4 鹿(モリン)

「そこに見えているのは集落へ繋がる道だろう。そのようなところに?」

「黒怪達が跋扈していて人が住めないから『奪われた地』なんだ。道だろうがなんだろうが関係ねえ。どこの区域でも、素人が護衛なしで歩けるのは集落の中だけだと思っとけ」

「ふむ……花園集落には蝶がいるのではなかったか」

「あそこの蝶はいるんじゃなくて飼ってんだよ。主導権は人間側にある」

「面白いことを言う。猛毒の蝶が乱舞する集落を『奪還に成功した』土地と称するか。ならば『奪われた地』の定義とは黒怪が生息することではなく、共存が」

「ちょっと黙ってろ、お前」


 甘い匂いが濃くなってきた。軽い、ゆったりとした足音。草食でありながらこれほど人に近づき、そして警戒する様子もないのは、そうする必要がないからだ。

 話の腰を折られて不満そうだったシュドが、首を振って生欠伸をした。ふらふらと木の方へ歩み寄り、幹に手をついて片膝をつく。


「酔ったなら座ってろ。大丈夫だ、草食の黒怪は近寄らなきゃ襲ってこねえ」


 そう言って、モリンは舌なめずりをしながら光毒の短刀を抜いた。木々の合間から、真っ黒な毛並みをした鹿ロクが現れる。立派な角にいくつも咲き誇る大きな花。透けるような金の花弁。甘い甘い花の香。この香りに泥酔するまでの一分間が勝負だ。


 枝の上まで飛び上がり、息を止めて、飛ぶ。滑空してくる影を見て、鹿が大きく角を振る。むせ返るような香りが拡散し、くらりと視界が回る。けれど平衡感覚の鍛え上げられたモモンガを、その程度で墜落させることはできない。


 突き出された角を見事な布捌きで紙一重に躱し、舞うように宙で身を翻して鹿の背に跨ると、躊躇わずその首に短刀を深々と刺した。


 鹿は悲鳴を上げて地面に倒れ、もがく。

 転がりながらすぐに距離を取る。


 この程度の大きさならば、刃に塗られた分だけで十分に致死量だ。後は毒が効くまで踏み潰されないようにすればいい。それまで休んでいていいかな、いや、鹿が絶命し、花が閉じるまで意識を保たねばならない。でないとイウとシュドが、それにしても、見たことのないくらい大きな花だ。これはいい薬になる。角も上質な工芸品になる。顔がだらしなく緩む。視界がぐるぐる回る、回る、回る――


 ハッと、急激に覚醒した。目の前に死んだ鹿。しゃべろうとして、口元に何か押し当てられていることに気づく。


「……イウ?」

「……し、ぉく……た?」

「え?」


 鼻と口を袖でしっかり覆ったまま囁いているので、ほとんど聞こえない。モリンが目をパチパチさせると、イウは少しだけ袖を離して言った。


「少し、よくなった?」

「え、ああ……うん」


 頷くと、イウも真似をするように小さく頷き返した。

「ヒメマタタビの葉の香りで、鹿花ろっかの毒を中和できる」

「……知らなかった。確かに、マタタビの匂いだ」


 鼻の下に張り付いた葉っぱをつまみ上げる。その辺によくある蔓性の雑草だ。

「これは、最近明らかになったこと……やわらかな香りだから、今まであまり、覚醒目的で使われることがなかった」

「へえ」

「鹿を好んで捕食するビョウは、とても、この葉に懐く」

「……懐く?」

「ゴロゴロという音を出しながら、繰り返し頭をこすりつける」

「ああ、うん」


 それを「懐く」と表現するのはどうかと思うが、その場面ならばモリンも見たことがある。というか、調教師が猫を捕らえる時によく使う蔓草だ。手懐けたところで、大して命令は聞かないらしいが。


 倒した鹿の角から花を摘み取って密封するところまでは興味津々で見ていたイウだが、頭が下になるよう木に吊るし、残った血を抜き始めるとふらふらとシュドが休んでいる方へ逃げていった。


「こうしとくと肉が美味くなるんだ。集落が近いから、解体は移動してからな」

「黒怪の血は……ほ、本当に、黒い。肉も」

「綺麗に血抜きすると、肉は白くなるぜ。臭みの問題もあるが、血が残ってるとどす黒くなってマズそうに見える」

「人の血は赤いのに、なぜ……」

「さあ、それは編者様の方が詳しいんじゃねえの?」

「血液に、黒い色素が含まれている……」

「知ってんじゃん」

「その理由は、不明なまま」


 ボソボソと話しているうちに毛皮もある程度綺麗にできたので、四本の脚を一括りにして、縄の端を輪にする。まだマタタビを吸いながら座り込んでいるシュドのところへ担いでいって、ドサリと目の前に降ろした。


「はい、集落まで持ってって」

「……私が?」

「男だろ。モモンガはできるだけ荷物を軽くしとくのが鉄則なんだ」


 ノロノロと立ち上がったシュドが縄を肩に掛けて鹿を持ち上げる。イウを軽々と抱えて走っていたのもそうだが、意外と力はあるらしい。布の多い重くて動きにくい服を着ているにもかかわらず、そういえばイウも初めての旅にそこまで疲れた様子を見せていない。背丈もそうだが、やはりモリン達とは少し違う種族なのだろう。血は同じように赤いらしいが。


「……なあ、目って、ふたつあるよな?」

「あるな」


 吊り下げた鹿の顔を見ながらシュドが頷く。「それが何だ」と尋ねられ、モリンは弱々しく首を振った。


「そうじゃなくて……お前らの、面の下の顔。目って、ふたつある?」

「ある」

「そっか……よかった」


 胸を撫で下ろしていると、彼女の様子から何か思いついたらしいシュドがすかさずイウに近寄って「三ツ目の笠の中は、本当に三ツ目やもしれぬぞ」と言った。そしてイウが「本当に?」と興味深そうに見上げてくるのを見て、肩を落とす。


「はぁ……行くぞ」

「お前……」


 小道に出て少し歩くと、すぐに谷へ着いた。華奢な吊り橋が風で揺れているのを見て、イウが胸の前でキュッと手を握り合わせる。不安な時の癖らしい。


「大丈夫だ。手、繋いどいてやるから。万が一、橋が落ちてもゆっくり舞い降りられる」

「……うん」


 子供のように頷くイウに笑いながら手を取り、モリンは素早く周囲に目を走らせた。籠頭の気配はないが、三人が塔から近く、モリンの故郷でもある花園集落へ向かうことは予測されているだろう。無防備になる吊り橋の上を狙ってくる可能性は、十分にあるのだ。


「一気に渡って、神殿に駆け込む。流石にあいつらも、神域で流血沙汰は避けるだろ」

「わかった」


 シュドが頷いて、橋板に足を乗せる。ゆら、と揺れる足場に一瞬躊躇したものの、三人は橋を渡り始めた。片手でモリンの手を、もう片手で手摺りを掴んだイウは、はじめはそろそろと慎重に歩みを進めていたが、真ん中まで来たところで足が竦んだのか立ち止まってしまう。


「大丈夫だ、俺がいるから」


 返事がない。シュドも不思議そうに立ち止まり、そしてすぐにドンと橋板を強く踏んだ。大きく揺れて、慌ててイウの肩を抱いてやる。


「おい、いじめんな! こんなとこに穴あけたら死ぬぞ!」

「ゆっくり舞い降りられるのではなかったか」

「だからって、やっていいことにはならねえだろ! ……イウ、大丈夫だからな?」

「モリン……あれが、花畑?」

「あ?」


 白い指が差す先を見れば、確かに遠く谷の向こうに、色とりどりの花畑が見えた。それから崖の上に建つ神殿の六重屋根に、青い森、谷底を流れる川。遥か上空を飛んでゆく鳥の影。


「こんなに……美しい情景を見たのは、初めて」

「あ、もしかして感動してたの?」

「ずっと、ずっと見ていたい……」

「おう、また今度な」


 歩みの遅い彼女が景色を堪能していただけだと知って、モリンは繋いだ手を引っ張ってぐいぐい歩き始めた。イウが「ま、待って……もう少し」と切ない声を上げ、シュドが「高所恐怖症ではなかったか」と呟く。


「お前らに危機感が足りねえのはよーくわかった。いいか、物事には優先順位がある。探索者が森に出てまずやるのは、調査じゃなくて安全の確保。お遊びは神殿に着いてからだ」

「遊びではない。私はそもそも研究のために」

「うるせえ、黙ってついて来い!」


 躾のなっていない探索者と喧嘩する時専用の荒い声を出すと、編者二人はすっかり大人しくなった。足早に吊り橋を渡りきったところで、視界がふわりと白い霧に覆われる。立ち止まって数秒待てば、そこはもう花畑の入り口だった。「途切れ」だ。夜明けだった空も、明るい朝日が差し込む光景に変わっている。


「これが〈エリア移動〉か! 待て、移動前との距離が何尺あるか測りたい」


 勢いよく振り返って、シュドが生き生きと言った。確かに、吊り橋の終わり部分から一歩踏み出しただけで、目測でも三十歩分は移動している。それは面白いかもしれない。しおらしかった時間が一瞬で終わりを告げたことに深いため息をついて、モリンは言った。


「だから、全ては神殿に入ってからだ。安全を確保して、それからまず、色々聞かせてもらう。お前らが壁から飛び出してきた技は一体なんだ? あの雷はどうやって出した? 〈バグ〉についても、俺はまだ全然わかってねえ。お前らも、俺の力量をまだ知らねえ。研究を始めるのは、そういう情報の擦り合わせを終えてからだろ」


 伏し目の刺繍を真っ直ぐ睨みながら言うと、彼が返事をするより先に、イウが口を開いた。背伸びをしてシュドの耳元へ囁きかける。


「……モリンの言う通りにすることが、最善だと思う。彼女はとても賢い人。頭脳と経験の両方を持っている探索者に、我々は敬意を払わねばならない」

「……従おう」


 シュドが残念そうに頷く。モリンは「……わかればいいんだ」と呟くと、さっさと神殿へ向かって歩き出した。唐突に褒められて照れくさかったのと、塔の編者である二人が彼女を子供扱いしなかったことで、ちょっぴり泣きそうな気持ちになっていたからだ。

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