呼び声」が始まりました
さあ、ゲートを通って新エリア「黒ノ遺跡」へ!
探索者達よ、古の黒怪の謎を解き明かせ!
「〈イベント〉、即ち祭事のために新しい『区域』や『遺跡』を創り出せる者がいるとしたら、それは神以外の何者でもなかろう」
「それにしちゃ、碑文の口調が軽くないか?」とモリン。
「探索者達へ語りかけている」とイウ。
「故に創造者めいた言葉を遺したその存在を、あくまでも便宜上、神と呼んでいるだけだ。銀花神教のような神聖への信仰とは一線を画する。がしかし、だとしても我々にできるのはあくまでも調査と推測のみ。人類が『真実の事実』を知るすべはないのだと考えれば、学問の追究もまた信仰のようなものであると考えることも」
「いや、わけわかんねえよ……てかシュドお前、地図描くのすげえ下手だな」
モリンの呆れた声を聞いて彼の手元を覗き込むと、地図には非常に……例えるなら、蝶の幼虫がのたくった跡のような、弱々しく歪んだ線が描かれていた。見上げた大地の稜線と比較する。
「……全然違う」
イウが呟くと、シュドはしばし絶句し、無言で鉛筆を手渡してきた。受け取って、コンパスと照らし合わせながら見たままの形を写し取る。
「計測の方はともかく、描くのはイウに任せた方がよさそうだな」
「……そのようだ」
見える範囲を描いてしまうと、道具を仕舞って隣の陸地へ移る準備を始める。地盤は厚く、隙間を縫って地上まで飛び上がるのは難しいとのことで、向こうの大地から垂れ下がった木の根へ縄を掛けて飛び移った。そしていよいよ、イウへ仕事が回ってくる。
「いけそうか?」
モリンが優しく尋ねる。本当は、彼女だって怖いだろうに。手持ちの水だって食料だって、いずれは尽きる。イウが道を切り拓かねば、餓死か落下かの二択しかない――否、その場合はどちらにしても餓死になるのか。
(未来への道を、切り拓く……わたしが?)
果たしてそんなことが可能なのかと、イウは自問自答した。希望を掴むために絶望する? 明るい未来を手に入れるため落胆する? どうやって?
「君が果てを開く時は、足元が崩れる様を想像するのだろう。頭上に道を作る想像はできないのか?」
「……想像?」
「想像」
当然のように頷くシュドを、ぽかんとして見返す。想像とはつまり、虹や花を脳裏に思い描くような、そういう想像のことだろうか。
強く想って、願って、果てを開く。そんなこと、考えたこともなかった。
「頭上に、道を……」
真っ黒な岩を見上げる。木の根から手の届く、あのあたりに穴が開いたら登りやすそうだ。黒くて深くて、けれど穴の向こうには森が見える。僅かな木漏れ日に花がきらめくような、美しい森。そんな穴のある現実を、強く願う――
「おっ!」
モリンが声を上げ、霧に包まれたようにぼんやりしていた思考が晴れてゆく。何度か瞬いて、想像通りの大きさの丸い穴がそこにあると気づいて、イウはそろそろと止めていた息を吐き出した。
「すげえよイウ! お前のおかげで助かるぞ!」
「わたし……モリンと、伏し目の、未来を拓けた?」
「ああ! 丁度真上に太い枝が見える。あそこに縄を掛けるぞ」
モリンがヒュンヒュンと鉤縄を回して放ると、遠くに見える大木の枝に巻きつくのが見えた。
「俺が先に見てくる。いいって言ったら登ってこい」
「……うん」
あっという間に地上まで登りきったモリンが、周囲を見回して「いいぞ!」と叫んだ。
縄を足で挟んで、体を引き上げ……と唱えながらどうにか穴を出ると、すぐに追ってきたシュドがイウを抱き上げてぐるぐる回し始めた。
「ふ、伏し目、なに」
「素晴らしい! 己の意志で、意図的に果てを開くとは! 君の力があれば、我々は世界中の果辺を調べ尽くせるぞ!」
ぎゅう、と抱きしめられて頭に頬擦りされているのがわかった瞬間、イウはかあっと頭のてっぺんまで血が昇るのを感じ、胸がこれ以上ないほど脈打ち、そして目の前が真っ暗になった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。