4 蝶(モリン)
「はあ? ……何言ってんだよ」
モリンは振り返らないまま、うわずった声で笑い混じりに問い返した。嘲るような声が出たが、イウはもう一度、きゅっと優しい力でモリンの手を握っただけだった。
「わたしのために……二人の命を、危険に」
「黙れって! それはお前のせいじゃないだろ?」
声を荒らげると、イウは口元を不安そうに引き結び、しかし毅然と言った。
「わたしが追われるのがわたしのせいでなくとも、わたしを差し出せばあなたの身が脅かされないのも事実。モリンならばきっと、二十歳になればすぐに専属の指名がもらえる。あなたがわたしを助けることに、何の利益もない。それだけの利益を、わたしは返せない。報酬となる金銭も持たない」
「……それでも、もうお前が殺されるのを見過ごせねえよ」
「見過ごしても、それは悪ではない。わたしは〈バグ〉なのだから」
「あのな、イウ――」
「おい、涙目を励ますな。放置しておけば穴が開くかもしれない」
全く緊張感のない声で、シュドが口を挟んだ。二人が黙ったのを見るや「早く、笠を」と急かしてくる。
「お前……ほんとに空気読めねえのな」
「君は我々二人の専属なのだから、涙目だけでなく私の実験にも協力する必要があると思わないかね?」
「その実験内容が、イウをいじめることじゃなけりゃな」
「わたしが絶望すると、伏し目の実験が捗る……」
イウが俯く。何か言いたげに口を開いて、閉じて、そして顔を上げた。
「伏し目、わたしを絶望させてほしい。せめてあなたの役に立つのなら……伏し目とモリンの契約に貢献できるのならば、わたしは嬉しい」
「任せておけ」
「おいやめろ」
肘で小突いたが、シュドは壁際の棚から防蝶笠を引っ張り出すのに夢中で、大して反応しなかった。その不可解な思考回路に今は少しだけ助けられた、と思いながら、モリンも棚に手を伸ばす。
「この笠からさ、紗が垂れてるだろ? これが垂れ幕みたく蝶を遮るから刺されねえし、薄いから周りも見える。いくつか被ってみろ。くるぶしまで垂れる長さのやつがいい……シュドはちょっと膝曲げて歩け」
「ふむ」
幅の広い防蝶笠を被って、頭が重くなったイウがよろよろしている。モリンが「紗が体に触れないようにしろよ。そこから刺されるぞ」と忠告すると、びくりとして両手で笠を支え、どうにか真っ直ぐ歩き始めた。裏口から花園に出て、蝶の集まる木へ向かう。大木の幹に蝶の群れがびっしりとまっているのを、少し離れて見上げた。
「ほら、上の方にでかい穴がいくつもあるだろ? ウロノキっていう種類で、ああして蝶と共生して……って、イウは知ってるかな」
「星空のよう……とても、神秘的」
「え? ああ、まあ、確かに」
黒怪の一種である蝶は、その例に漏れず黒い羽を持つが、威嚇のためか大きな金の目玉模様がついている。数百頭が羽を広げて木に張り付いている光景は、確かに星空を描いた絵画のようにも見えた。
「洞の中に、蜜を貯めているの?」
「おう。時々巣ごと取り出して、蜜を回収する。その時に新しい洞へ群れを移動させるのは、神官の大事な仕事のひとつだな。歌で自在に群れを誘導できるようになって初めて一人前になれる」
「
「そうそう。蝶は銀花の遣いだから、他の黒怪と違って歌なの。俺もちょっとだけできるぜ」
モリンが「来ませ」と歌うと、何頭かの蝶がヒラヒラと飛んできて、紗の隙間から出した指先にとまった。イウがうっすら唇を開いてそれに見入り、そして胸の前で手をそわそわさせ、小さな小さな声で「来ませ」と歌う。彼女の囁きでない声を初めて聞いた、と思っていると、その時モリンに集まっていた蝶達が一斉に飛び立ち、イウの笠で羽を休め始めた。
「お前……才能あるぞそれ」
「羽の裏にも少しだけ金の模様がある」
夢中な様子のイウに笑顔を浮かべ、意外にも音階を教えろと言ってこないシュドを見る。離れたところで退屈そうにしている彼は、もっと巣を見なくていいのかと問うモリンに「想定より数が多い」と意味のわからない言葉を返した。
「もしかして怖いのか? ちゃんと笠被ってたら刺されねえよ。解毒薬もあるし」
「毒の問題ではない」
「じゃあ何だよ」
シュドは返事をせず、鮮やかな花園に沈黙が広がった。編者達は口数が多い方ではないので、それはよくあることだったが、今は無性に気まずく感じる。
「……聞かなかったことにする、とか言ってたけどさ。きっと時間稼ぎしてくれると思う」
「うん」
イウが頷いて、紗の間から腕を出し、モリンの手を握った。蝶達はすっかり懐いたのか、ひらひらと舞うばかりで警戒した様子はない。
「お前、本当に才能あるよ」
「モリン」
「……このまま、ここを出てもいい? 三ツ目達も神域で血は流さない、はず、なんだけど。近づいてきたかもって思ったら、急に怖くなった。やっぱ、巻き込みたくない」
「モリン、すぐに行こう」
やわらかな囁きにモリンが顔を上げると、衣装を変えて露わになったイウの口元には笑みが浮かんでいた。
「……ごめん。こういう言い方したらお前は絶対そう言ってくれるって、俺、わかってたのに」
「モリンは選択肢を与えてくれた。わたしが選んだ」
「イウ……シュドも、いいのか」
「涙目に与えるのは、あくまでも適度な絶望が望ましい。己が原因で君の家族を死なせるようなことがあれば、〈オブジェクト〉破壊が止まらず、世界の崩壊に繋がる可能性がある。深い傷は与えぬように、君も注意しなさい」
「ありがと、でいいのかな……」
荷物を取りに三人が神殿へ戻ると、中は騒然としていた。あっという間に本殿へ連れてゆかれると、蜘蛛糸で作った紐の両端に銀色の錘がついた武器で皆が武装している。
「ちょっと、みんな、なんで……」
「吊り橋が落とされての。綱が鋭利な刃物で切断されとった。切られたのは向こう岸側じゃから、敵は待ち伏せしているつもりでおるのじゃろう。もうしばらく時間はあるがの、念のためじゃ」
「念のため、って感じじゃないけど、じいちゃん……」
にこにこしている老大神官は、身軽な装束に着替え、両腕に例の紐を巻き付け、腰帯から投擲用の針を無数にぶら下げていた。
「なあに、三ツ目の若造程度に負けはせんよ」
「なあ、聞かなかったことにするんじゃなかったのかよ」
「最近物忘れがひどくての」
「みんなまで、なんで神官のくせに全員戦う気満々なんだか……。でも俺達、もう発つから」
モリンの宣言に、慌ただしく廊下を行き来していた神官達が全員ぴたりと立ち止まり、神殿内は静まり返った。
「え、どうして」
銀葉がぽつりと言う。全員がうんうんと頷いた。モリンは少し涙が出そうな気持ちになりながら、深呼吸で喉の力を抜き、いつも通りの明るい声で言った。
「自分の依頼に家族巻き込むなんて、だせえじゃん。俺はこいつらの専属にしてもらう代わりに、護衛と道案内をする契約結んでんの。だから本格的に迷惑かける前に出るよ」
「これ、編者様を『こいつ』と言うでない」
大神官が叱りつけ、モリンは首を竦めて「はいはい」と言った。
「つーわけで、それが俺の誇りだから。ごめんな?」
「……命懸けの親孝行なんぞせんでいい、モリン」
寂しそうな声に、決意が揺らぎそうになる。けれど――
「絶対死なねえし、死なせねえから。信じてくれよ」
イウの手をぎゅっと握りしめ、モリンは笑ってそう言った。
最初に動いたのは銀葉だった。
「強くなったね、モリン」
そう言って、重い荷物を彼女に手渡す。受け取ろうとしたところで、それを白い腕が横からかっ攫った。
「〈アクロバット〉は身軽であるべきなのだろう」
淡々と言うシュドを見上げ、モリンと手を繋いでいるイウを見つめて、長老が「よい友人を持ったの」と言った。
「信じよう、モリン、涙目様、伏し目様。誰一人として、欠けるでないぞ」
「おう!」
モリンが拳で胸を叩き、イウが無言で頷き、シュドは反応しなかった。三人が花園を抜けて奪われた地の森へ入るまで、皆が笑顔で手を振って見送った。
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