2 焚き火(モリン)

 森は深く、日の光がほとんど届かない。薄暗い木陰に一筋の煙。焦げてきた魚を焚き火から遠ざけながら、モリンは大げさにため息をついて、立てた膝に頬を乗せる。


「お前らさあ……もうちょっと、こう、どうにかなんない?」


 ぱち、ぱち、と音を立てて揺れる炎を、イウがじっと見つめている。否、彼女は恥ずかしがって頑なに面を外そうとしなかったので、顔の角度からそのように見える、というだけだが。


 イウはかれこれ鐘ひとつぶん近く、無言のまま微動だにしていない。

 その隣ではシュドが、火打ち石と火打ち金を興味深げに延々とカチカチやっている。全く火花は出ていない。石の角だけが順調にすり減っていっている。火打ち石は消耗品なのだ、いい加減にしてほしい。はじめは彼の纏う独特の雰囲気に気圧されていたモリンだが、この数日でその気持ちはすっかり消えていた。


「焚き火が面白いのはわかったからさ、飯にしようぜ?」

「……燃えている。鮮やかな光が踊っている。この朱色は、モリンの髪の色によく似ている」


 するとイウが囁き声でしゃべった。息の漏れる音を聞き取ったシュドがさっと耳を近づけたが、やはり言葉までは聞こえなかったらしく首を捻っている。


「とても綺麗」

「お、おう……そうか?」


 自慢の赤毛を褒められて悪い気はしない。モリンはちょっともじもじしながら耳のところに垂れた毛を触り、それを見ていたイウが手を伸ばして彼女の頭をそっと撫でた。


「炎に、触れているような心地。内から輝くような、幻想的な色をしている」

「いや、褒めすぎだって……イウの銀髪の方が綺麗だろ」

「涙目はなんと? 〈オブジェクト〉破壊について話したか?」

「だからお前は、意味がわかる言葉で話せ。何だよオブジェクトって」

「物体」

「突然しゃべらねえよ、そんなこと」


 ようやく焚き火から意識を逸らした編者達に、炙った魚を渡してやる。二人とも素直に受け取って口をつけたが、胸の真ん中あたりまで垂れている瞳面のせいで、とても食べにくそうだ。


「パンも食うだろ?」

「パン……小麦を練って焼いたもの」とイウ。

「そうそう。南からの帰りだったからな、米じゃないんだ。食ったことあるか?」

「ない……そのパンは、モリンの非常食では」


 イウが困ったように魚を下ろし、シュドも小さく頷いた。かなりへんてこだが、悪い奴らではないのだ。シュドに関しては「たぶん」がつくが。


「遠慮すんな。明日中には集落に着くと思うし」

「この方角ならば、花園集落か」

「おう。信頼できる筋から色々調達すっから、その間は隠れててもらうぞ」

「花園……」


 渡された一切れのパンを抱きしめて、イウがどことなくうっとりした声で囁いた。


「綺麗だぜ、色とりどりで。この辺は夜明けの区域だが、花園集落はもっと爽やかな朝日が差してる。朝露がキラキラしてさ、きっとお前は好きだと思う」

「色とりどりの、朝の花畑」

「まあ蝶だらけだから、遠くから見るだけだけどな。刺されず歩けるのは神官達だけだ」


 早々に食べ終えたモリンは鞄から小瓶を取り出して、淡い青色の光を放っている液体を短刀の刃に細い筆で丁寧に塗りつけた。手元に二組の視線を感じて、問われる前に解説してやる。


「光毒だよ。光脈から採れる光石って見たことあるか? あれを蝶の蜜で溶かしてある。人間には効かねえが、黒怪には効果覿面の安全な毒だ」

「見たことあるも何も、光石は塔の壁面に嵌め込まれているだろう」

「あ、そっか」

「それを……光る絵の具として、使うことはできる?」

「え?」


 思いもよらぬ質問にモリンは目をぱちくりとさせたが、少し考えて頷いた。


「東の方の集落で、光毒の化粧をする部族に会ったことがあるよ。夜の区域でさ、額にでっかい目玉模様が描いてあって、それが暗闇で光ってんの。蜜だから甘いけど、毒にしちまえば腐らねえし、虫除けにもなるらしい。絵画なんかにも使えると思う」

「ほう、虫除けに……」

「塗ったとこ全部光るけどな」


 そわそわしているイウに小瓶と筆を渡してやると、彼女は少し迷って、ローブの縁に刺繍されている星の模様をひとつ、液を含ませた筆でそうっとなぞった。とろりと青い蜜が染み込んで、小さな星がふんわりと光り始める。彼女はそれを見つめて再び動かなくなった。モリンより随分背が高く、どうやら歳もひとつ上らしいが、行動はまるで子供だ。


(けど……こいつら、生まれて初めて外に出たんだよな)


 外から見る限り、塔に窓はひとつもない。もしかすると、彼らは空さえも初めて目にしたのかもしれない。頬に風を感じるのだって初めてかもしれない。


(そんな生活、想像もつかない)


 湿っぽくなりかけた胸中の何かを吹き飛ばすように、モリンは鈍く赤い光を放つだけになった熾火へ、ふうっと息をかけた。途端に大きく燃え上がる炎を見て、編者二人が同時に前のめりになる。笑いがこぼれる。


 イウが迷うように胸元で手をさまよわせてから、そうっと、瞳面を鼻の高さまで捲って、ふっ、とやわらかく、蝋燭も消せないような弱い息を吐く。ゆら、と僅かに揺れる光を見て、ぎゅうっと胸の前で手を握る。


「……お前ら、あんまり顔隠してる意味ないよな」


 そう言うと、涙目と伏し目の刺繍がくるりとこちらを向いた。「え?」という声が聞こえてきそうな動きだ。


「探索者にはあんまりいねえが、塔の外の集落にも顔を隠してる奴らはいる。そのほとんどが神官だ。神秘の存在であるために、人間らしい感情を悟られねえようにしてるんだ。でもお前ら……くっ、顔が見えねえのに、ふっ、興味津々なの丸わかりだし」


 くっくっ、と肩を震わせていると、イウが「丸わかり……」と呟いて恥ずかしそうに丸くなった。


「そんなんじゃ視界も悪いだろ。外しちまえよ、せっかくの外の世界がよく見えねえぜ?」

「よく……見えない。外さないと、虹も」


 イウの囁きが真剣みを帯びた、と思った瞬間だった。

 突如、全身に強い怖気が走ってモリンはその場から動くこともできず息を詰めた。ゥワン、ヮン……と波打つような低い耳鳴りが頭を埋め尽くす。


「……何だ、これ」


 歯の隙間から声を絞り出し、モリンはイウを抱き寄せようとして、躊躇した。その正体不明の理不尽な恐怖の源が、どうも彼女であるように思えたのだ。


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