第三章 銀花神殿

1 花園(イウ)

 瞳の奥が痛くなるような鮮やかさだ。けれど目を細めるどころか瞬きの間すらも惜しい。赤が、黄色が、眩しいほどの白が、金色の朝日を浴びて艶々と輝いている。どんな高価な絵の具とも染め物とも違う、それそのものが生きている色彩。イウは瞳面の下でそっと涙を拭った。そのくらい花園は美しかった。


「どの色がいい?」


 と、モリンが尋ねた。神殿への道を急いでいた足を止め、花のほうへ屈む。


「……摘まないで」

「じゃあ、こっちの野薔薇にしとく。これはちょっと剪定した方が木のためにいいんだ」


 そう言って白い花をたくさん咲かせている灌木に歩み寄り、一輪摘んでくれる彼女は、イウの言いたいことを正確に受け取ってくれたようだ。


「ありがとう……」

「神殿の庭にも色々咲いてるから、楽しみにしとけ」

「……うん」


 素敵な人だな、と思う。編者の中には、探索者をならず者のように見る人間も多くいたが、少なくともモリンは、危険を冒してイウ達を助けてくれる優しく勇敢な人で、大きな夢を命懸けで抱いている魅力的な人だった。そして淡く金に光る小麦の肌に意志の強い橙の瞳、炎のようにきらめき波打つ赤毛を持った美しい少女でもある。


 花畑の周囲を回り込むように、森の端の木々に身を隠しながら坂を登ってゆくと、立派な神殿の門が見えてきた。銀白の木材を組んで作られた、独特の形式。銀桜の木立。銀花神を祀る神域だ。蝶達が蜜を集める花園は多種多様色とりどりの花が植えられているが、神域の中は白い花だけで整えられている。銀桜の花びらが、雪のようにはらはらと宙を舞う。


「この花吹雪は……一体どこから」


 空を見上げてきょろきょろしながらシュドが言った。


「そこの桜だろ」とモリン。

「よく見なさい。真上から降っているだろう。中天に突如出現しているとしか思えぬ軌道だ。不自然だとは思わぬか」

「はあ? ……言われてみれば桜の木より上から降ってるように見えるけど、そんなもんじゃねえの? 雨だって雪だってそうやって降ってくるだろ」

「雨や雪は雲から降るだろう」

「ここの上空にも雲あるけど」

「雲から花が降るのはおかしいだろう」

「じゃあ、花に見えるだけで雪なんじゃねえの? 地面に落ちてしばらくしたら消えるし」

「消える……?」


 困惑した様子のシュドと、そんな彼を見て困惑しているらしいモリン。イウは二人をじっと見つめ、袖から手を出すと舞い落ちる花弁を一枚手のひらに受けた。指先でつついてみる。確かに花びらだ。しかし放っておくと、空気に溶けるように淡く薄くなって消えてしまう。


 このように、よくよく考えるとおかしな現象が、このイレアの地の各所で見られることはイウも知っていた。けれどそういう矛盾は「神の領域」であるとして、ごく一部の優秀な編者にしか研究することを許されていない。神の名が〈プログラマ〉であることだって初めて聞いたのだ。


 その「ごく一部」の一人であるシュドでも、やはり実際に目にしなければわからないことはある。モリンがそうだったように、生まれた時から見慣れている光景の中に不自然さを見出すことは難しく、故にこの花びらが桜の枝からではなく空から降っているのだと、今まで誰一人として報告しなかったのだろう。情報が得られなければ、塔に籠りきりの編者は無力だ。


 花弁の軌跡を辿り、雲間から柱のように朝日が差し込む空を眺めていると、不意にモリンが「あっ! ただいま、じいちゃん!」と声を上げた。見れば神殿の前に、白い神官服を纏った老人が立っている。


「モリン、お客人かね?」


 白い紗のような布で鼻から上が隠されている。けれど、優しそうな口元だ。


「うん。ちょっと事情があって、匿ってほしい」

「……こちらへ」


 老人はイウとシュドの瞳面をしばし見つめ、スッと踵を返すと、先立って神域の奥へ歩き始めた。モリンが気安い調子で「あっちに神官達の住まいがあるんだ」と笑う。見れば確かに、壮麗な本殿の裏に簡素な木造の平家がある。


「ほらこっち、俺の部屋があるから。銀桜茶を飲ましてやるよ、湯を注ぐと蕾が開くんだ。お前、そういうの好きだろ?」

「モリンは、ここに住んでいるの?」

「おう! 俺、親居ねえからさ、ここのじいちゃん達に育てられたんだ――あ、鹿貸してくれ。厨房に預けてく」

「待ちなさいモリン。まずは応接間へご案内を」

「え? いいよ別に、こいつらはダチだし」

「これ、口を慎まんか……!」


 老人が低い声でモリンを叱りつけた。優しげだった様子が一転して、底知れぬ威厳に満ちている。イウは縮み上がったが、モリンは「大袈裟だな」と肩を竦めた。強い。


「どうか、お気遣いなきよう……」


 そう言ってみたが、やはりモリン以外には聞こえていないようだ。「ほら、イウも気にすんなって言ってるじゃん」と言って、「塔のお方を呼び捨てにするな」と言われている。


「いいじゃんね、イウ?」

「……うん」


 しっかり首を縦に振ると、老人は「いやしかし」とか「恐れ多い」とか、途切れ途切れに色々と言って、結局は納得したのか口を閉じた。けれど、案内された部屋は広い空間にポツンと座卓と座椅子が置いてあるだけだったので、モリンの部屋を見せてもらうのはお預けになったようだ。


「茶を淹れましょう」

「銀桜茶か?」


 シュドが老人に尋ねた。モリンの話なんて聞いていないような顔をしていたが、実は気になっていたらしい。老人が「ええ、とっておきをお出ししますとも」と微笑むと、シュドは「淹れてみたいのだが」と注文をつける。


「は? いえ、とんでもない……私がお淹れしますから、それをご覧くだされば」

「あー、やらしてやってよ。こいつはさ、自分で色々やってみるのが好きなんだ」

「これ! こいつとは何じゃ!」

「だからいいんだって。二人とも気にしてねえし」

「そういう問題では」

「言い回しなど、どうでもよい。それより銀桜茶を」

「どんだけ茶が気になってんだよ」

「これ!」


 そのように目まぐるしいやりとりを経て、透き通った急須の中に無数の白い花が咲く美しい茶をシュドと交互に淹れさせてもらうと、モリンはどうやら大神官であったらしい育て親へ、三人の状況を語り始めた。大神官のやわらかな笑みが徐々に硬くなり、唇が真一文字になり、そして彼はイウの方を向く。


「追われる身のこのお方を、モリン、お主は匿うと」

「うん。それで、着替えと食料が欲しいんだ」

「ふむ……」


 視線が遮られているにも関わらず射抜くような気配に、イウは居心地悪くなって俯いた。すると、花の香りがする湯呑みを置いたシュドがイウの肩に腕を回し、ぐいと胸に抱き寄せる。イウは頭が真っ白になった。


 凍りつくような低い声が言う。


「我らを塔へ突き出すか否かで逡巡しているならば、やめておくことだ。私とて、対抗する手段がないわけではない。涙目は私のものだ、誰にも譲らぬ」

「ふ、ふしめ……恥ずかしい、伏し目」

「おやおや……」


 大神官の口がぽかんと開く。イウの頭の中には「涙目は私のもの」という言葉が繰り返し流れていて、他は何も考えられない。顔が熱い。


「……聞かなかったことに、いたしましょう」


 数拍置いて、大神官が言った。


「え?」モリンのぽかんとした声。

「この歳になりますと、〈バグ〉のひとつやふたつ、目にしたこともありましての。塔のご意向も……これは年寄りのよくないところじゃが、理解できてしまうのですよ。故に我らはあくまでも涙目様を、見聞の旅で立ち寄られた編者様として、歓待いたしましょう」

「……そんな」

「それでよい」


 モリンが何か言おうとしたのを、シュドが遮った。大切な話をしているようだったが、イウは強い動悸と緊張に振り回されている最中で、そのことについて深くは考えられなかった。まだ抱き寄せられている。憧れの人の胸元に肩がくっついている。少し眩暈がしてきた。何か皆が話しているのは聞こえるのに、意味が頭に入ってこない。


「でも、じいちゃん」

「モリン、聞き分けておくれ」

「……わかった。納得できねえけど、それで我慢する――つうかイウ、大丈夫か?」

「どうなされた?」

「いや、なんか様子が……もしかして、気絶してね?」


 気絶はしていない、と言おうとしたところでイウの記憶は途切れている。

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