3 穴(モリン)

「……イウ?」

「ご、ごめんなさい」


 ふっと、唐突に恐怖と耳鳴りが消え去った。モリンは呆然として、伸ばしかけていた手をイウの肩にポンと乗せた。イウは弱々しい仕草で振り返り、そして「は、はずかしい」と言いながら地面を見下ろした。何かと思えば、苔むした地面にぽこんと、拳の半分くらいの大きさの穴ぼこができている。


「それは……!」


 シュドがすごい速さで身を乗り出し、這いつくばるようにして穴を覗き込んだ。イウが「……きゃっ」とやや遅く驚いている。間の抜けた光景をじっと見て、モリンは少しずつ冷えた指先に熱が戻ってくるのを感じた。


「……今の」

「素晴らしい! 予想通りだ! 見よ、この『果て』を。この漆黒の空間を。涙目よ、この穴を広げることは可能なのか。具体的には人ひとり通れる幅まで」

「ち、近……近い、伏し目、近い」


 がっしりと両肩を掴まれ、面と面が触れ合いそうなほど顔を近づけられたイウが死にそうな声を出している。シュドは長い銀髪をかき上げ、先の尖った耳を彼女の口元に寄せた。


「聞こえない。耳元で話せ」

「あ、穴は……絶望すると開いてしまう。暗闇の中、足元が崩れてゆくような心地がして、気づくと穴がある。それが深いほど、深く、大きな穴が」

「絶望? 君を絶望させれば大きな穴が得られるのだな? 君はどうしたら絶望する?」

「ど、どうしたら」

「今は何に絶望した?」

「面を外さないと、綺麗なものが見えなくて……けれど、外すのが恥ずかしくて」

「羞恥心を煽ればいいのか?」

「おい、やめろ」


 首根っこを掴んで引き剥がすと、シュドは「邪魔をするな」と言って再びイウに手を伸ばそうとする。ろくでもないが、大した度胸だ……とモリンは内心で少しだけ悔しく思った。彼に対抗するように、イウの肩を抱き寄せる。


「びっくりしたぜ、穴が開くって、もっと地味な感じかと思ってたからさ。具合悪くしてねえか? 怪我は?」

「……大丈夫。ごめんなさい」


 イウは困った様子でそわそわとローブの縁の星模様をいじり、そして小さな声で言った。


「虹を……」

「ん?」

「あなたがわたしに、虹を見せないと言えば、わたしは深く……絶望すると思う」

「……虹を見れないと、絶望すんの?」

「一生、この目で虹を見ることは叶わないと思ったから、わたしは資料室の床に大穴をあけてしまった。そのために、追われることになった」

「なるほど。君、協力したまえ」


 性懲りもなく耳を寄せていたシュドが言った。モリンは首を振った。


「しねえよ」

「一時的なものでよい」

「だから、しねえって」


 モモンガの少女はそう強く吐き捨て、回した腕に力を込めた。


「見せてやるからな、虹。そう契約しただろ? 探索者は契約を守る。虹も、花畑も、満天の星空も見せてやる。俺が見つけた綺麗なもの、全部イウに見せてやる。だから、そんなことで絶望すんな。叶えようともしてねえ夢を壊して、泣くなよ」


 イウは返事をしなかったが、涙目の面が頷きに合わせて小さく揺れた。シュドが「希望を与えてどうする……」と首を振り、そして彼はもぞもぞ焚き火の前に座り直しながら言った。


「他に絶望できる方法がないか、考えておくように」


 それだけ告げると、シュドはローブの懐から小さな巻尺を取り出し、イウの開けた穴の直径を測ったり、木の枝を突っ込んで深さを測ったりし始めた。


 モリンはダメだこりゃ、と思いながらも、おそるおそる果ての穴とやらを覗き込んだ。確かに……薪を足して大きくなった焚き火の炎に照らされているのに、そこには土も岩も水も、何もないように見えた。小石を拾って放り込み、耳を近づける。どこかに落ちる音は、何秒待っても聞こえてこなかった。


 ぞわっと、再び湧きあがった恐怖で背中に鳥肌が立って、モリンはイウの方を振り返らないように自分を律した。彼女は二人の編者と違って、こわばった顔を隠す面を持っていなかったからだ。


(イウが心の底から絶望することがあれば、隣に立つ自分も、あの小石みたいに――)


 そんな考えが頭をよぎる。しかし彼女は静かにひとつ深呼吸すると、すぐに顔を上げた。


「足場も底もない。入り口広げたところで中を探索できそうには見えねえな」


 お前もそう思うだろ、と隣の少女に苦笑を向ける。その瞳に恐怖の色は微塵も残っていなかった。探索者は、常に死と隣り合わせであるという恐怖を克服して初めて、熟練と呼ばれるようになる。そしてモリンは若くしてその無謀ともいえる勇敢さを身につけた、稀有な少女であった。


 身を寄せ合って眠り、残り火で炙った干し肉をパンに乗せるだけの軽い朝食を済ませ、モリンは燃え残った小枝に息を吹きかけて念入りに灰にしていた。


「ひとかけも消し炭が残らねえようにするんだ。少しの灰は土をよくするが、炭は百年残って森を汚す。朽ちない炭の下からは草も生えねえ。探索者がはじめに覚えさせられることだ」


 ふわふわの白い灰に水をかけ、土を混ぜながら埋める。こうしておくと、次の年には綺麗な花が咲いたりするのだ。


「探索者は、森を汚さない……」

「そう。世界の謎を調べるために、世界を壊してちゃ意味ないだろ?」

「……そう、かもしれない」


 ゆったりと頷くイウに笑いかけると、彼女は手を伸ばしてモリンの頭を撫でた。小動物でも触っているような手つきなのはあれだが、「とても綺麗……髪も、瞳も、宝石のよう」と囁いているのは少しだけ嬉しい。がさつな性格をしている彼女はいつだって周囲から男の子のように扱われていたので、「宝石のように綺麗」なんて言われたことがなかったのだ。


「……目とか、別に普通の茶色だろ」

「木陰では甘い焦がし砂糖色……光が当たると鮮やかな橙に燃える」

「やめろって……」


 少女二人が戯れている間、シュドは黙々と周囲を歩き回り、昨夜イウが開けた穴を探していた。寝ている間に塞がったのか、どこにも見当たらないのだ。


「無いなら消えたんだろ。焚き火の始末も終わったし、そろそろ出発するぞ?」

「なぜ、どのようにして穴は消えたのか……見逃したのは一生の不覚」

「わかったから、行くぞ。ひとつ谷を越えればすぐに花園集落だ。吊り橋、見たことないだろ?」


 荷物を背負って立ち上がると、研究馬鹿の編者様も流石に諦めたらしい。いや、違う。イウの耳元で「吊り橋は見せてやらない」と意地悪を囁いて絶望させようとしている。トン、と一飛びで距離を詰めてぶん殴った。


「痛っ!」

「お前はもうイウに話しかけんな」

「何を言う」

「モリン……わたしは伏し目の、こういうところに憧れている」

「はァっ?」


 耳を疑う囁きが聞こえた気がして、モリンは素っ頓狂な声を上げた。歩き出しながら肩を並べ、ひそひそ問い詰める。


「憧れって……おい、正気か?」

「なぜ?」

「いや、なぜってそりゃ、明白だろ……」

「わたしは心が弱いから、すぐに見たいものや、知りたいことを諦めてしまう。けれど伏し目は、誰に否定されても、抱いた疑問の答えを探し続ける。そういうところが……とても、素敵。かっこいい……」

「え、まさかお前、憧れって、あいつのこと好きなわけ? 恋愛的な意味で?」

「それは、尋ねてはだめ。恥ずかしい……」

「マジで?」


 モリンは何やら腕を組んで考え込みながら歩いているシュドを振り返り、自分の考えに夢中になって木の根に躓いたところまで見届け、かなり本気で「あいつはやめとけ」と言おうとした。


 がその時、彼女はそよ風に知った香りをかぎ取り、喉まで出かけた言葉を呑み込む。


「――おい、鹿ロクの匂いがする。大した相手じゃないが、一応俺の後ろに下がってろ」

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