2 俺(モリン)
突然の「私のもの」発言で目を回したイウだったが、元気そうに見えてどうやらかなり旅の疲れもたまっていたらしい。幸いすぐに目を覚ましたものの、起き上がるやいなや、パタンと枕に倒れ込んでしまった。モリンは瞳面の下に手を差し入れ、彼女の額を触って苦笑した。
「あー、こりゃ熱があるな。水枕持ってきてやるから、そこで寝てろ」
「ここは」
「俺の部屋」
「モリンの……」
「おう。医務室に行ってくるから、ちょっと待ってな」
「……待って、モリン」
「ん?」
熱い手に腕を掴まれて、モリンは寝台のかたわらに屈み直した。
「どした?」
「モリンは……傷ついていない?」
「は? 何に」
「大神官殿が……わたしを」
「あー。傷ついたっつうか、マジでがっかりだよな。イウと会って話せばわかってくれると思ってたんだけど……むしろごめんな? 大人ってのはなんでこうも目が曇ってるのか」
「わたしは問題ない……モリンは」
「大丈夫だよ。歓待するって言質も取ったしな」
正直に言えば少しショックではあったが、心配されるようなことでもないのは本当だ。笑ってみせればイウがようやく腕を離したので、するりと廊下へ出る。数歩歩いて気配に振り返ると、なぜか後ろにシュドがついてきていた。
「いや、お前はイウについててやれよ」
そう言ったが、彼はどうやら中庭を観察するのに忙しいらしく、返事をしなかった。
「ったく……ちゃんとついて来いよ?」
天井に届きそうなほど背の高い、頭から足先まで全く肌の露出がない面妖な装束の男を、すれ違う神官達が息を呑んで見つめ、ハッと我に返ると廊下の端に寄って頭を下げる。そんな彼らの態度には、礼節というより畏れを感じる。
(イウもシュドも、俺がいないと全然ダメなのにな!)
むずむずと優越感が湧いてきて、モリンは得意満面で灰色のローブを着た背を叩いた。気安い仕草に神官達があわあわするのを見て、ますます気分がいい。
「おいシュド、ついでに食事も頼んでこようぜ! さっきの鹿を捌いてくれてるはずだ」
「あの花は何だ、いま羽虫を食したぞ!」
「聞けよ」
「これが食虫植物か……なぜ蝶の里にこんなものが。何という名だ?」
だがこっちの編者はイウと違って、やはり友情とか好意とか、そういうものとは無縁な反応しか返さなかった。うんざりしながら庭の方を見る。
「
「私は涙目とは違う。専門外の知識にはあまり手を出さない」
「専門って?」
「表向きには〈スキル〉の研究。個人的には果ての研究。今は涙目の研究」
「……なあ、お前にとってイウって本当に研究対象でしかないのか? こうやって一緒に旅してさ、段々とそれ以上の存在になってきたり……しねえの?」
おかしな奴ではあるが、この青年にもそれなりに情が移った分、無機質な「研究」の響きを少し寂しく思ってモリンはそう問いかけた。するとシュドは少し間を置いて、ぽつりと言った。
「果てを開く〈バグ〉以外にも、彼女には研究すべき特質があると?」
「そういうことを言ってるんじゃねえよ」
「ならば『それ以上』とは何だ。具体例を示せ」
「……因みにお前にとって、俺ってどういう存在なわけ?」
「は?」
(ダメだ。やっぱりこいつに人の心なんてなかった)
ため息をついて眉間の皺を伸ばしていると、くすくす笑う声が聞こえてモリンは顔を上げた。厨房の入り口に、甘い香りのする盆を持った神官が立っている。
「モリン、おかえり」
「兄さん! ただいま」
駆け寄る少女の頭を撫でてやわらかく微笑む青年は、神官長の
「今、部屋へ行こうとしていたところだよ。モリンの好きな草林檎茶だ」
「それより、水枕くれないか? イウが熱出した」
「おやおや、それは大変だ」
茶器の盆をさっとモリンに押しつけて踵を返した銀葉は、隣の医務室の戸棚から白い袋を取り出し、銀の蓋を外すと厨房で手早く水を注ぎ入れた。そして笑顔で振り返り、すぐ後ろに立っていたシュドを見て飛び上がる。
「うわっ!」
「この素材は何だ」
モリンはもう慣れたものだが、温度のない声で低く問われた神官長は笑みをこわばらせた。
「く、蜘蛛織の布です……いつの間にそこに」
「蜘蛛織」
「ええ、蜘蛛織……一番細い蜘蛛糸で目を詰めて織ると、水を弾くんですよ。花から紡ぎ出したみたいで綺麗でしょう」
「ふむ」
透き通るように白い水袋の表面を撫でて、シュドは「これは私が預かろう」と言った。親切心かと一瞬思ったが、むにゅむにゅと揉んだり光にかざしたりしているのでたぶん違うだろう。
「そうだ兄さん、食事も頼みたいんだけど」
「もうすぐできるところだよ。鹿御膳でいいよね?」
「うん。でもイウには粥がいいかも。あと部屋で食べたい」
「わかった。後で持って行くから、モリンはお茶を持って先に戻っておいで」
「ありがと!」
兄に満面の笑みを向け、廊下を戻りながらモリンは爽やかな草林檎の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。久しぶりの、大好きな香りだ。
「聞いたか? 俺まで客人用の御膳を食っていいみたいだ。やったぜ」
「継ぎ目がないが、糸から直接袋状に編むのか?」
「は? 知らねえよ、ンなこと」
「光を透かすが、不透明。しかし光沢には瑞々しい透明感が感じられる。確かに花弁に似ているな」
「ああ、うん……そうだな?」
自室の引き戸を開けながらなおざりに同意しておいたが、シュドはその返事すら聞いていない様子だ。そんな二人に、枕から頭を起こしたイウが優しく囁いた。
「モリン、伏し目……おかえりなさい」
「ただいま、イウ。具合はどうだ?」
(うん、挨拶ができるって大事なことなんだな……)
「少し、体が重いけれど――」
「涙目よ。見なさい、この水枕を。実に興味深い素材だとは思わないかね」
「……とても綺麗。そこの窓辺の、木蓮の花弁によく似ている」
「蜘蛛糸を編んだものらしい」
「蜘蛛織は、花園の特産物。モリンはこういう美しいものに触れて育ったから、とても心が綺麗なのかもしれない」
「食欲はどうだ? 粥を作ってもらってるから、少しでも食べろ。でないと薬が飲めねえ」
「……少しなら、食べられる」
「その調子だ」
引っ込み思案で口数が少ないように見えて、三人の会話のバランスを取っているのは案外イウなのかもしれない。運ばれてきた食事を見て「モリンの好きなものはある?」と尋ねた彼女を眺めて、モリンは少し考えを改めた。
「鹿も好きだけど、さっき飲んだ草林檎茶の方が好物だな」
「あれは、わたしも好きだった」
「そっか」
寝台脇の机に盆を乗せ、小さい土鍋の蓋を取ると、ふわりといい匂いの湯気が鼻をくすぐった。よく炊いた川魚に、出汁とほんの少しの胡椒、それから刻んだ桜の葉の甘くて上品な香り。
「……俺も一口食べていい?」
口の中に湧いた涎を飲み込みながら訊くと、イウはゆったり頷いて「モリンの鹿も、分けて。モリンの好きな味を、わたしも知りたい」と言った。
「もちろん」
熱々の粥をたっぷり掬った匙に、イウがふう、ふう……と息を吹きかける。面がふわふわとそよいでいるだけで、湯気は揺らぎもしていない。
「……口を開けて」
「えっ、あっ……おう」
普段のモリンなら「あーん」なんて舐めた真似はやめろと怒るところだったが、イウが相手だとなぜか甘ったるくてくすぐったい。炊き立てを口に押し込まれ、はふ、と湯気の塊を吐き出して笑う。
「……俺さ、自分のこと『俺』って言うだろ? 今でこそみんな諦めてるけど、昔はじいちゃん達に叱られてさ」
お返しに鹿肉の煮物を口に入れてやりながら、モリンは言った。
「うん」
「だってさ、『俺』の方が強そうじゃん。俺、みんなに強く見られたかった。舐められたくなかったんだ。誰よりも強い探索者になれば、一秒でも早く夢が叶うかもって、そう思ってた」
「……モリンは、強い」
「だろ? 俺も努力して強くなった俺が好きだし、もうしっくりきちまってるから、今更ワタシなんて言わねえけどさ。お前とはじめから友達だったら、もう少し女らしくなってたかもなって、ちょっと思うよ」
「それは、わたしの専属になれるから?」
「いや、そうじゃなくて……説明が難しいな」
「わたしが、モリンを決して侮らないから?」
「そっちの方が近い」
結局互いの食事を半分ずつ分け合って、薬学にも明るい銀葉が添えてくれていた解熱剤を飲ませ、その日は早めに休むことにした。イウはモリンの部屋でそのまま寝かせ、窓に幕を下ろしてモリンとシュドは客間へ移動しようかとなった時、食事中ずっと無言だったシュドが寝台のかたわらにしゃがみ込んだ。手を伸ばしイウの面の隙間に指を差し入れ、首筋にそっと触れる。
「……よく眠りなさい、涙目」
「伏し目?」
「まだ熱が高い……体調には気を配るように。君は私の生きがいなのだから」
「ふ、ふしめ……」
「また体温が上がった。早く休め」
(振り回されて、かわいそうにな……)
シュドのこれが愛ゆえの言動ならばモリンとて応援もするのだが、どう考えても「私の大事な研究対象だ」という意味の発言としか思えないので、再び気絶した彼女がただただ気の毒だ。
「おい、あんまり軽率にたぶらかしてっとバチが当たるぞ。銀花神さまは豊穣と縁結びの神なんだ」
「たぶらかす? 誰を」
返答の声音からして、全く通じていないようだ。
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