2 妖精(モリン)
「おい待て、待てってば! そこはもう安全地帯じゃねえ! 丸腰で踏み込めば死ぬぞ!」
淡い霧の立ち込める木立を駆けてゆく編者様は、モリンの声にも止まらない。彼女は短く舌打ちして、薄れてきた煙幕を振り返ると、手近な木を垂直に駆けのぼって飛んだ。森に紛れる灰緑の影が混み合った木々の間を器用に滑空し、ひらりと目の前に着地する。
「待てって言ってんだろ!」
「深入りするなと言ったはずだ」
そう言って赤毛の少女を見下ろす編者は、近寄ると怖いくらい長身に見えた。今までに彼女が見たことのある誰よりも高く、おそらくモリンの倍はある。
「催涙の煙幕を張ってきたから、しばらくは大丈夫だ。森を行くなら、俺が護衛してやる」
「イデンはそれでよいだろうが、ユロは盲目だ。そもそも視覚を必要としていない」
「えっ?」
ユロ。
モリンの背後を取った、あの気配がない少年の名だ。とても見えていないとは思えない動きだったが……と眉根を寄せる彼女の耳に、パキ、と枝を踏む幽かな音が届く。
「……マジかよ」
よろめきながら現れた小柄な籠頭に、モリンは引き攣った笑みを浮かべた。咳き込んでは数歩進んで、籠の中に手を突っ込んで目や鼻を拭い、また咳き込みながら、確実にこちらへ歩いてくる。モリン達は息を殺したが、少年はチ、チ、チ、と小さな舌打ちをしたかと思うと、真っ直ぐに標的へ顔を向けた。
(まずい)
モリンが飛び出した瞬間、ユロの方もよろよろしていたのが嘘のように素早く身構え、走り出す。走りながら刀を構える。目も鼻も肌も激痛に苛まれているだろうに、とんだ根性だ。
振り抜かれた刀を避けたモリンはひらりと飛んで頭上の枝に掴まったが、その枝は大きくしなったところを狙ってすっぱりと根元から切断された。木こりの大斧でも一撃では不可能だろう、モリンの胴体くらいある太い枝を、音もなく一太刀でだ。
その切れ味と神業的な剣技に、モリンは地面を転がりながらヒューと口笛を吹いた。
「というか、音だけでこんだけ動けるのか……すげえな」
拳大の球体を取り出したモリンの動作にユロは反応したが、黒い油紙が見えていない彼は、煙幕を警戒して袖で鼻と口を覆う。その瞬間、籠頭の足元で癇癪玉が炸裂した。バンバンと連続で弾ける大音響に、少年はつんのめるように立ち止まって耳を押さえる。
「こっちだ」
そう囁いたが、キーンと耳鳴りがしていて自分の声も聞こえない。モリンは仕方なく編者の袖を引き、素早く森の奥へ駆け込んだ。木の上に飛び上がり、頼みの聴覚を奪われた籠頭が自分を見失っていることを確認して、ガサガサと繁みをかき分ける。
「これは」
「出口に藁束積んであるから、思いっきり滑っていいぞ」
緑に錆びた青銅の蓋を、絡んだ蔓草を切らぬようにそっと半分だけ持ち上げる。その暗い隙間に編者様が滑り込み、意外なほど躊躇なく、滑らかな斜面になったそこを滑り降りていった。ニヤリと笑ってモリンが続く。重たい音を立てて金属の蓋が閉じ、その入り口を分厚い植物の層がしっかり覆い隠した。
内部は真っ暗闇だったが、しゃわんと乾いた音がして、前方で二人が藁へ着地したのがわかった。後ろから追っていたモリンは、ぼんやりした青い光が見え始めたところで体勢を整え、出口のところで弾みをつけて飛び上がった。案の定、まだ藁束の上でもぞもぞ起き上がろうとしていた編者の頭上を超え、華麗に宙返りすると、石の床に音も立てず降り立つ。
「……ここは」
「俺の秘密基地。……よし、息はしてるな」
モリンは素早く編者様に近寄って、抱えられたもう一人の容体を確かめにかかった。呼吸は安定していて、服に血が染みていたりもしない。
「この人、どうしたんだ?」
「壁抜けの〈グリッチ〉に驚いて気絶したらしい」
「面は少し捲っといてやれ。これじゃ息苦しいはずだ」
「……いや、それは」
編者の男が渋ったが、モリンは「鼻と口だけだから」と言って、涙を流す目が刺繍された長い布をさっと捲った。仰向けに抱き上げられているせいで、濡れた布が呼吸を妨げている様子だったのだ。
「……うわ」
そして、面の下から現れたその少女の容貌に、モリンは目を丸くした。雪のように透き通り青褪めた白い肌に、凍るような銀の髪。そして何よりも――
「耳が尖ってる……こいつ、妖精か?」
「違う」
「もしかして、編者様ってみんなこういう耳してるの?」
「それよりも、この場所は何だ」
静かに脅してくるような声に、モリンは一旦追及を諦めて肩を竦めた。
「こないだ見つけた古い地下通路なんだけどさ。地図にない場所なんて報告したら、大人の測量調査隊に横取りされちまうだろ? だから俺が先に探索してから教えてやろうと思って」
「塔の外壁と同じ青紋が刻まれているが」
「だな。元々はどっかで繋がってたのかもしれねえ。でもそっち方面の道は崩れてるから、地下から追手が来る心配はねえぜ。模様が光ってるからさ、松明がいらねえんだ」
「塔の方角へ繋がる道があるのか」
とその時、興味深そうにきょろきょろする編者様の腕の中で小さく呻き声が上がった。持ち上がった真っ白な指先が、手探りに泣き目の面を深く引き下ろす。咳き込んで、くしゃみをして、震え出した。無言で見下ろしている男の横から声をかける。
「おい、大丈夫か? 痛いところとか、吐き気とかないか? ……着替えは無いよな?」
「な、ない……だれ」
弱々しく掠れた囁き声。このままでは風邪を引きそうだ。
「少し先に広い部屋がある。そこで火を熾そう。服を乾かさねえと」
「いや」
首を振る半開き目の編者に、モリンはポンと鞄を叩いてみせる。
「焚き火台と固形燃料を持ってる。床で直火じゃねえよ」
「……それならば」
細かく震えている泣き目の編者様を抱えたまま、狭い通路を早足に抜けて、三人はちょっとした広間のようになっている場所へやってきた。
モリンは腰のベルトに下げた細い棒の束を取ると、巻きつけてある紐を解き、ピンと指で真ん中あたりを弾いた。カチャンと金属質な音を立てて骨組みが展開され、折り畳まれていた鎖布が広がる。あっという間に、背もたれのない小さな腰掛けのようなものが出来上がった。
「貴重な遺跡の床を焦がすのは御法度だからな。探索者は全員こういう焚き火台を持ってる。火花が爆ぜない固形燃料もだ」
そう言いながら、少女は鎖布の上に拳大の岩石を乗せ、そこに手慣れた動作でカチンと火打ち石を一打ち。散った火花の触れたところから、石が透き通ってじわりと赤い光を放ち始めた。
「これ一個で鐘六つ分は保つ。湯も沸かしてやっから、ゆっくりあったまれ」
「……ありがとう。わたしは『涙目』のイウ。あなたは?」
煌々と輝き、炎と変わらぬ熱を発し始めた石の前に座った泣き目の編者様が、小さな小さな囁き声で言った。少し頭がハッキリしてきたらしい。
「俺はモリン、花園の『モモンガ』だ。よろしく、イウ」
「……モリン? 花園集落の、モリン?」
やわらかな小声がにわかに緊張した響きになって、モリンは少し身構えた。
「そうだけど……知ってるのか、俺のこと」
よろめきながら立ち上がった少女を、慌てて支えてやる。半開き目の編者様よりは小さいが、それでもモリンより頭ひとつ分は背が高い。あの尖った耳といい、やはり普通の人間ではないのかもしれない……そう思っていると、推定妖精の少女イウは華奢な白い指でモリンの肩を掴み、どこか切羽詰まったように震える声で囁いたのだった。
「わたしに……わたしに虹を見せて、モリン。お願い、わたしを、水中遺跡へ連れていって」
「虹を? そりゃまた、なんで」
モリンが戸惑いながら、思わず同じような小声を返した時、背後から半開き目の編者の困惑した声がした。
「先程から……君は、〈バグ〉と話しているのか?」
「は? バグって、イウのことか?」
「〈バグ〉は、口が利けるのか?」
「……もしかして聞こえてないの?」
言われてみれば、モリンは特別耳がいい方だ。けれど同じ種族?の編者様にも聞こえない程どは思わず、何よりどうやら口の利けない人物だと思われていた様子に、彼女は首を傾げた。
「ちっちゃい声だけど、ちゃんとしゃべってるぜ? ……なあ、お前らってどういう関係なの? というか、なんで、誰に、追われてるんだ?」
そろそろ聞いておかねばと姿勢を正すと、その真剣さを感じ取ったか、半開き目の編者様はボソボソした口調で実に奇妙なことを語り始めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。