3 いいぜ(モリン)
豊富な知識を持ち、高い水準の報告書を書くことでそこそこ名の知れていたモリンは、自分が「バグ」という言葉を寡聞にして知らなかったことを、少し悔しく思っていた。
が、どうやらそれは当然のことであったらしい。というのもその存在は、探索者達は勿論、大半の編者様達にも知らされていないのだという。
「創世の神〈プログラマ〉の叡智と呼ばれ、禁忌として厳密に管理される情報の中で、最も危険度の高いもの。それが〈バグ〉、無差別に全てを滅ぼしてゆく世界の綻びだ」
ずるずると地面を引きずっていた長いマントを脱ぎ、慣れない手つきで絞りながら、「伏し目のシュド」と名乗った編者が言った。
「世界の、綻び……?」
「とはいえ〈バグ〉にも色々ある。大半は単一の個体が狂った動きを繰り返すようなものだが、特に危険なのが、物体を破壊する類の〈バグ〉だ。暴力的、という意味ではない。それは物理法則を易々と破り、そして時に、大地に不可解且つ恒久的な破れ目を作り出す――」
彼が一言話す度に、イウが怯えたように肩をすぼめる。モリンはその背中をポンポンと叩いてやりながら、首を捻った。
「大地の破れ目、ねえ……?」
「そしてその中には何もない。土も、石も、水も、何もだ。あるのは空気と、無の空間のみ。すぐ隣を掘れば土をかき出せる大地が、突如として、世界の果ての入り口へ変貌する。落ちれば二度と這い上がれず、果てなき空間を永遠に落下し続ける」
言葉を切って、今度は長い袖やズボンの裾を絞り始めたシュドに、モリンは困り顔を返した。
「いや……意味わかんねえし、とても信じられるような話じゃねえけど……でもまあ、お前達が壁から突然飛び出してきたのを見たからな。そういうでたらめなことをやらかす人間の話だ、でたらめとも言い切れねえ。――で、それが追われてる理由とどう関係あるわけ?」
「この涙目は、史上初めて発見された人型の〈バグ〉だ。それも、『果て』を生み出すことのできる種の」
「はあ?」
背を叩く手を止めて、項垂れながら震えている少女を見る。危険人物にはとても見えないが、反論の囁きもない。
「この〈バグ〉は資料室の床に穴を開け、処刑されるところだった。あの三ツ目達は処刑人だ」
「……つまり、お前らの方がお尋ねもんだったってわけ?」
「端的に言えば」
これは、やっちまったかもしれん――とモリンは思った。あの怪しい風体の籠頭達はつまり、塔の暗部のような存在だったらしい。そして彼らが上の命を受けて始末しにきた危険人物に、モリンは手を貸してしまったと。
探索者として「終わった」かもしれない可能性に冷や汗が背をつたったが、しかし彼女は気を取り直して言った。
「でもシュドの兄さんは、恋人……には見えねえな。ダチのイウを救うためにあの大立ち回りを繰り広げたってわけだろ? カッケエじゃん。イウも悪いやつには見えねえし、俺は、後悔……してねえぜ。うん」
「いや」
「え?」
「貴重な人型、それも意思疎通の可能な〈バグ〉を研究もせず処分するなど、言語道断。この場の存在を秘匿していた君ならば理解できるだろう? まずは取り上げられる前に、自らの手で調べたい」
「血も涙もねえじゃん……」
とうとう頭を抱えたモリンに、誰かの手が触れた。顔を上げると、イウが「ごめんなさい」と囁きながら、彼女の赤い髪を震える手で撫でていた。
「いや……お前が謝ることじゃ」
「こんなに可愛くて小さいのに、巻き込んでしまった」
「いや俺、これでも十五歳……お前、ほんとに『果て』とやらの穴を開けられるのか?」
尋ねると、イウは瞳面の揺れでしかわからぬほど小さく頷いた。
「物心ついたころから……当たり前に、みな、できることだと思っていた。そうではないのだと、今日、知った。けれど、ごめんなさい、モリン。わたしはどうしても、虹が見たい。ずっと……ずっと憧れていた。わたしが殺されるべき存在なのだとしても、どうしても、死ぬ前に虹を見てみたい」
(――ああ、こいつはいい奴だ)
ストンと、何か小さく光るものが腑に落ちた。イウは〈バグ〉とやらかもしれないが、その心根は特別、純粋なものでできている。探索者としての直感がそう言っていた。モリンは膨れ上がりつつあった困惑と焦りが消えてゆくのを感じながら、小さく微笑んだ。
「……そっか。俺にもあるよ、死んでも叶えたい夢」
「それは、なに?」
「俺は――」
「〈バグ〉は何と?」
囁き声を聞き取れないシュドが大事なところで身を乗り出し、モリンは顔をしかめた。ちらりと面が捲れ、首筋にびっしりと黒い刺青のような紋様が描かれているのが見える。イウと違ってこちらの青年は、まあ悪党ではなさそうだが、どこか薄ら寒いような底知れぬ雰囲気を漂わせている。怖いものには毛を逆立てて立ち向かう質の少女は、シュドにじろりと険しい目を向けた。
「お前はさ、まずこいつを〈バグ〉って呼ぶのやめろよ」
シュドはそれを聞いて不思議そうに首を傾げたが、モリンが強く睨みつけると、肩を竦めて「失礼、涙目」と言った。その程度のことを譲れる心はあるらしい。
「伏し目……」
聞こえない声でイウが言い、二人の編者が瞳面の刺繍で見つめ合う。どちらも、何を考えているのか全くわからない。モリンは彼らの様子をしばし見つめ、そして濃い灰色の糸で縫い取られた涙目をじっと見た。「虹を見たい」と夢を語る彼女の、胸が抉られるような切ない囁きを思い出す。
(まあ、いいか。これから知っていけば)
「――おい、編者様がた。俺を専属にしろよ」
唐突にそう言ったモリンを、二人の編者が揃って刺繍の目で見つめる。
「俺は、編者様専属になって、新しい土地を調査するのが夢なんだ。イウ、虹を見たいって言ったな? いいぜ、見せてやる。シュド、お前らを処刑人からも、獣からも守ってやる。だからお前らが俺の夢、叶えてくれよ」
ニッと笑って言う。先に反応したのはイウだった。
「虹を、本当に……見せてくれるの」
気弱な声を「おう!」と肯定してやれば、小さな声で幸せそうに「ありがとう……」と返ってくる。胸元でそわそわさせていた細い指が、きゅっとやわらかくモリンの手を握った。
「わたしも……モリンの夢が叶うように、頑張る」
「頼むぜ、編者様」
「ふむ、契約成立だな。君に専属として完全なる未知の土地、果ての探索を依頼しよう」
「は?」
そしてシュドは何やら、突拍子もないことを言い出した。
「……果ての、探索?」
「いかにも。このバ……涙目、が切り開く穴向こう、そして各区域の外周を取り囲む霧の彼方。私は
「区域の外周、って……地図の端っこを囲んでる『迷い霧』のことか? なんも見えねえ、コンパスも使えねえ、踏み込んだら二度と戻って来られない霧の中の、地図を作る?」
「ああ。あの霧の彼方には世界の果てがあると、各地の集落に伝説があるのだろう。その真偽を、確かめたいと思わぬか」
「いや、馬鹿じゃねえの?」
モリンが言うと、研究狂いの青年は「……馬鹿?」と低い声で復唱した。
「君、十秒と経たずして契約を反故にするつもりかね」
「いや、そうじゃねえけど……まあ馬鹿みてえだが、夢ってのはでかいほど馬鹿の詰め合わせになるもんだからな。俺は夢を語るやつは尊重するよ。できる限り、手伝ってやる」
「はじめからそう言いたまえ。ならば早速――」
「おい待て、いきなり霧に突っ込む気じゃねえだろうな? 物資の調達と事前調査が先だぞ」
ぴしゃりと言うと、シュドは本気で世界の果てへ突撃するつもりだったのか、機嫌を損ねたように黙り込んだ。このおかしな世間知らず達の舵取りをしてゆくことを思って、一瞬気が遠くなったモリンだったが、腕のいい探索者である彼女は、そんな時の対処法にも精通していた。
つまり、とりあえず食って寝るのだ。
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