5 穿孔(イウ)

 花園集落を囲む森は一見、湿地付近の森と近い植生をしているように見えた。


 イウの身長の五倍はありそうな背の高い樹木が高い密度で立ち並び、頭上は分厚い梢に覆われている。けれど入ってみればずっと湿度が低く、足元には苔やキノコではなく、小さな花が揺れている。森の中は薄暗かったが、ところどころに明るい色の花が群生している場所があって、そういう場所がぼんやり光って見える。


 そんな景色に目を奪われながら走っていると、先を走るモリンが「足元見てないと危ねえぞ」と笑った。この可愛らしいモモンガと、新しい世界を探検する契約を交わしたのに、今のところ彼女を危険に晒すことしかできていない。シュドのように深い学殖を持つわけでもないイウは、これからどのように、彼女と対等になってゆけばよいのだろうか。


(対等だなんて、おこがましい)


 白く光る小さな花畑に集まる蝶を、目で追う。人類から土地を奪った黒怪でありながら、ひらひらと花から花へ渡り歩き、蜜を吸って、至極平和な生活を営んでいるように見えた。


(そしてわたしは黒怪よりも、世界にとって有害な存在だ)


 なのに二人は、ちっともそれを気にしていないようだ。それが嬉しくもあり、罪悪感もあり、そして自分の異常性をまだ深く理解できていない自分が、もどかしくもある。地面に穴を開けてしまうことがどうしてそこまで問題なのか、わからないまま繰り返し自分を責めている。


「……モリン、わたしは」

「しっ! 動くな。できるだけ息もしないで」


 モリンが突然囁いて、イウとシュド繁みの中へ引きずり込んだ。言われた通り息を止める。ずっと走っていたから、とても苦しい。


「早すぎる。別人か? いや」

「……ぐっ」

「息を殺せって意味だ。倒れるぞ」

「あ……うん」

「だから黙れって――くそ、やっぱあっちの方が耳がいいか」


 舌打ちして繁みを飛び出したモリンを追って、顔を出す。集落の方向から二人の三ツ目が走って来ているのが見えた。


「神官服にした意味、あんまなかったな」モリンが苦く呟く。

「いや、非常に興味深い意匠だ」とシュドが返す。

「……イウのへそが、とか言わねえだろうな」

「は?」

「わかんねえならいいよ――どうやって追ってきた? 吊り橋を落としたのはお前達だろう」


 モリンが鋭い声で呼びかける。三ツ目の背の高い方、頭領のイデンが立ち止まってそれに応えた。


「縄を切り、落ちる前に渡ったのだ」

「罠だったってわけか。神殿に手出ししてねえだろうな」

「我々は〈バグ〉消去の専門家であって、無差別殺人鬼ではない。花園のモリンよ、〈バグ〉を引き渡せ。そなたは騙されている。探索者としての未来を失いたくなくば、話を聞くことだ」


 笠越しに視線を向けられたイウが思わず身を引くと、モリンがちらっと振り返って微笑み、庇うように前へ出る。


「こいつが世界の綻びだって話だろ? 全部聞いてる。聞いた上で、こいつを守るって決めた」

「こちらへ付けば、長老の専属として探索の仕事を与えよう」

「お前、その言葉がどれだけ俺の夢と誇りを踏み躙ってるかわかってんのか? ふざけんのも大概にしろよ」

「交渉決裂のようだな」


 三ツ目達が刀に手を掛けたその瞬間、シュドが右手をサッと前に突き出した。手首に刻まれている入れ墨のような紋様の一部が青く光を放ち、その手を中心に凄まじい風が吹き荒れる。


「はあ!? おい、ふざけんな……ッ!」


 風合羽を広げていたモリンが、怒った顔で吹き飛ばされていった。ぐるぐる渦巻く旋風に乗って二回転ほどしたところで木にしがみつき、戻ってこようとするが、ユロという少年が彼女に踊りかかった。素早く抜いた短刀で攻撃をいなし、宙返りしながら距離を取る。鮮やかな軽業に彼女を一瞬見失ったユロは、チ、チ、チ、と舌打ちを響かせるなり、正確に枝の上のモリン目掛けて飛び上がった。モリンは反射的に隣の木へ飛び移り、一気にイウ達と距離が開いたのを見て焦った顔をする。


「……この〈スキル〉は適切でなかったな」


 シュドが言った。イウも頷く。ため息と共に腕の紋様が光り、今度は雷が飛び出した。枝分かれしながら四方へ走ってゆく稲妻を、イデンが身を捩って避ける。その両手が空いている、つまり一度は手を掛けた刀を抜いていないことに気づいたイウが首を捻った時、二人の目の前に滑り込んだイデンが、両の手を地面に向けてかざした。暗い森に青い光が散る。


「君も、スキルを」


 シュドが言う。困った声だ。青い光が空中にバチバチと散って、虚空から二振の刀が現れる。実体のない、光で作られたような刀だ。刃先まで現れたそれの柄を素早く握って、イデンがくすりと笑いを漏らした。再び放たれた雷撃を余裕をもって躱し、どこか陶然とした声で言う。


「ああ、やはり。重さも空気抵抗もない……見かけだけだと長老は仰ったが、己の腕と全く同じ速度で刀を振れるというのがどういうことか、戦わぬあの方はご存じないのだ……」


 ふいに抱き寄せられ、身を引いたシュドの長髪が一筋、はらりと宙を舞う。


「切れ味も一級だ。その反応速度で避けられたのは、実に運がいい」


 艶のある声でうっとりとイデンが囁く。二撃目、三撃目は見えなかった。が、大きな炎が噴き出して、青い光が少しだけ遠のく。モリンはユロに足止めされているようだ。火球をぶつけられそうになっても、イデンは余裕の声で笑っている。シュドはイウの前に出て、庇うのを止めようとしない。両手に持った光の刀を舞うように閃かせ、敵が飛び込んでくる。


(伏し目が殺されてしまう)


 そう思った刹那、深い寒気と耳鳴りが沸き起こった。イデンが息を呑んで体勢を崩す。とその瞬間、シュドがダンと片足で強く地面を踏んだ。そこから地面が白く……これは、凍結している。地中の水分がミシミシと結晶を育てながら凍ってゆき、イデンの足を拘束する。


「――果てを開いたな、〈バグ〉よ!」


 それまで幸福そうだったのが嘘のように低い声で、イデンが怒鳴った。青い光がふっと消え、その手には短刀。振りかぶって、投擲する。


(あっ……)


 己の心臓に向かって真っ直ぐ飛んでくる刃を、イウは呆然と見つめていた。モリンの叫び声が聞こえる。シュドが彼女の肩を掴んで――


「伏し目!!」


 喉からほとばしった悲鳴に、シュドがぽかんと口を開けて振り返った。彼の腕に深々と突き刺さった短刀。血に染まる白い神官服。頭が痛くなるような、強い、強い耳鳴りの音。


「嫌! いや! 伏し目……っ!」

「落ち着けイウ!」


 モリンの声。次いでなぜか「その調子だ」と言うシュド。しかし声に深い苦痛の色が混じる。足を取られる程度だった地面の亀裂が、もろもろと崩れるように広がってゆく。拘束されていたイデンが凍った地面ごと呑み込まれそうになり、ユロの投げた縄に掴まる。


「おいシュド、首突っ込んでないでイウを止めろ! 安心させてやれ!」


 見ると、腕の短刀を抜きもせずにシュドが地面の穴へ頭を突っ込んでいる。「ああ、素晴らしい」と声が聞こえてきた。と、顔を上げた彼は無事な方の片腕でイウの腰を抱いた。そして血に染まった手で、駆け寄ってきたモリンの腕を掴む。


「一度で決めろ、モリン」


 彼はそう言うと、「何を」と問うモリンの言葉も聞かず、少女二人を連れて果ての穴へ飛び込んだ。「まさか」とイデンが息を呑むのが聞こえ、すぐにその音が遠ざかる。視界が真っ暗に染まる。


「今だ!」


 シュドの声が聞こえて、イウは目を開けた。落下し続けているが、まだ死んでいない。モリンが「ふっざけんな!」と叫びながら何かを投げる。縄の先に鉤爪のようなものがついたそれが、ビュンと音を立てて飛んでゆき、頭上の地面から飛び出した太い木の根に絡みついた。縄がピンと張り、がくんと大きな衝撃と共に落下が止まる。回りながら激しく揺れて、イウはすぐに目を回した。


「イウ、先に登れ。シュドの腕じゃお前を抱えて上がれねえ」


 モリンが言う。イウはどちらが上かもよくわからないまま、頭の近くにある縄を握りしめた。口元に何か、これはマタタビの香りだ。押し当てられた香りで、少し眩暈がおさまってくる。


「脚で縄を挟め。脚で固定して、その隙に片手で少し上を掴む。体を引き上げて、また脚で固定する。腰が引けてると腕の負担が大きくなる。恐れず行け」

「モ、モリン」

「全員上がらねえと、シュドの止血ができねえ」


 その言葉を聞いた瞬間、自分でも不思議なほど、恐怖と不安が消え去った。ぐっと縄を掴んで、体を引き上げる。縄をしっかり脚で挟む。少し上を掴む。


「そうだ、上手いぞ」


 息を止めて、必死に登る。登る。登る。木質化した丈夫な木の根に手が届く。網のように絡み合ったそれを登って、隙間から内部へ入る。座っても落ちない木の根の網は、どうやら三人入れそうだった。


「よくやった」


 モリンの声がして振り返ると、既に二人とも網の中に入ってきていた。モリンが応急処置を始めるのを涙を堪えながら見つめ、そして、なぜ果ての中で明かりもなく周囲が見えているのだろうと、疑問に思う。


「岩盤の薄い箇所に当たったようだ。素晴らしい……見なさい、この美しい果ての空を」

「果ての、空」


 シュドの声に促され、おそるおそる見下ろす。何やら下の方が光っているようだとは思っていたが、想像とあまりに違う光景に、イウは言葉を失った。

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